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第1章
その48 幼稚園からの世界史入門(続)
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48
「キスして」
ルナ(この都ではムーンチャイルドと名乗っている)の可愛いおねだりに、もちろん、おれは喜んで応じた。
強く抱きしめて、三つ編みにした艶やかな黒髪のひと房を鼻に寄せる。
相変わらず、花のような良い香りがする。
思わずお下げをつかんで、きっちりと結ばれている紐をほどいて三つ編みを崩してしまいたい欲求にかられる。
だけど公衆の面前で行うのは『はしたない』からだめ。
キスをする。
柔らかい。いい香り。
なんともいえない陶酔に、身体が熱くなっていく。
いかんいかん!
気をつけないと!
どうにか衝動を抑えて、唇を離した。
「あら、それ以上は、しないの? 珍しいこと」
鈴を振るような透き通った声が、おれの心臓の近くで、鳴った。
精霊の声だ。
ルナを守り育てた、精霊界における保護者、ラト・ナ・ルア。
精霊(セレナン)が、顕現する。
その出現は、独特だ。
空気の中からにじみ出る、とでもいうか。
ラト・ナ・ルアの場合、まず現れるのは、白くほっそりとした「腕」からである。続いて、銀色の長い髪に覆われた素足の先。透明なカーテンを開けて、その向こう側の『精霊界』からやってくるかのように、小柄で華奢な少女が、現世に降臨する。
「やっぱり。きっとどこかで見てると思ってたよ、ラト姉」
「もちろん。あたしたちの愛し子カルナックを、ケダモノの前に一人で行かせるわけないでしょ。他にどうしても外せない案件でもないかぎり」
黙ってさえいれば神々にも等しく思える美貌の面差し。十四、五歳と見える美少女が、腕組みをし、冷ややかな眼差しを向けてきた。ツンデレ精霊。おれにはツンなところしか見せないけど。
「ケダモノって、おれのこと?」
「自覚はないわけ? ふふん。そうだったわね。人間なんてどれもこれも同じ、所詮はケダモノだったわ。コマラパは別よ。彼はカルナックの父親だし、もう半ばは人間ではない。あたしたちの側に立っている存在だから」
「そうだろうな」
おれはコマラパの顔を思い浮かべる。普段は温厚で人当たりの良い、真っ白な顎髭を蓄えたケンタ……いやサンタクロースみたいな中年男性だが、一瞬で、ものすごい威圧を放ってくるからな。
もしもルナに手を出していたら、怒り狂ったコマラパに殺されるか、精霊に瞬殺されるか、その両方か。
「ラト姉さんが言ってた。今は、リトルホークはキス以上のことはできないって。だから、安心して会いにきたんだ」
まだおれに抱きついたままのルナが、くすっと笑う。
「そういうことか~! おねだりなんて初めてだと思ったよ」
「これまでの前例では、一回のディープキスにつき一歳ほど成長してしまうのよね。だから、あたしたちの目をごまかすなんて不可能。そうしたら、先日、カンバーランド卿の起こした騒ぎのどさくさにまぎれてリトルホークが求婚して強引に勝ち取った婚約も、どうなるかわからないわねえ」
「皮肉か?」
「ふんっ!」
ラト・ナ・ルアは、お怒りである。
「それなのにカルナックったら、あたしたちの目を盗んで一人でリトルホークに会いに行っちゃうんだもの。気が気じゃない。あんたが学院の男子寮に入ってくれて良かったわ」
「そうだよ。今夜からリトルホークは寄宿舎に入るもん。男子寮まで会いに行けないし」
ルナの目が潤んでいる。
「それにね……《呪術師》が、早く意識を交替しろってせかしてる。せっかくみんなに配った水に、お薬をまぜておいて眠らせたんだから」
「やっぱりか!」
おれは呆れた。
「理由はおれと同じ。《呪術師》も、おまえと、邪魔者抜きで思いっきりイチャイチャしたいって」
「誤解を招く表現すんな!」
「怒った? いやなの? おれと、こうしていること」
心配そうに、可愛いルナは、首をかしげて見上げてくる。
ああ、もう。
「反則だよ……いやなわけ、ないだろ」
抱きしめて、キスをした。
「でも、覚悟がいるんだからな。《呪術師》とキスするのは」
おれは正直に告白する。
「そりゃそうでしょうね」
ラト・ナ・ルアは笑っていた。
「あの子は成人男性だもの。リトルホークの貞操が危機に陥るかもしれないわね。だけどどうなの。ほんとのところ。そんなにイヤじゃないんじゃない?」
「ラト姉。面白がってるだろ」
「それに、香織には会いたくないの?」
「……会いたいよ」
おれはメランコリーなため息をつく。
カルナックの魂の奥底に眠っている《香織》さん。彼女にはすっごく会いたい。
けど、非常な緊張感を伴うんだ。
つらい。なんて贅沢な悩みだ。
※
「あら……?」
教師ジュリエットは、はっと、自分がいつの間にか椅子に座ったまま教壇に顔を伏せて眠ってしまっていたことに気づいて、顔をあげた。
「やだ、私、とんでもないことを」
「よく眠っておられましたよ。疲れていたんでしょう。とても可愛らしい寝顔だったので起こしませんでした」
目覚めれば傍らに《呪術師》がいて、優しく微笑みかけてきた。
「お恥ずかしいですわ」
「生徒達も、ちょうど昼寝をしたかったようです。ご心配には及びません。皆が眠っている間に、絵本を作っておきましたから」
「絵本?」
「そう、わたしの養い親の精霊ラト・ナ・ルアと、ここにいるリトルホークが手伝ってくれました」
「まあ! 精霊様がここに!?」
とたんにジュリエットは目を輝かせ、あたりを見回す。
「もう行ってしまいましたがね」
「ああ~、寝てしまっていなければお会いできたのに。私、ラト・ナ・ルア様の大ファンなんですのよ……いつかレフィス・トール様にもお会いしたいです……」
「二人に伝えておきますよ。では、これを。見ていただけますか」
手渡された大判の薄い本を手にして、ジュリエットは、目を見張った。
「幼稚園からの世界史入門? 教材ですの?」
「そんなところです」
微笑む《呪術師》。
その隣にいる、今日から編入してきたリトルホークも、照れくさそうに笑っている。
やがて、眠っていた生徒たちも、一人、二人と、起き出してきた。
「おひるね~」
「ねてた~」
「みんなにわかりやすい絵本を作ったよ。では、皆、前に出て、一緒に見よう」
生徒たちは席を立って《呪術師》に近づいた。
絵本の表紙に描かれていたのは、銀色の髪をした、背の高い女神。そしてその前に立っている、十数人の人々だった。
「わたしが読むのを、聞いていて」
絵本を広げ、子どもたちによく見えるように差し出して、《呪術師》は、語り始めた。
※
『とてもとても遠い昔のこと。ここから遙かに離れたところに、白い太陽ソルに照らされた世界があった……』
「現在、聖堂教会は白き太陽神ソリスと記していますわ」
ジュリエットが、思わず独り言をもらす。
「彼らは自分たちの利益のために大幅な事実の改竄を行っています。でもミス・ジュリエット。まだ、学院関係者以外には、あまり口になさってはいけません。あなたの身に危険が及びかねませんからね」
「あ、はい。わかりましたわ」
『太陽神ソル。月の女神ルーナ。そしてあまたの星々に見守られた、その大地の名前は』
『青き大地』
『豊かな水と清らかな空気、大自然の恩恵を受けていた世界。人間達も、たくさん暮らしていた』
『そこは理想郷。長い長い時間が過ぎて、人間たちが、大自然に活かされていることを、忘れてしまうまでは……』
「キスして」
ルナ(この都ではムーンチャイルドと名乗っている)の可愛いおねだりに、もちろん、おれは喜んで応じた。
強く抱きしめて、三つ編みにした艶やかな黒髪のひと房を鼻に寄せる。
相変わらず、花のような良い香りがする。
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だけど公衆の面前で行うのは『はしたない』からだめ。
キスをする。
柔らかい。いい香り。
なんともいえない陶酔に、身体が熱くなっていく。
いかんいかん!
気をつけないと!
どうにか衝動を抑えて、唇を離した。
「あら、それ以上は、しないの? 珍しいこと」
鈴を振るような透き通った声が、おれの心臓の近くで、鳴った。
精霊の声だ。
ルナを守り育てた、精霊界における保護者、ラト・ナ・ルア。
精霊(セレナン)が、顕現する。
その出現は、独特だ。
空気の中からにじみ出る、とでもいうか。
ラト・ナ・ルアの場合、まず現れるのは、白くほっそりとした「腕」からである。続いて、銀色の長い髪に覆われた素足の先。透明なカーテンを開けて、その向こう側の『精霊界』からやってくるかのように、小柄で華奢な少女が、現世に降臨する。
「やっぱり。きっとどこかで見てると思ってたよ、ラト姉」
「もちろん。あたしたちの愛し子カルナックを、ケダモノの前に一人で行かせるわけないでしょ。他にどうしても外せない案件でもないかぎり」
黙ってさえいれば神々にも等しく思える美貌の面差し。十四、五歳と見える美少女が、腕組みをし、冷ややかな眼差しを向けてきた。ツンデレ精霊。おれにはツンなところしか見せないけど。
「ケダモノって、おれのこと?」
「自覚はないわけ? ふふん。そうだったわね。人間なんてどれもこれも同じ、所詮はケダモノだったわ。コマラパは別よ。彼はカルナックの父親だし、もう半ばは人間ではない。あたしたちの側に立っている存在だから」
「そうだろうな」
おれはコマラパの顔を思い浮かべる。普段は温厚で人当たりの良い、真っ白な顎髭を蓄えたケンタ……いやサンタクロースみたいな中年男性だが、一瞬で、ものすごい威圧を放ってくるからな。
もしもルナに手を出していたら、怒り狂ったコマラパに殺されるか、精霊に瞬殺されるか、その両方か。
「ラト姉さんが言ってた。今は、リトルホークはキス以上のことはできないって。だから、安心して会いにきたんだ」
まだおれに抱きついたままのルナが、くすっと笑う。
「そういうことか~! おねだりなんて初めてだと思ったよ」
「これまでの前例では、一回のディープキスにつき一歳ほど成長してしまうのよね。だから、あたしたちの目をごまかすなんて不可能。そうしたら、先日、カンバーランド卿の起こした騒ぎのどさくさにまぎれてリトルホークが求婚して強引に勝ち取った婚約も、どうなるかわからないわねえ」
「皮肉か?」
「ふんっ!」
ラト・ナ・ルアは、お怒りである。
「それなのにカルナックったら、あたしたちの目を盗んで一人でリトルホークに会いに行っちゃうんだもの。気が気じゃない。あんたが学院の男子寮に入ってくれて良かったわ」
「そうだよ。今夜からリトルホークは寄宿舎に入るもん。男子寮まで会いに行けないし」
ルナの目が潤んでいる。
「それにね……《呪術師》が、早く意識を交替しろってせかしてる。せっかくみんなに配った水に、お薬をまぜておいて眠らせたんだから」
「やっぱりか!」
おれは呆れた。
「理由はおれと同じ。《呪術師》も、おまえと、邪魔者抜きで思いっきりイチャイチャしたいって」
「誤解を招く表現すんな!」
「怒った? いやなの? おれと、こうしていること」
心配そうに、可愛いルナは、首をかしげて見上げてくる。
ああ、もう。
「反則だよ……いやなわけ、ないだろ」
抱きしめて、キスをした。
「でも、覚悟がいるんだからな。《呪術師》とキスするのは」
おれは正直に告白する。
「そりゃそうでしょうね」
ラト・ナ・ルアは笑っていた。
「あの子は成人男性だもの。リトルホークの貞操が危機に陥るかもしれないわね。だけどどうなの。ほんとのところ。そんなにイヤじゃないんじゃない?」
「ラト姉。面白がってるだろ」
「それに、香織には会いたくないの?」
「……会いたいよ」
おれはメランコリーなため息をつく。
カルナックの魂の奥底に眠っている《香織》さん。彼女にはすっごく会いたい。
けど、非常な緊張感を伴うんだ。
つらい。なんて贅沢な悩みだ。
※
「あら……?」
教師ジュリエットは、はっと、自分がいつの間にか椅子に座ったまま教壇に顔を伏せて眠ってしまっていたことに気づいて、顔をあげた。
「やだ、私、とんでもないことを」
「よく眠っておられましたよ。疲れていたんでしょう。とても可愛らしい寝顔だったので起こしませんでした」
目覚めれば傍らに《呪術師》がいて、優しく微笑みかけてきた。
「お恥ずかしいですわ」
「生徒達も、ちょうど昼寝をしたかったようです。ご心配には及びません。皆が眠っている間に、絵本を作っておきましたから」
「絵本?」
「そう、わたしの養い親の精霊ラト・ナ・ルアと、ここにいるリトルホークが手伝ってくれました」
「まあ! 精霊様がここに!?」
とたんにジュリエットは目を輝かせ、あたりを見回す。
「もう行ってしまいましたがね」
「ああ~、寝てしまっていなければお会いできたのに。私、ラト・ナ・ルア様の大ファンなんですのよ……いつかレフィス・トール様にもお会いしたいです……」
「二人に伝えておきますよ。では、これを。見ていただけますか」
手渡された大判の薄い本を手にして、ジュリエットは、目を見張った。
「幼稚園からの世界史入門? 教材ですの?」
「そんなところです」
微笑む《呪術師》。
その隣にいる、今日から編入してきたリトルホークも、照れくさそうに笑っている。
やがて、眠っていた生徒たちも、一人、二人と、起き出してきた。
「おひるね~」
「ねてた~」
「みんなにわかりやすい絵本を作ったよ。では、皆、前に出て、一緒に見よう」
生徒たちは席を立って《呪術師》に近づいた。
絵本の表紙に描かれていたのは、銀色の髪をした、背の高い女神。そしてその前に立っている、十数人の人々だった。
「わたしが読むのを、聞いていて」
絵本を広げ、子どもたちによく見えるように差し出して、《呪術師》は、語り始めた。
※
『とてもとても遠い昔のこと。ここから遙かに離れたところに、白い太陽ソルに照らされた世界があった……』
「現在、聖堂教会は白き太陽神ソリスと記していますわ」
ジュリエットが、思わず独り言をもらす。
「彼らは自分たちの利益のために大幅な事実の改竄を行っています。でもミス・ジュリエット。まだ、学院関係者以外には、あまり口になさってはいけません。あなたの身に危険が及びかねませんからね」
「あ、はい。わかりましたわ」
『太陽神ソル。月の女神ルーナ。そしてあまたの星々に見守られた、その大地の名前は』
『青き大地』
『豊かな水と清らかな空気、大自然の恩恵を受けていた世界。人間達も、たくさん暮らしていた』
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