筆と刀の混沌戦禍

皐月やえす

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 一方、雪丸は餅屋の店先の椅子にボーっと座っていた。

 山からがむしゃらに逃げ出してきたので、どれくらい走ったのか覚えていない。

(でもあっちから来たから……)

庄右衛門がそのまま進んでくれば、また鉢合わせになるだろう。

(う、で、でも……)

 今はひたすら気まずくて、会いに行く気になれなかった。
男性にあそこまで剥き出しの性欲を向けられたことがなかったし、雪丸は若いのでまだそういった経験がなかった。

 あのまま逃げられなかったら、どんな目に遭っていたというのだろう。
体温の高い、隙がないほど鍛えられた男の体。丸太のようにガッチリした腕で抱きしめられ、首筋を吸われ、太い指であちこちをまさぐられてしまった。

先程からそれを何度も思い返すたびに全身を茹蛸のように赤らめるのを繰り返していた。
だが、

(なんでなんだろう……)

 庄右衛門にされた事は嫌ではなかった。
 もしかしたら、男性にここまで刺激の強いことをされたことがなかったので、好奇心が強く現れているのだけかもしれない。
ねんごろな関係を結ぶ上でこの相手は絶対に無理、と思う人間がいるはずだ。

しかし雪丸にとって庄右衛門はその存在に当てはまらなかった。

 庄右衛門はぶっきらぼうで無愛想ではあるものの、めげずに付き纏い続けると人間くさいところが見える。揶揄からかうと面白く、困らせたくなる。雪丸の周りにはあまりいない種類の人間なので、もっと庄右衛門のことが知りたくなってつい突き回してしまった……やり過ぎてしまったようだが。

大きくて温かい手で撫でられたり、しっかりとした厚みのある体に抱きしめられるのがこんなに気持ちが良いことだと忘れていた。大人になってから人に抱きしめられる機会が減るので、どこか懐かしく、気分が高揚する感覚が、身体中に広がってふわふわする。

 この気持ちは何だろう。一時的な気持ちかもしれないが、それでも、庄右衛門に近づきたいし、親しくなりたい。もう一度触れてみたい。

 しとねを共にするほど仲良くなれば、この気持ちの正体も、庄右衛門という男のこともわかるというなら…。

「庄右衛門になら……、いや、庄右衛門がいい……」

 知らず知らずのうちに声に出ていたようでまた勝手に真っ赤になってしまっている。
首筋がまだ熱い気がして、手でソッと撫でた。

「おやおや、風邪っぴきかい?」

 餅屋の女将が、頼んだ焼き餅とお茶を持ってきた。
雪丸は曖昧に返事をして、串の餅に齧り付くも、熱々で涙が滲んだ。
女将は笑いながら、ゆっくりおあがり、と店内に引っ込んだ。

 ひとまず、先程庄右衛門に無体を働かされそうになったことは頭の端に追いやり、餅をよく味わってみる。
モチモチとした歯応えのある食感に、醤油の程よいしょっぱさが美味だ。
そうして徐々に落ち着きを取り戻してきたので、改めてどうしたら庄右衛門を旅に引き込めるか考えだした。

 雪丸は、この旅が安全なものではないとわかっているし、自分の力不足のせいで庄右衛門を巻き込むのも、とても申し訳ないと思っていた。

(庄右衛門も遅かれ早かれ、巻き込まれちゃうと思うんだよな。
見える上に、あんなすごい封印の術が使えるんだったら、沢山の人ならざるもの達が押し寄せて命を狙ってくるだろう……)

 現に、雪丸でさえ刀を持ち始めた途端に、人ならざるもの達が襲いかかってきた。
雪丸は元々剣術を心得ていたし、対処の仕方を知っていたので、まだ何が起きているのかわかってなさそうな庄右衛門を、せめて刀で守ってやりたいと思ったのだ。

(でも、封印の術のやり方を知らなかったみたいだし…、ある日突然使えるようになったってこと?)

雪丸はお茶を啜った。

(見ることができる、なんらかの術を使えるようになるには、どうやったって「ああなる」しか……)



「聞いた?また火事が起きたってね。」
「ええ?今回でもう四軒目じゃないか!」
「この前は山火事もあったし、数日間で立て続けに起こりすぎだよ。物騒だねぇ、怖いねぇ。」

 雪丸の側に四人の女性がいた。ここら一帯に立っている屋台の女性たちが寄り合って話し込んでいる。
雪丸は少し気になって、女性たちに声をかけた。

「お姉さんたち、火事ですか?どこで?」

 愛想良く尋ねると、一瞬警戒するが、色の白い美形の雪丸にすっかり気を許して話し始めた。



 夕方頃、庄右衛門は山の中に小さな廃寺を見つけた。

 扉や壁は穴が空いて外が見えるものの、屋根は崩れておらず、雨を防ぐことができそうだ。

(一晩くらいなら、仏様も許してくれるだろう)

 苔の生えた釈迦如来像に一瞬手を合わせ、庄右衛門はここで夜を明かすことに決めた。

 床に筆を広げ、硯と墨、色とりどりの顔料を練り固めた皿・顔彩と鉄鉢を置き、瓢箪から水を皿に出し、絵を描き始めた。
 昨日、雪丸と初めて会った時に墨で描いていた下書きに、水で溶いた顔料で繊細に着色していく。

(明日か、明後日…、そのまま行けば、もう一つの軍の野営に鉢合わせられるだろう)

稼ぐには、野営にいる多人数の兵士たちに上手く会わなければならない。

(…そういえば、あいつ雪丸も、あの方向へ走って行かなかったか?)

 そこに思い至った途端、庄右衛門の気持ちが沈んだ。

雪丸の震える細い手、上気した頬。
気の強い切長の目が、戸惑いと僅かな期待で濡れて、庄右衛門を見つめていた。

「うーむ、」

 三枚までなんとか描いてみたものの、とうとう集中力が切れてしまった。
庄右衛門は諦めて、簡単に道具や紙をしまい、寝転んだ。


 そして、何日かぶりに夢を見た。
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