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背水の陣
十三
しおりを挟む部屋で休んでいると、外から微かに音がした。規則性を持って鳴らされる金属音に覚えがあったので、庄右衛門はそっと部屋を抜け出す。
誰にも見つからずに社務所の外へ出ると、木の上から音の主である女性が降りてきた。
農民の姿をしたあざみだ。
「久しぶりだなぁ」
庄右衛門が間抜けな声をあげると、
「何言ってんのよ!心配したんだから!
怪我はどう?どこかまだ痛むの?歩いて大丈夫なの?」
とあざみが矢継ぎ早に質問する。庄右衛門は苦笑しながら、
「雪丸と一緒にここへ運んでくれてありがとうな」
と言う。
あざみは一息付き、
「こんな大きな神社の出身なのにあんたと旅してるなんて、雪丸って何者なの?って思ったから、色々と調べちゃったわよ」
とひそひそと続けた。
「この神社の今の神主……神社の関係者や神社を出入りする人、ここら一帯に住む人全員に話を聞いたけど、悪い噂一つ聞かないのよね」
「そうか」
「ねえ、おかしいと思わないの?一つもよ。
みんな口を揃えて、次の正当な当主は幽幻様が相応しいって言ってるの。脅されてるのかしらってくらい、一言一句違わずにね」
あざみが顔をしかめた。
「それと対照的に、雪丸、雪丸のお兄さん、雪丸のお母さんの陰口が酷くて……女のくせにとか、病弱がとか、忌み子とか。
中には、その、直接死を望む声まで……雪丸たちは何も悪いことをしていないのに、一体どういうことなのかしら」
庄右衛門は思わず唸る。神社の外までそんな様子ではどこまで警戒すべきか悩むところだ。
考え込んでから、やがてあざみに向き直った。
「あざみ、俺は雪丸の母親に頼まれて、雪丸の家族を守ることになった。
この神社以外の人間まで害を及ぼしてきたら俺でも庇いきれん。手の空いている若い衆を連れて、この神社一帯をそれとなく見張ってくれないだろうか」
「あら、私は高くつくって知ってるでしょ?庄右衛門が体で払ってくれるって言うなら別だけど」
「こんな時まで馬鹿なことを言うな」
庄右衛門が一蹴すると、あざみはつまらなさそうに承諾した。
後は、人ならざるもの対策のために、残り少ない墨を全て擦ることにしようとした。前回蜂を封印した時は、止むを得ず瓢箪の中の墨汁を全て出してしまった。
「あざみ、すまんが腰袋から墨を出してくれるか?手がこれだから、擦ってほしい」
庄右衛門が包帯でぐるぐる巻きの両手を見せると、あざみが庄右衛門の腰袋に手を伸ばした。ついでに腹筋やら尻やら股間やらをさわさわと弄った。
「んふふ、本当に良い体してるわよねぇ」
「やめんかっ!早く墨を出せ!」
「はいはい……」
やがてあざみが手を止めた。
「……え?墨なんてないわよ?」
「ああ、一寸ほどの小さいやつだから、隅にあるかもしれん」
「違うのよ、本当に無いの。隅まで手を伸ばしても墨はないわ」
あざみが困ったように庄右衛門の腰袋を外し、地面に一旦広げた。
飛び道具、忍び道具、筆、紙、顔彩、鉄鉢、金品……それらはあるのに、墨はどこにもなかった。
「ほらね」
あざみが庄右衛門を見上げたが、ぎくりと固まった。庄右衛門は見たことがないくらい真っ青な顔をして震えている。
強大な人ならざるものを倒さなければならない今この時に、最後の墨が消え失せてしまった。
(これでは……戦えない。封印ができない!)
庄右衛門の全身に絶望の冷えた汗が伝った。
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