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第9話 勇者、家庭訪問する

〜5〜

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 オーナーの姿が消えた瞬間、調理場の音がぴたりと止まる。
 油が跳ねていたフライパンも、まな板の上の包丁も、桶から流れる水滴も、空間から切り取られたように止まっていた。
 賑やかな調理の音が聞こえなくなると、耳が痛いほどの静寂が襲って来て時間まで止まったように感じる。
 床に落ちた人形は、木片を糸で繋いだだけの簡素なものだった。
 これを魔術で大男に変えて触感や質量まで持たせるには、それなりの魔力を用いていたはずだ。人形が元の木片に戻って魔術が消えれば、本体も気付いているだろう。
 俺は人形を拾い上げて調理場の奥に進んだ。


 廊下の先には、地下道のように薄暗い廊下が続いている。点々と付けられた明かり以外、光が差し込む隙間もない。
 客室の声も届かないし、俺の足音以外は物音1つ聞こえて来ない。
 廊下の突き当りに着いて、分かれ道をどちらに進もうか考える。どちらにしても道の先は薄暗くて先が見えない。
 すると、右奥に先程と同じ格好をしたオーナーが忙しそうに歩いているのが見えた。
 不気味な廊下が嘘のように、健康的で巨大な体躯に、汚れたエプロンを付けて働いている。

「おや、勇者様!関係者以外立ち入り禁止と申しましたでしょうに」

「落とし物だ」

 俺が指先で回していた人形を投げると、オーナーは大きな手で握り潰すように受け止めた。

「ああ!失礼しました。どうにも私だけでは手が足りなくて、分身を使っているんです。それで、何か御用ですか?」

 額に浮かんだ汗を拭いながらオーナーが尋ねてきて、俺はその爽やかさに騙されないように慎重に頷いた。

「それは、あまり外に聞かれない方がいい話、ですね」

 俺がもう一度頷くと、オーナーはエプロンで手を拭って息を吐く。しかし、顔にはまだ余裕そうな笑みを浮かべていた。

「私も立場がありますので、どうか、奥でお願いします。こちらへ」

 俺はオーナーの罪を暴いてホテルの評判を下げるつもりはなかった。
 勇者の仲間になったリリーナに、魔術師の道理で悪事の片棒を担がせないよう少しお願いに来ただけだ。
 だからオーナーが差し出した手に従って廊下の奥に進もうとしたが、妙なことに気付いて足を止めた。
 廊下は緩やかな傾斜になって下に傾いている。古い洋館だからそれくらいの地下通路は不思議ではないが、オーナーが立つ足元にうっすら紫の霧が溜まっている。

「どうしましたか?」

 オーナーは俺を見て、客人を食卓に招くような笑顔のまま尋ねた。
 紫の霧は、精神操作の魔術で使うハーブを焚いた煙だ。
 魔術を使って目を凝らしてオーナーを見ると、大柄な体が僅かに透けて見える。筋骨隆々の姿に被って、ローブを着てフードを深く被った性別もわからない小柄な人影が見える。そいつは、微動だにせずに俺の真正面に棒立ちになっていた。
 こいつがオーナーの本当の姿だ。勇者の俺にハーブを使うとは随分舐めた考えだ。しかし、俺に喧嘩を売っていることは良くわかった。

 このまま勇者の剣を抜いて、オーナーを倒すのは容易い。
 しかし、ホテル・アルニカの宿泊客や、9thストリートの魔術師全てがオーナーの手先の可能性もある。
 100人以上いる魔術師と、二日酔いから復活していない状態の勇者は勝ち目がない。

 それに、事務所にはリリーナがいる。
 リリーナは勇者の仲間である以前に、オーナーの娘で優秀な魔術師だ。
 勇者と魔術師が敵対した時に、どちらの味方に付くか。俺はリリーナの魔術の腕を信じているから、リリーナが魔術師の理に従うこともわかっている。
 魔法が効き辛い獣人でも、リリーナと本気で対峙したらおそらく負ける。もうすぐニーアが事務所に出勤してくる時間だ。ニーアは自分の身を守るだけなら何とかなるが、コルダを庇いながらでは無理だ。

 売られた喧嘩を買わないのは勇者が廃る。しかし、仲間を危険に晒すほどのプライドではない。

「やめておく」

「そうですか?それは残念」

 関係者以外立ち入り禁止の場所まで入って来てしまったことを一言謝罪して、俺は大人しくオーナーに背を向けた。

「いつでもどうぞ。お待ちしております」

 暗い廊下を引き返して、炎の揺らめきすら静止している無音の調理場を通り抜ける。
 明るい受付カウンターまで戻って、窓から差し込む光でまだ朝だったこと思い出した。背後で賑やかな調理の音が再開されて、今まで随分静かだったことに気付く。
 俺は剣から手を離した。


 +++++


 事務所に戻ると、ニーアがちょうど出勤してきたところだった。俺が入って来たのを見て、父親と同じ緑の瞳で俺を鋭く睨んでくる。

「勇者様、昨日はちゃんと鑑定してもらったんですか?」

 色々あったせいで、何の話か思い出すのに少し時間がかかった。ゴーシュに酒をしこたま飲まされたせいだ。
 記憶を辿って、昨日は街に出た魔獣をニーアが仕留めて、リストの店で魔獣の鑑定をするように言われて別れたことを思い出す。

「ニーア、事務所で待ってたのに!勇者様、帰って来ないので心配しましたよ」

「ああ、悪かった。コルダは?」

「コルダさん?今日はまだ寝てるんじゃないですか?」

 俺は2階の自室にある、コルダが使っている柵付きベッドの中を覗いた。
 コルダは尻尾を足の間に挟んで、いつものように丸まってぷーぷーと寝息を立てている。
 俺が揺り動かすと、目を瞑ったまま眉間に皺を寄せて低く唸り始めた。

「何もされてないか?」

 俺が揺りながら尋ねると、大きく口を開けて俺の手に噛み付いて来た。
 生肉も引き裂いて食べるコルダの鋭い歯が、俺の手の甲に突き刺さる。そのまま満足そうに甘噛みを続けているからコルダに異常はないようだ。
 リリーナが部屋から出て来ないのは、いつもの引きこもりか、単なる寝坊だろう。

「うげぇ……あんまり美味しくないのだ……」

 失礼な感想と共に、コルダが口を開けて俺の手が自由になった。コルダはまだ半分しか開かない目で、顔を擦りながら起き上がる。

「コルダの親は?」

「朝っぱらから、なんの質問なのだぁ……」

「身辺調査だ」

「コルダの親は、生まれた時からいないのだ」

 コルダはそれだけ言って、俺の膝に頭を置いてまた寝始めた。
 生き物が、生まれた時から親がいないはずない。
 しかし、生物学上の親がいたとしても、物心ついた時にはいなかったとか色々事情はある。その区分にすると、俺も生まれた時から親はいない。
 珍しいことではないし、喧嘩を吹っかけて来る厄介な親がいるよりも遥かにいい。
 これで一安心。と、コルダの涎で汚れた手を拭おうとしたが、俺の手の甲はコルダの牙で穴が空いて、だくだくと流血していた。
 コルダが手加減無しで噛むと、人間の手を血塗れにするくらいの威力があるとわかった。これからあまりコルダを怒らせないようにしよう。

「勇者様、コルダさん。朝ご飯食べますか?」

「あー!コルダ、お肉食べる夢見たのだー朝からお肉なのだ!」

 部屋に来たニーアに呼ばれて、コルダは起き上がって部屋を駆け出て行った。

「勇者様、手はどうしたんです?」

 俺はコルダが階段を一跳びで下りて広間に駆けて行くのを見送ってから、ちょっとな、と言葉を濁した。

「補償金は下りたんだから、ラドライト王国の怪我もいい加減治しましょうよ」

「お肉ーなのだー!」

「コルダさん、お肉はないですよ。でも、黒苺のジャムを作って来ました」

 ニーアが階段を下りながら言うと、コルダの朝から元気のいい返事が聞こえてきた。
 コルダは目が覚めるまで時間がかかるが、一度覚醒すると朝から全開で動けるタイプだ。
 そして、これだけ騒いでも顔を出してこないリリーナは、多分まだ寝ている。俺に呼ばれても半分くらいの確率で無視するが、せっかく仲間が揃った朝食の時間だ。
 俺はコルダに噛まれた手を治してから、リリーナを起こしに向かった。
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