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第一章 荷台に棲む獣〈こども〉たち
#prologue:攫う砂 - 3
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翌朝、小さな荒れ地のバザーを出発したリアン一家は、更に荒れ地沿いに東へと旅を続け、更に三日後には、今度こそ街と呼べるような大きな街に辿り着いた。
「ようし、リアン。今度はでかい街だ。きっと干し肉がたくさん売れるぞ」
そう言って車を進める父に、リアンは胸を躍らせた。
肉がたくさん売れれば、それだけ両親が喜ぶ。その姿を見るのが、リアンにとっては何よりも嬉しいことだった。
車を適当な場所に停めた後、一家は商売道具を持って街に入った。朝も早いせいだろうか、露店を置く場所は若干空いている。前のバザーで設営券を購入したこともあり、一家は街の中央よりやや南側の入り口に近い場所に天幕を建てられた。
まだ乾燥しきっていない干し肉を天幕の裏に並べ、開店の準備を整える。手慣れた手付きで天幕を組み立てるリアンに、父は感心した。
「お前、すっかり覚えちまったんだな」
父親が自慢の息子の頭を撫でると、リアンはくすぐったそうに笑った。
「天幕は組み立てられるし、干し肉も作れる。いつか独り立ちしても、これなら安心だな」
「ほんと!?」
認められたリアンは、年相応の子供らしく喜んだ。
「ああ。後は接客に慣れれば、お前は一人でもやっていけるさ」
一人、と聞いて、リアンは表情を曇らせた。
「……でも、ぼくは父さんと母さんと一緒に旅をしたい。離れるなんて嫌だよ」
両親はやはり、と互いに顔を見合わせた。
大人びたところは多々あるが、逆に親離れしないというのも心配だ。
「リアン、よく聴きなさい」
父親はリアンの前でしゃがみ、その両肩をしっかりと掴んだ。その肩幅はまだ狭く、折れそうなぐらいに細い。
だから、父親は慎重に言葉を選んだ。この子は今まで感じてきたより、まだずっと幼い子供なのだ。
「今まで他人と関わらないよう言ってきたが、それはお前が他人に騙されないようにするためなんだ。
だが、誰も彼も信用しちゃいけない、と言っているわけじゃないぞ? 逆に誰かと出会うことで、新しい仲間、或いは友達になることだってある。
だって、そうじゃないか。何せ父さんと母さんも、元々は赤の他人同士だったんだから」
リアンは俯いたまま頷いた。
父親は思う。……この子の事だ。既に自分の頭の中で理解してはいたが、ついつい甘えたいばかりに、認めたくなかったに違いないのだ。
「だから、独りになることを恐れてはいけないし、人と全く関わらないことを考えてもダメだ。そのためにいつも留守番をさせているんだぞ」
「分かったよ、父さん」
リアンは、今の言葉を決して忘れまいと、もう一度強く頷いてみせた。
「よし、いい子だ。じゃあ、今日もお留守番を頼もうかな」
リアンは顔を上げた。
「また出かけるの?」
「車の燃料や水の補給が必要なんだ。脂屋はいつも混んでいるし、広場には驚くほど人がいるからな。早めに行かないと」
脂屋とは、燃料用に開発された家畜の「油豚」から採れた脂を売る施設だった。なんにでも燃料に利用出来る便利な脂なので、どの街でもいつも長い行列が出来ている。
「じゃあ、行って来る。しっかり頼むぞ、リアン」
「うん。行ってらっしゃい」
両親は直ぐに人込みの中に消えて行った。
リアンは頬を叩いて自分を奮い立たせ、いつものように店番を始めた。
すると、先程父親が言った通り、午前中だというのに凄まじい勢いで干し肉が売れていき、昼食の時間になる頃にはすっかり売り切れてしまい、リアンはとうとう暇になってしまった。
それでも、両親が帰って来るまでは店番を続けなくてはならない。
リアンは予備の商品であるアクセサリを並べると、昼食替わりの干し肉をかじりながら、人々の雑踏を聴きながら、いつものようにぼうっと空を眺めた。
昼なら雲を、夜なら星々を目で追う。「彼ら」は何も話さないが、雲の形や星の並びは、無数の物語をリアンの頭の中へと提供してくれた。
第三者に語ればそれなりに面白い話のはずだが、恥ずかしがり屋で無口な彼は両親にすら秘密にし、自分だけの楽しみとして満足していた。見方を変えれば、それこそが思春期を迎えようとしている彼の、唯一の反発とも言えるだろう。
しかし、今日はリアンにとって目を疑うような空模様だった。文字通り、雲一つない快晴だ。砂風の舞う砂漠にしては不自然なほどに澄み切った深い群青で、目を細めて眺めていると、まるで虚空に落ちてしまいそうな不思議な感覚に陥る。
リアンは不思議に思った。砂ひとつ舞わないほどの、この澄んだ空気は何だろうか。
今までも快晴の空は何度も見てきたが、それでも多少は白んでいたりして、「深い青」を見ることは決してなかった。
清々しい。だが、いつもと違う様子が、一層不気味に感じられる。
途端に、強い風が吹いた。
リアンは反射的に目を瞑りながら、厚めの革手袋を嵌めた手で外套のフードを目深に被り、マスクを付けていなかった口許を押さえた。
こんな時、両親は必ず天幕に入れ、と言う。「白砂」は生き物を焼き殺す悪魔だから、と。
見渡すと、大人たちが妙に騒いでいた。
少しばかり風が強くなっただけなら、こんなに騒ぎはしないだろう。……つまり、いつもと何かが違うのだ。
リアンは露店に出した商品を抱えて直ぐに天幕に入り、入り口をしっかりと閉じた。どういうわけか、耳の奥が強く押し付けられるような感覚がし、何度も唾を飲み込んだ。
風の音に混じって、聞き覚えのある声が外から聞こえてきた。間もなくして天幕が外側から開け放たれ、強い風と共に誰かが細いリアンの腕を引っ張り、立ち上がらせた。父親である。
「いったいどうしたの!?」
リアンはすがるように尋ね、叫んだ。
「砂渦だ! ここは危ない! 直ぐに逃げるぞ!」
父はそれだけ応えると、リアンの外套からフードをもう一度しっかりと被せ、紐をきつめに縛った。
こんな体験はリアンにとって初めてで、どうしていいのか判断が付かない。ただ、いつものように両親に付き従っていれば、きっと上手くいくだろう──溢れそうになる不安の中で、リアンはそれだけを強く信じていた。
父親と、今しがたやって来た母親に手を引かれて天幕を出ると、見たこともない光景に唖然とした。
巨大な砂渦が突如街の中心に現れ、この街を沈めようとしている。
強風の原因は、砂渦が周囲の空気を吸い込んでいるからだった。
リアン達が立っている場所も既に渦の一端で、徐々に砂と共に天幕が流されている。このまま何もしなければ、すり鉢状の砂渦の中心へと引きずり込まれるか、その場に沈んでいくだろう。
リアンの体重と脚力では自力で歩くことも困難な状況になっていた。両親に片方ずつ両腕を引っ張られて、ようやく一歩進められるぐらいだ。
何度も足を滑らせ、転びそうになりながらも何とか歩みを進めていると、ふいにリアンの左手の感触が軽くなっていることに気付いた。
ずっと掴んでいたはずの母親の手が無くなっている。リアンは何度も周囲を確認したが、視界が悪いせいで、何も見えない。
(嘘だ!! 母さん! 母さんはどこ!?)
母は既にいなくなっていた。
リアンは喚き、それに気付かない右手の父親に腕を振って報せた。
父親は気付いたが、かろうじて首を横に動かした。……こうなることを覚悟していたのか、父親は予想以上に冷静だった。
現実を受け入れる余裕などない。きっと生きていると信じ、リアンは前へ進むしかなかった。
チリチリと焼けるような感覚が、リアンの体を蝕み始めていた。痛みのあまりに両手で体を擦ろうとしたが、父親がそれを制した。手を放せば、その時点で一貫の終わりだ。軽いリアンの体は、直ぐに砂渦の方へ吹っ飛ばされてしまうだろう。
どうしても後ろの様子が気になるリアンは、好奇心に負けて、一度だけ振り返った。
(……なんだ、あれ……!?)
砂渦の中心から、うねうねと蠢く腕の様なものが生え、周囲の建物や瓦礫を掴んでは砂渦の中に入れている。
まるで、砂渦の中心に巨大な生き物がいるようで、リアンは恐怖のあまりに震え、立ち止まりかけた。
(前を見るんだ!)
父親が腕を振って伝えた。
リアンはどうにか正気を取り戻し、生き残るために父親の言う通りにした。
その時、風に乗って、別の音が流れてきた。
前方から何度も何度も、低いような高いような、色々混じった豪快な音が真っ直ぐに聞こえてくる。父親はそれを頼りに音のする方へリアンを導いているようだった。
それは、一台の大きなトラックのクラクションだった。助手席から無精髭の男性が太い腕を伸ばしている。
顔には見覚えがあった。前の街で、リアンに気さくに話しかけてきた、あの客の男だった。
『手を伸ばせ! 俺が掴んでやる!!』
車に取り付けたスピーカーから男の声がハッキリと聞こえた。
リアンと父親は砂に足を取られながらも、何とかトラックに近づこうと試みたが、いくら手を伸ばしたところで届かない。足元の砂は次から次へと流されていき、親子をトラックから引き離そうとしている。
父親は歯噛みした。このままでは、待ってくれているトラックすら危うい。
この男は、何故危険を顧みず、見ず知らずの我々を助けようとしているのだ? 少なくとも命を賭けているのだから、悪い人間ではないはずだが……。
しかし、迷っている余裕はない。このままだと皆が砂渦に引き込まれる。どんな運命が待ち受けるにしろ、一か八か、この男に賭けるしかないだろう。
父親は決断すると、有らん限りの声で喚きながら、リアンをぐんと抱え上げた。精一杯伸ばされた腕は、リアンが見たことがないほど震えており、リアンが慌てて振り返ると、いつの間にか体のほとんどが砂に沈み、首と腕しか残されていなかった。
「い、嫌だぁああああっ!! やだよぉっ! 父さあああああん!」
リアンは喚いたが、最後の肉親は容赦なく砂に埋もれていった。
「前を、見ろ! ただ、前に進め! リアン!!」
轟音の中で、何故かその声だけは確実に耳に届いた。声というよりも、頭の中に直接響くような不思議な感じだった。
最後に見た父の顔は、笑顔だった。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、それでも懸命に堪えて、リアンを安心させようとしていたのだ。
分かっていたから、リアンは辛かった。
だから、せめて父の言葉に応えるべく、リアンは振り返るのを止めた。
唯一、自分の足を支えてくれていること、それだけが父の感触であり、今はそれで十分だった。
ようやく、トラックの男がリアンの伸ばした腕を捉えた。リアンは父と別れたくないあまりに躊躇したが、足の鋭い痛みにようやく気づき、はっと砂の中から引き上げた。父が支えていた感触は、とっくに無くなっていた。
履いていた靴は跡形もなく溶けて無くなり、血だらけの足首が姿を現した。
リアンは怖くなって必死で膝を曲げ、トラックのドアに足裏を貼り付け、踏ん張った。血だらけの足が、ドアに赤いペンキを塗り残していく。
左側から熱いものが降りかかった。「白砂」だ。
リアンは悲鳴を上げ、その痛みに懸命に耐えた。途端に、目の前がぼやけ、意識が朦朧としてくる。耳鳴りがし、全ての感覚が失われていくようだった。
どこからか、リアンに向けた声が聞こえてくる。どうやら何人かの子供の声らしいが、よく聞き取れない。頑張れとか、そんな風に聞こえていた。両親以外からそんな声をかけられるのは、生まれて初めてのことだった。
リアンは歯を食いしばり、全身全霊で男の逞しい腕に両手でしがみついた。男とリアンが同時に力を加えた時、リアンの体は軽く浮き上がり、トラックの窓に頭から突っ込んだ。……助かったのだ。
「ようし! 良く頑張ったな、坊主!」
リアンは、男の声には応えずに体を起こし、最後の力を振り絞って窓の外を見つめた。
微かな視界の中に、あの憎たらしい砂渦が目に留まった。
無数にあったはずの建物は総て砂渦に吸い込まれ、赤土だった部分も、もはや砂に置き替わっている。
薄れ行く意識の中で思う。あれが夢だったら良かったのに、と。
だが、この痛みは本物だ。
今起きていることは紛れもない事実で、街も、家も、そこに住んでいた人も、父さんも、母さんも──みんなあの砂渦に食べられてしまったのだ。
それに、ついさっきまで両親がこの手を掴んでいたんだという、残された感触。自分が子供だったことを忘れ、ずっと我慢して生きていたこと――そんな現実を噛みしめていくと、今まで我慢していた感情が嗚咽と共に一気に溢れ出し、汚れた顔が涙で濡れていった。
ずっと一緒だった両親はもう、帰って来ない。
砂という恐怖を前に孤独になったリアンは、子供の本能に抗えず、ただただ、泣いて助けを請うしかなかった。
「大丈夫よ。もう、大丈夫だから」
横にいた若い女性は、若干白くなったリアンの小さな頭を、優しく撫でた。
母親とも違う感触や匂いに少し戸惑ったが、次第にリアンは心を落ち着かせ、やがて、気付かない間に眠りに落ちていった。
「ようし、リアン。今度はでかい街だ。きっと干し肉がたくさん売れるぞ」
そう言って車を進める父に、リアンは胸を躍らせた。
肉がたくさん売れれば、それだけ両親が喜ぶ。その姿を見るのが、リアンにとっては何よりも嬉しいことだった。
車を適当な場所に停めた後、一家は商売道具を持って街に入った。朝も早いせいだろうか、露店を置く場所は若干空いている。前のバザーで設営券を購入したこともあり、一家は街の中央よりやや南側の入り口に近い場所に天幕を建てられた。
まだ乾燥しきっていない干し肉を天幕の裏に並べ、開店の準備を整える。手慣れた手付きで天幕を組み立てるリアンに、父は感心した。
「お前、すっかり覚えちまったんだな」
父親が自慢の息子の頭を撫でると、リアンはくすぐったそうに笑った。
「天幕は組み立てられるし、干し肉も作れる。いつか独り立ちしても、これなら安心だな」
「ほんと!?」
認められたリアンは、年相応の子供らしく喜んだ。
「ああ。後は接客に慣れれば、お前は一人でもやっていけるさ」
一人、と聞いて、リアンは表情を曇らせた。
「……でも、ぼくは父さんと母さんと一緒に旅をしたい。離れるなんて嫌だよ」
両親はやはり、と互いに顔を見合わせた。
大人びたところは多々あるが、逆に親離れしないというのも心配だ。
「リアン、よく聴きなさい」
父親はリアンの前でしゃがみ、その両肩をしっかりと掴んだ。その肩幅はまだ狭く、折れそうなぐらいに細い。
だから、父親は慎重に言葉を選んだ。この子は今まで感じてきたより、まだずっと幼い子供なのだ。
「今まで他人と関わらないよう言ってきたが、それはお前が他人に騙されないようにするためなんだ。
だが、誰も彼も信用しちゃいけない、と言っているわけじゃないぞ? 逆に誰かと出会うことで、新しい仲間、或いは友達になることだってある。
だって、そうじゃないか。何せ父さんと母さんも、元々は赤の他人同士だったんだから」
リアンは俯いたまま頷いた。
父親は思う。……この子の事だ。既に自分の頭の中で理解してはいたが、ついつい甘えたいばかりに、認めたくなかったに違いないのだ。
「だから、独りになることを恐れてはいけないし、人と全く関わらないことを考えてもダメだ。そのためにいつも留守番をさせているんだぞ」
「分かったよ、父さん」
リアンは、今の言葉を決して忘れまいと、もう一度強く頷いてみせた。
「よし、いい子だ。じゃあ、今日もお留守番を頼もうかな」
リアンは顔を上げた。
「また出かけるの?」
「車の燃料や水の補給が必要なんだ。脂屋はいつも混んでいるし、広場には驚くほど人がいるからな。早めに行かないと」
脂屋とは、燃料用に開発された家畜の「油豚」から採れた脂を売る施設だった。なんにでも燃料に利用出来る便利な脂なので、どの街でもいつも長い行列が出来ている。
「じゃあ、行って来る。しっかり頼むぞ、リアン」
「うん。行ってらっしゃい」
両親は直ぐに人込みの中に消えて行った。
リアンは頬を叩いて自分を奮い立たせ、いつものように店番を始めた。
すると、先程父親が言った通り、午前中だというのに凄まじい勢いで干し肉が売れていき、昼食の時間になる頃にはすっかり売り切れてしまい、リアンはとうとう暇になってしまった。
それでも、両親が帰って来るまでは店番を続けなくてはならない。
リアンは予備の商品であるアクセサリを並べると、昼食替わりの干し肉をかじりながら、人々の雑踏を聴きながら、いつものようにぼうっと空を眺めた。
昼なら雲を、夜なら星々を目で追う。「彼ら」は何も話さないが、雲の形や星の並びは、無数の物語をリアンの頭の中へと提供してくれた。
第三者に語ればそれなりに面白い話のはずだが、恥ずかしがり屋で無口な彼は両親にすら秘密にし、自分だけの楽しみとして満足していた。見方を変えれば、それこそが思春期を迎えようとしている彼の、唯一の反発とも言えるだろう。
しかし、今日はリアンにとって目を疑うような空模様だった。文字通り、雲一つない快晴だ。砂風の舞う砂漠にしては不自然なほどに澄み切った深い群青で、目を細めて眺めていると、まるで虚空に落ちてしまいそうな不思議な感覚に陥る。
リアンは不思議に思った。砂ひとつ舞わないほどの、この澄んだ空気は何だろうか。
今までも快晴の空は何度も見てきたが、それでも多少は白んでいたりして、「深い青」を見ることは決してなかった。
清々しい。だが、いつもと違う様子が、一層不気味に感じられる。
途端に、強い風が吹いた。
リアンは反射的に目を瞑りながら、厚めの革手袋を嵌めた手で外套のフードを目深に被り、マスクを付けていなかった口許を押さえた。
こんな時、両親は必ず天幕に入れ、と言う。「白砂」は生き物を焼き殺す悪魔だから、と。
見渡すと、大人たちが妙に騒いでいた。
少しばかり風が強くなっただけなら、こんなに騒ぎはしないだろう。……つまり、いつもと何かが違うのだ。
リアンは露店に出した商品を抱えて直ぐに天幕に入り、入り口をしっかりと閉じた。どういうわけか、耳の奥が強く押し付けられるような感覚がし、何度も唾を飲み込んだ。
風の音に混じって、聞き覚えのある声が外から聞こえてきた。間もなくして天幕が外側から開け放たれ、強い風と共に誰かが細いリアンの腕を引っ張り、立ち上がらせた。父親である。
「いったいどうしたの!?」
リアンはすがるように尋ね、叫んだ。
「砂渦だ! ここは危ない! 直ぐに逃げるぞ!」
父はそれだけ応えると、リアンの外套からフードをもう一度しっかりと被せ、紐をきつめに縛った。
こんな体験はリアンにとって初めてで、どうしていいのか判断が付かない。ただ、いつものように両親に付き従っていれば、きっと上手くいくだろう──溢れそうになる不安の中で、リアンはそれだけを強く信じていた。
父親と、今しがたやって来た母親に手を引かれて天幕を出ると、見たこともない光景に唖然とした。
巨大な砂渦が突如街の中心に現れ、この街を沈めようとしている。
強風の原因は、砂渦が周囲の空気を吸い込んでいるからだった。
リアン達が立っている場所も既に渦の一端で、徐々に砂と共に天幕が流されている。このまま何もしなければ、すり鉢状の砂渦の中心へと引きずり込まれるか、その場に沈んでいくだろう。
リアンの体重と脚力では自力で歩くことも困難な状況になっていた。両親に片方ずつ両腕を引っ張られて、ようやく一歩進められるぐらいだ。
何度も足を滑らせ、転びそうになりながらも何とか歩みを進めていると、ふいにリアンの左手の感触が軽くなっていることに気付いた。
ずっと掴んでいたはずの母親の手が無くなっている。リアンは何度も周囲を確認したが、視界が悪いせいで、何も見えない。
(嘘だ!! 母さん! 母さんはどこ!?)
母は既にいなくなっていた。
リアンは喚き、それに気付かない右手の父親に腕を振って報せた。
父親は気付いたが、かろうじて首を横に動かした。……こうなることを覚悟していたのか、父親は予想以上に冷静だった。
現実を受け入れる余裕などない。きっと生きていると信じ、リアンは前へ進むしかなかった。
チリチリと焼けるような感覚が、リアンの体を蝕み始めていた。痛みのあまりに両手で体を擦ろうとしたが、父親がそれを制した。手を放せば、その時点で一貫の終わりだ。軽いリアンの体は、直ぐに砂渦の方へ吹っ飛ばされてしまうだろう。
どうしても後ろの様子が気になるリアンは、好奇心に負けて、一度だけ振り返った。
(……なんだ、あれ……!?)
砂渦の中心から、うねうねと蠢く腕の様なものが生え、周囲の建物や瓦礫を掴んでは砂渦の中に入れている。
まるで、砂渦の中心に巨大な生き物がいるようで、リアンは恐怖のあまりに震え、立ち止まりかけた。
(前を見るんだ!)
父親が腕を振って伝えた。
リアンはどうにか正気を取り戻し、生き残るために父親の言う通りにした。
その時、風に乗って、別の音が流れてきた。
前方から何度も何度も、低いような高いような、色々混じった豪快な音が真っ直ぐに聞こえてくる。父親はそれを頼りに音のする方へリアンを導いているようだった。
それは、一台の大きなトラックのクラクションだった。助手席から無精髭の男性が太い腕を伸ばしている。
顔には見覚えがあった。前の街で、リアンに気さくに話しかけてきた、あの客の男だった。
『手を伸ばせ! 俺が掴んでやる!!』
車に取り付けたスピーカーから男の声がハッキリと聞こえた。
リアンと父親は砂に足を取られながらも、何とかトラックに近づこうと試みたが、いくら手を伸ばしたところで届かない。足元の砂は次から次へと流されていき、親子をトラックから引き離そうとしている。
父親は歯噛みした。このままでは、待ってくれているトラックすら危うい。
この男は、何故危険を顧みず、見ず知らずの我々を助けようとしているのだ? 少なくとも命を賭けているのだから、悪い人間ではないはずだが……。
しかし、迷っている余裕はない。このままだと皆が砂渦に引き込まれる。どんな運命が待ち受けるにしろ、一か八か、この男に賭けるしかないだろう。
父親は決断すると、有らん限りの声で喚きながら、リアンをぐんと抱え上げた。精一杯伸ばされた腕は、リアンが見たことがないほど震えており、リアンが慌てて振り返ると、いつの間にか体のほとんどが砂に沈み、首と腕しか残されていなかった。
「い、嫌だぁああああっ!! やだよぉっ! 父さあああああん!」
リアンは喚いたが、最後の肉親は容赦なく砂に埋もれていった。
「前を、見ろ! ただ、前に進め! リアン!!」
轟音の中で、何故かその声だけは確実に耳に届いた。声というよりも、頭の中に直接響くような不思議な感じだった。
最後に見た父の顔は、笑顔だった。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、それでも懸命に堪えて、リアンを安心させようとしていたのだ。
分かっていたから、リアンは辛かった。
だから、せめて父の言葉に応えるべく、リアンは振り返るのを止めた。
唯一、自分の足を支えてくれていること、それだけが父の感触であり、今はそれで十分だった。
ようやく、トラックの男がリアンの伸ばした腕を捉えた。リアンは父と別れたくないあまりに躊躇したが、足の鋭い痛みにようやく気づき、はっと砂の中から引き上げた。父が支えていた感触は、とっくに無くなっていた。
履いていた靴は跡形もなく溶けて無くなり、血だらけの足首が姿を現した。
リアンは怖くなって必死で膝を曲げ、トラックのドアに足裏を貼り付け、踏ん張った。血だらけの足が、ドアに赤いペンキを塗り残していく。
左側から熱いものが降りかかった。「白砂」だ。
リアンは悲鳴を上げ、その痛みに懸命に耐えた。途端に、目の前がぼやけ、意識が朦朧としてくる。耳鳴りがし、全ての感覚が失われていくようだった。
どこからか、リアンに向けた声が聞こえてくる。どうやら何人かの子供の声らしいが、よく聞き取れない。頑張れとか、そんな風に聞こえていた。両親以外からそんな声をかけられるのは、生まれて初めてのことだった。
リアンは歯を食いしばり、全身全霊で男の逞しい腕に両手でしがみついた。男とリアンが同時に力を加えた時、リアンの体は軽く浮き上がり、トラックの窓に頭から突っ込んだ。……助かったのだ。
「ようし! 良く頑張ったな、坊主!」
リアンは、男の声には応えずに体を起こし、最後の力を振り絞って窓の外を見つめた。
微かな視界の中に、あの憎たらしい砂渦が目に留まった。
無数にあったはずの建物は総て砂渦に吸い込まれ、赤土だった部分も、もはや砂に置き替わっている。
薄れ行く意識の中で思う。あれが夢だったら良かったのに、と。
だが、この痛みは本物だ。
今起きていることは紛れもない事実で、街も、家も、そこに住んでいた人も、父さんも、母さんも──みんなあの砂渦に食べられてしまったのだ。
それに、ついさっきまで両親がこの手を掴んでいたんだという、残された感触。自分が子供だったことを忘れ、ずっと我慢して生きていたこと――そんな現実を噛みしめていくと、今まで我慢していた感情が嗚咽と共に一気に溢れ出し、汚れた顔が涙で濡れていった。
ずっと一緒だった両親はもう、帰って来ない。
砂という恐怖を前に孤独になったリアンは、子供の本能に抗えず、ただただ、泣いて助けを請うしかなかった。
「大丈夫よ。もう、大丈夫だから」
横にいた若い女性は、若干白くなったリアンの小さな頭を、優しく撫でた。
母親とも違う感触や匂いに少し戸惑ったが、次第にリアンは心を落ち着かせ、やがて、気付かない間に眠りに落ちていった。
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