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第1章

その42 危険な賭け。遅れてきたおれが悪い?

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 このエルレーン公国首都シ・イル・リリヤで、自らをグーリア帝国神祖皇帝ガルデルの末子レニウス・レギオンだと公言している《呪術師ブルッホ》。

 ガルデルに所在を知られる可能性も少なくはないというのに。

 ガルデル・バルケス・ロカ・レギオン。数十年前、レギオン王国の国教『聖堂』の頂点、『大教王』の座にありながら、『魔の月セラニス・アレム・ダル』に唆され、親兄弟、妻子、館にいた従者たち、全てを殺して忌名の神に捧げ、自らの不老不死を願い、叶った。

 人の心を持っているとは思えない、この怪物に殺されて、精霊たちに救われてから、レニウス・レギオンの名前を捨ててカルナックと名付け直した、おれの嫁。(ルナと呼ぶのは、おれだけの秘密の呼び名だ)シ・イル・リリヤではそれさえも隠してムーンチャイルドと名乗っている。

 ガルデルは、終始、末子レニに執着し続けた。
 本当の望みは、レニをそばに置いて共に永遠に生き続けることだった。抵抗されて逆上し、誤って殺してしまったために、それは叶わなかったけれど。
 そのガルデルが、レニウス・レギオンがまだ生きていると、もしも知ったら?
 どういう行動を起こす?

 おれはかつて、地上に降臨した『魔の月』本人の口から聞いた。
 カルナックと戦っている最中だったけれど、こちらの動揺を誘うために語ったことは、きっと事実だったと思う。

 与えられた不死を捨ててもいい、殺してしまったレニウス・レギオンを生き返らせてくれと、ガルデルは願った。
 そこだけ聞けば、同情も禁じ得ない。
 レニウス・レギオンが受けていた虐待のことを知らなければだが。

 おれは、やつを絶対に許さない。

 これは危険すぎる『賭け』ではないのか。
 レニウス・レギオンは自分自身を賭けの材料に?

 ……いやな予感がしてならない。

 反省室という名の、鳥籠に似た檻に入れられて、珍しくも神妙におれは考えていた。

           ※

「おねがい、リトルホークを檻から出してあげて」

 何度目になるだろう。
 おれの可愛い嫁ルナ……この都ではムーンチャイルドと名乗ってる……が、反省室という名前の牢獄に閉じ込められているおれのため、けんめいに《呪術師ブルッホ》に懇願をしてくれている。
 しかしながら、大食堂の中央テーブルに座り、ホール全体を見渡している《呪術師ブルッホ》の対応に変化は無い。
「却下」
 ただ鋭く切り捨てる返答だ。

「おねがい。リトルホークも、きっと反省してるから」
 なおも諦めずに《呪術師ブルッホ》の赦しを願うムーンチャイルド。なんてけなげで愛らしいのだろう。

 だがしかし。
「本当に?」
 眉を上げ、信じられるのかいと問い返す《呪術師ブルッホ》。
 とたんにムーンチャイルドは、言葉に詰まってしまう。

「……えっ。それは……」

 そこでなぜ絶対大丈夫だと言い切れないのかムーンチャイルド。
 ひとえに、これまでのおれの行いが悪いせいだろうけどさ。

「よろしい。では、あれを皆に」
「うん。わかった」
 何事かを《呪術師ブルッホ》は命じて、ムーンチャイルドは頷いた。
 おれを放免するのに、何か条件を付けられたのだろう。

 ムーンチャイルドは中央のテーブルの前に《呪術師ブルッホ》と並んで座り、目を閉じた。精神を集中しているようだ。
 やがて、周囲に青白い光が集まり始める。こぶし大から、頭ほどの大きさのものまで、数限りなく、ムーンチャイルドのまわりを包み込む。

 精霊火スーリーファだ。

 食堂にいる学生達に、さざめきが広がっていく。

 精霊と共にあることに慣れた、おれやカルナック(ムーンチャイルド)には、ごくあたりまえの眺めだが、普通の人間にとっては、そうではない。
 特に、レギオン王国や、エルレーン公国においては、畏怖の対象であるのだ。

 やがてそれらは全てムーンチャイルドの身体へと溶け込んでいく。その華奢な手のひらからにじみ出るのは銀色の光。それは、しだいに物体へと変化していった。

 クリスタルのように透明なガラスのコップだった。
 食堂にいる生徒達、全員の。
 おもむろにムーンチャイルドは立ち上がり、いつも肩にかけている斜めがけのポシェットから、水晶の水差しを取り出した。
 それと一緒に、純白の毛並みを持つ山ウサギ、ユキが顔を覗かせ、「キュ?」と鳴いたのは、ご愛嬌。その場の緊張をゆるめ、和ませた。

 大きな水晶の結晶そのものの中身をくりぬいた水差しの中に満ちている水は、底から細かい泡をたちのぼらせる特別な《精霊の水》だ。

 ムーンチャイルドは、グラスに水を注いでいく。
 数十ものグラスに水を注いでも、それは尽きることがない。

 まさに、奇跡だ。

 さらに。
 グラスは一つ一つが、ゆっくりと浮いて。
 生徒達の目の前に、飛んでいき、重さをもたないもののようにふわりと着地する。

「みんな、飲んで」
 ムーンチャイルドは、あどけなく、笑った。
「そうしたら、ほんの少しの間だけど、世界に満ちているエネルギーが見えるよ。どれくらいの間、それが見えているかは、人によって違う。ゆっくり、飲んで。一気にはダメ。酔っちゃうから」

「さあ、みんな」
呪術師ブルッホ》が、穏やかに微笑んで、手をあげた。
「我が妹ムーンチャイルドの手になる奇跡の水を、ゆっくり飲んでくれ」
 その合図で。
 それこそ魔法にかけられたように、生徒達は黙ってグラスに口をつけ、中身を飲み干していくのだった。

 食堂のそこかしこで、生徒達のため息がもれ。
 驚きの声が、あがる。
「やった! 初めて魔法が見えた!」
「すごい! 身体が軽くなるよ!」
 小躍りしている、学生たち。
 目をこすったり、自分の周囲をきょろきょろと見回している学生は、周囲に銀色のもやを見ているのだ。
 それこそは、魔法を生み出すエネルギー。精霊の力。
 その『眼』で見れば、ムーンチャイルドと《呪術師ブルッホ》が、尋常では無い規模の、膨大なエネルギーを内に持っていることに気づくだろう。

「世界に満ちている魔法を意識するには、何よりの近道だ。本当なら、もう少しゆっくりと進めたいところだが……目覚めるのは、早いに越したことはないのだから」

 ふと。
 おれは《呪術師ブルッホ》の言葉に「焦り」を感じた。
 時間の猶予が、それほどないのではないか?

 不安と焦燥感が、おれを煽る。
 嫁を、抱きしめたい。触れたい。
 おれのルナ……カルナックが、確かにそこにいると、感じたい。
 もう二度と、幻のように消えていったり、しないって。
 思わせてくれ。
 そこにいるのに、次の瞬間には無くしてしまいそうで、狂おしい。

(ガルデルも? こんなふうに強く求めてるんだろうか? だけど永遠に満たされないんだろうか?)
 あいつに同情するつもりなんか、ないのに。

                    ※

「はい。飲んで。リトルホークも」
 檻の前にムーンチャイルドがやってきて、グラスを差し出した。
「おまえのは、さっき、おれが飲んじゃったから」
 生徒達は、飲み干したあとのグラスをランチョンマットに包んで懐に大切そうにしまい込んでいるのが見て取れる。宝物にするんだろうなあ。

「もらうよ」
 鳥籠の格子の間を入ってきた、白くて細い手を。
 すかさず、おれはつかんで、グラスを左手で持ち、右手でムーンチャイルドの身体を引き寄せた。
 格子のすきまから、手は出せるんだ。
 グラスをムーンチャイルドの唇に押しつけて濡らした。

「なっ! なにす…」
 驚いて目を瞬かせて、おれを見る、真っ黒な目が。かわいい。

「水はこっちからもらう」
 抱き寄せて、唇を重ねた。
 冷たい水に濡れた唇が、柔らかくて……たまらない。

 ごめん、ラト姉とレフィス兄。呆れてるよな。ごめん精霊セレナンたち。
 おれの煩悩は反省室に入ってもダメだったよ。
 今ならいけると思った、その通りだったな。

 ムーンチャイルドは、じたばた、もがいてる。
「バカ! リトルホークのばかっ! だいっきらい!」

「うそつきだな。でもむだだ」
 おれは笑って、更に深く口づける。背中にまわした手は、緩めない。
「おれと、この檻に入ろうか?」

 するとムーンチャイルドは、耳まで真っ赤になった。
「もうやだ! 兄さま、なんとかしてっ!」

 すると、助けを求められた《呪術師ブルッホ》は。
 高らかに笑い出した。

 あれっ?
 てっきり怒られるかと思ったんだけどな。

「くっくっくっ。こいつは呆れた愚か者だなリトルホーク。まったく、恐れ気がないにもほどがある。始末におえない」

 次の瞬間、鳥籠は消え失せ。
 おれはしたたかに床に打ち付けられた。

「だが」
 風が吹いてきたのかと思った。
 瞬時に《呪術師ブルッホ》が、おれの傍らに出現して、ムーンチャイルドを腕に抱いていたのだ。
 あ、なんか既視感デジャ・ヴ。さっきもあったな、これ。
 しかし少し違う《呪術師ブルッホ》こと精霊グラウケーは、おれに囁いたのだ。

『危機感を抱いたのかリトルホーク。意外と聡いな。だが手遅れだ。もう少し早くおまえが来ていれば、我々も危険な賭はしなかったかもしれない』

「…なっ!」
 顔に血がのぼった。
 やっぱり何か企んでいたんだ!

「そうだな……おまえには、ひとつ、荷を受け持ってもらうことにしよう」
 人の悪い笑みを《呪術師ブルッホ》は浮かべた。
 まるで、それを合図にしたかのように。
 そのとき、食堂の入り口で、騒ぎが持ち上がった。

「お嬢さま! そのように廊下を駆け回るのは作法に反します」
「どうかお待ちくださいまし」
 若い女性の声。
 それを遮って、少女の声が響き渡った。
 よく通る、力強く張りのある声だ。

「あなたたちが邪魔するから出遅れちゃったじゃない! みんなもう集まってるわ」

 そこにやってきたのは、健康的に日焼けしたリネンのような肌に映える、さざ波のように波打つ黄金の髪をなびかせた美少女だった。まとっている上物の長いドレスを、邪魔そうに裾をからげて持ち上げて、走って。

 高貴にして同時にひどく高慢で。
 ただ、それを不快に思わせない、非の打ち所のない気品を備えた、十六、七歳の、お姫さまだったのである。

「これは、ルーナ姫」
 驚いたことには、《呪術師ブルッホ》が、彼女を出迎え、頭を垂れたのだ。
 ごくわずかに、ではあったが。

「まあ《呪術師ブルッホ》さま! そのような他人行儀は、およしになって」
 こぼれんばかりの華やかな笑みを浮かべて、黄金の姫君が……それ以外に表現のしようがなかった……足取りも軽く、駆け寄ってきた。

「わたくしの、漆黒の魔法使いさま! このルーナリシアに、ご用をお申し付けくださいませんの? あなたさまのためならば、なんでもいたしますのに」
 うっとりと《呪術師ブルッホ》を見上げる。

 あ。
 恋する乙女ですね、完璧に。

 ルーナリシア……この世界における、ダイヤモンドのことだ。
 それがエルレーン公国大公の一人娘、公女様の名前だとは、まだ、このときのおれは知らなかった。

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