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第29話 勇者、学業に励む
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廊下に出ると、エプロン姿のオーナーが階段の影からこちらを伺っているのを見つけた。
俺がスウィートルーム用のセキュリティを無理矢理突破したから、何事かと様子を見に来たのだろう。
俺が何事も無く部屋から出てきたのを見て黙って立ち去ろうとするが、エプロンの紐を窮屈そうに結んだ背中をよく見ると、ローブ姿の小柄な人間が透けて見える。
あれはオーナーの本体だ。俺はオーナーの腕を掴んで、移動魔法を解除した。
「何でしょうか?」
「まぁまぁ」
勝手に魔法を解除されて、オーナーの声が一気に不機嫌になる。俺は彼を宥めながら手土産の菓子折を渡した。続けて、ゼロ番街でもらってきた高級ワインのボトルを渡す。
その流れで伺書を渡せば受け取ってサインしてくれるのではないかと思ったが、オーナーは土産は抱え込んでいるのに伺書を見て手を止めた。
「学園に……?何のために行くのですか?」
「魔術の研究だ」
「まさか、彼の変質を治そうと?」
オーナーが、スウィートルームの方を窺って俺に尋ねてきた。
俺が返事をしないでいると、オーナーは訝しげにフードの下から俺を見上げて来る。
魔術を使って目を凝らすとオーナーの肉が付いた分厚い胸に透けて、歪んだ皮膚の下に埋もれた鮮やかな青の瞳と目が合った。
「……それは、ホーリアの勇者としてのお願いでしょうか」
「いや、違う。俺の個人的なお願いだ」
国の勇者ではなく、一人の魔術師志望者の願いを叶えるだけだ。もしもアムジュネマニスや学園が何か言ってきても、俺1人を殺せば収まる話だろう。
オーナーは「殊勝な心掛けですな」と小馬鹿にしたように笑ったが、差し出した書類入れを受け取ってくれた。
「私はあくまで、勇者様の魔力が学園で学ぶに値することを証してサインをするのであって、学園への入学を斡旋したり推薦するはありません」
オーナーは俺から書類入れを開くと、エプロンのポケットから出した万年筆でサインを書いた。
リリーナの時と同じように紙がインクが弾いて消えそうになる。しかし、オーナーは慌てる様子もなく一度鼻を鳴らした。
「小賢しい真似を」
そう言ってオーナーが書類を平手で叩くと、剥がれかけた文字は潰れた羽虫のように紙に染み込んで、大人しく銀色の箔に変わる。「それでは」と何事もなかったかのようにオーナーは俺に伺書を付き返して、床に置いた俺の差し入れを抱え直す。
「今の、『小賢しい真似を』っていうのをやってくれれば、2人分サインが書けるんじゃないか?」
欄を埋めさえすればいいのなら、1人が2回書いてもいいような気がする。オーナーがビンタして認められるのなら、もう1回書いてもいけるのではないか。
しかし、オーナーは背を向けたまま振り返りもせず、さっさと廊下を歩き出していた。
「あなた個人にそこまで協力する義理はないはずです」
それはその通りだ。俺とオーナーはそこまで仲良しではない。
サインを書いてもらっただけでも儲けものだ。これ以上お願いすると、俺と一緒にカナタまでホテルを追い出されてしまうかもしれない。俺は既に消えかけえている背中に礼を言って、伺書を抱えてホテルを出た。
+++++
あと1人。
当ては無いかと思案しながら街を歩いて、とうとう役所に着いてしまった。
市の職員に魔術師で、モベドス卒の人間がいるか。可能性は限りなく低い。ほぼ0%。
ホーリアの人間は少し前まで魔術が使えなかったから、魔術師の道を選ぶ人間は極々稀だ。街の外から魔術師が来ていたとしても、モベドス卒なんて優秀過ぎる人間は片田舎の役所にはいない。俺は前世の経験からそれをよく知っている。
しかし、もしかしたら、飛び抜けて優秀な人材が市内にいると、役所に情報が来るかもしれない。ニーアもリリーナの事を知っていたわけだし。
しかし、リリーナの場合は有名な引き籠りとしてだったか。
「あ、勇者様、大丈夫ですか?」
夜も深まった時間、役所からは数時間残業した職員たちがぐったりした様子で出て来る。その中に、何故か市の職員ではないニーアが混じっていた。
何をしていたんだと尋ねると、ニーアは眠そうに目を擦りながら隣に立つウラガノを示す。
「コルムナの日の後処理でわからないところがあるから、ウラガノさんに仕事手伝ってくれって言われたんです」
授業を終えてから前職の手伝いをさせられていたニーアは、流石に疲れた顔をしていた。
対してニーアの横にいるウラガノは、退勤後の酒をさっそく飲みつつ、つやつやした顔をしている。連日残業している奴はこんな血色の良い顔をしていない。定時で帰って仕事を後回しにしていたら期限がギリギリになって慌てて元同僚に泣き付いて事なきを得た奴の顔だ。
「大丈夫かって、何が?」
「アルヴァが、勇者様がゼロ番街の魔術師に無茶なお願いをしているって教えてくれたんです。勇者様、黒服の方はお金払っても一緒にお酒呑んでくれませんよ」
「そんな事は知ってる」
「じゃあ、何してたんですか?」
ニーアの声が半トーン低くなる。ニーアはあまりゼロ番街に良い印象を持っていない。友人が働いているからそれほど文句は言わないにしても、そこで働いている黒服の魔術師と俺が隠れて会っていると、心配にもなるだろう。
しかし、モベドスに入学したいなんて言ったら、ニーアは更に心配するだろう。本当に入学できるかもわからないのに、いたずらに煽っても仕方ない。
「決まったら教える」
「……そうですか」
俺が誤魔化すと、ニーアの声が少し冷たくなって、表情が曇った。
ニーアは養成校で暮らしているから、以前と比べると事務所や街の近況に疎くなっている。ずっと地元から出ずに慣れた所で暮らしてニーアは不安なのかもしれない。
「ニーアには、嘘はつかない」
「そうですか」
慰めにはならないと思いつつ俺が言うと、もう一度答えたニーアの声はいつもの明るさに戻っていた。
疲れているだろうから早く養成校の寮に戻った方が良いと解散しようとしたのに、「そういや、ゼロ番街で思い出したんですけど」と、何故かまだいたウラガノが話し出す。
仕事が終わったなら、早く帰ればいいのに、どうしてこいつは俺とニーアが話す横でずっと待っていたのだろう。
「勇者様、俺がゼロ番街の店の子と付き合いたいって言ったら絶対に無理だって言ったじゃないですか」
「……言ったか?」
「いーました!もし付き合えたら逆立ちして市内一周するって言いましたよ」
「そんなこと言ってない」
「言ったっすよ。酔い潰れてたから覚えてないだけっしょ」
「あ、でも、ミミーはもうお店の子じゃないだろう」
「じゃあ、庁舎一周でいいっす」
どうしてこいつは引かないんだ。
俺はウラガノを無視して事務所に戻ろうとしたが、ニーアが俺のマントを脱がせて準備を始めていた。
「勇者様、すごいですね!ニーア、逆立ちで走るのって苦手なんですよ」
ニーアはさらっとハードルを上げてくる。今さっき嘘は言わないと言った手前、約束してないと言い捨てて逃げるのは体面が悪い。
そして、役所から出て来る人間が、何か始まるのかと集まり始めた。俺もつまらない仕事を終えて帰る時に、逆立ちして庁舎一周する人間がいたら一応観戦するだろう。ゴールするまで見届けるつもりはないが。
「怪我しないように頑張ってください!」
ニーアに革の手袋を渡されて、俺は大人しく受け取った。
俺がスウィートルーム用のセキュリティを無理矢理突破したから、何事かと様子を見に来たのだろう。
俺が何事も無く部屋から出てきたのを見て黙って立ち去ろうとするが、エプロンの紐を窮屈そうに結んだ背中をよく見ると、ローブ姿の小柄な人間が透けて見える。
あれはオーナーの本体だ。俺はオーナーの腕を掴んで、移動魔法を解除した。
「何でしょうか?」
「まぁまぁ」
勝手に魔法を解除されて、オーナーの声が一気に不機嫌になる。俺は彼を宥めながら手土産の菓子折を渡した。続けて、ゼロ番街でもらってきた高級ワインのボトルを渡す。
その流れで伺書を渡せば受け取ってサインしてくれるのではないかと思ったが、オーナーは土産は抱え込んでいるのに伺書を見て手を止めた。
「学園に……?何のために行くのですか?」
「魔術の研究だ」
「まさか、彼の変質を治そうと?」
オーナーが、スウィートルームの方を窺って俺に尋ねてきた。
俺が返事をしないでいると、オーナーは訝しげにフードの下から俺を見上げて来る。
魔術を使って目を凝らすとオーナーの肉が付いた分厚い胸に透けて、歪んだ皮膚の下に埋もれた鮮やかな青の瞳と目が合った。
「……それは、ホーリアの勇者としてのお願いでしょうか」
「いや、違う。俺の個人的なお願いだ」
国の勇者ではなく、一人の魔術師志望者の願いを叶えるだけだ。もしもアムジュネマニスや学園が何か言ってきても、俺1人を殺せば収まる話だろう。
オーナーは「殊勝な心掛けですな」と小馬鹿にしたように笑ったが、差し出した書類入れを受け取ってくれた。
「私はあくまで、勇者様の魔力が学園で学ぶに値することを証してサインをするのであって、学園への入学を斡旋したり推薦するはありません」
オーナーは俺から書類入れを開くと、エプロンのポケットから出した万年筆でサインを書いた。
リリーナの時と同じように紙がインクが弾いて消えそうになる。しかし、オーナーは慌てる様子もなく一度鼻を鳴らした。
「小賢しい真似を」
そう言ってオーナーが書類を平手で叩くと、剥がれかけた文字は潰れた羽虫のように紙に染み込んで、大人しく銀色の箔に変わる。「それでは」と何事もなかったかのようにオーナーは俺に伺書を付き返して、床に置いた俺の差し入れを抱え直す。
「今の、『小賢しい真似を』っていうのをやってくれれば、2人分サインが書けるんじゃないか?」
欄を埋めさえすればいいのなら、1人が2回書いてもいいような気がする。オーナーがビンタして認められるのなら、もう1回書いてもいけるのではないか。
しかし、オーナーは背を向けたまま振り返りもせず、さっさと廊下を歩き出していた。
「あなた個人にそこまで協力する義理はないはずです」
それはその通りだ。俺とオーナーはそこまで仲良しではない。
サインを書いてもらっただけでも儲けものだ。これ以上お願いすると、俺と一緒にカナタまでホテルを追い出されてしまうかもしれない。俺は既に消えかけえている背中に礼を言って、伺書を抱えてホテルを出た。
+++++
あと1人。
当ては無いかと思案しながら街を歩いて、とうとう役所に着いてしまった。
市の職員に魔術師で、モベドス卒の人間がいるか。可能性は限りなく低い。ほぼ0%。
ホーリアの人間は少し前まで魔術が使えなかったから、魔術師の道を選ぶ人間は極々稀だ。街の外から魔術師が来ていたとしても、モベドス卒なんて優秀過ぎる人間は片田舎の役所にはいない。俺は前世の経験からそれをよく知っている。
しかし、もしかしたら、飛び抜けて優秀な人材が市内にいると、役所に情報が来るかもしれない。ニーアもリリーナの事を知っていたわけだし。
しかし、リリーナの場合は有名な引き籠りとしてだったか。
「あ、勇者様、大丈夫ですか?」
夜も深まった時間、役所からは数時間残業した職員たちがぐったりした様子で出て来る。その中に、何故か市の職員ではないニーアが混じっていた。
何をしていたんだと尋ねると、ニーアは眠そうに目を擦りながら隣に立つウラガノを示す。
「コルムナの日の後処理でわからないところがあるから、ウラガノさんに仕事手伝ってくれって言われたんです」
授業を終えてから前職の手伝いをさせられていたニーアは、流石に疲れた顔をしていた。
対してニーアの横にいるウラガノは、退勤後の酒をさっそく飲みつつ、つやつやした顔をしている。連日残業している奴はこんな血色の良い顔をしていない。定時で帰って仕事を後回しにしていたら期限がギリギリになって慌てて元同僚に泣き付いて事なきを得た奴の顔だ。
「大丈夫かって、何が?」
「アルヴァが、勇者様がゼロ番街の魔術師に無茶なお願いをしているって教えてくれたんです。勇者様、黒服の方はお金払っても一緒にお酒呑んでくれませんよ」
「そんな事は知ってる」
「じゃあ、何してたんですか?」
ニーアの声が半トーン低くなる。ニーアはあまりゼロ番街に良い印象を持っていない。友人が働いているからそれほど文句は言わないにしても、そこで働いている黒服の魔術師と俺が隠れて会っていると、心配にもなるだろう。
しかし、モベドスに入学したいなんて言ったら、ニーアは更に心配するだろう。本当に入学できるかもわからないのに、いたずらに煽っても仕方ない。
「決まったら教える」
「……そうですか」
俺が誤魔化すと、ニーアの声が少し冷たくなって、表情が曇った。
ニーアは養成校で暮らしているから、以前と比べると事務所や街の近況に疎くなっている。ずっと地元から出ずに慣れた所で暮らしてニーアは不安なのかもしれない。
「ニーアには、嘘はつかない」
「そうですか」
慰めにはならないと思いつつ俺が言うと、もう一度答えたニーアの声はいつもの明るさに戻っていた。
疲れているだろうから早く養成校の寮に戻った方が良いと解散しようとしたのに、「そういや、ゼロ番街で思い出したんですけど」と、何故かまだいたウラガノが話し出す。
仕事が終わったなら、早く帰ればいいのに、どうしてこいつは俺とニーアが話す横でずっと待っていたのだろう。
「勇者様、俺がゼロ番街の店の子と付き合いたいって言ったら絶対に無理だって言ったじゃないですか」
「……言ったか?」
「いーました!もし付き合えたら逆立ちして市内一周するって言いましたよ」
「そんなこと言ってない」
「言ったっすよ。酔い潰れてたから覚えてないだけっしょ」
「あ、でも、ミミーはもうお店の子じゃないだろう」
「じゃあ、庁舎一周でいいっす」
どうしてこいつは引かないんだ。
俺はウラガノを無視して事務所に戻ろうとしたが、ニーアが俺のマントを脱がせて準備を始めていた。
「勇者様、すごいですね!ニーア、逆立ちで走るのって苦手なんですよ」
ニーアはさらっとハードルを上げてくる。今さっき嘘は言わないと言った手前、約束してないと言い捨てて逃げるのは体面が悪い。
そして、役所から出て来る人間が、何か始まるのかと集まり始めた。俺もつまらない仕事を終えて帰る時に、逆立ちして庁舎一周する人間がいたら一応観戦するだろう。ゴールするまで見届けるつもりはないが。
「怪我しないように頑張ってください!」
ニーアに革の手袋を渡されて、俺は大人しく受け取った。
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