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第29話 勇者、学業に励む

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 元の世界に帰れることがわかっても、さぁ帰ろうと自分の体に剣を突き立てるつもりはなかった。
 元の世界に帰ったところで、生きているのは自分だけでネットもテレビも繋がらない。
 そんな世界で無能な中年に戻って寿命が来るのを待つよりか、この世界で今のそれなりの地位のまま惰性で生きるのが俺には向いている。
 だから、俺を転生させた学園長に恨みはなかった。でも、人を転生させておきながらその後のことは投げやりな態度には若干苛ついていた。
 そして、ポテコの無関心な様子にとどめを刺されたんだと思う。

 ポテコと別れた後、仮眠室に戻ってマントを脱ぎ捨てると、フードからネズミが落ちて来る。黒いネズミは長い尻尾に絡まりながら、綿埃のように床を転がった。

「リリーナ知ってたんだろう?」

 起き上がったネズミは、俺を見上げて小さな鳴き声を上げた。
 変装魔術を使わなくても学園長と瓜二つのリリーナは、学園長と生徒以上に何か関係があるはずだ。だからといってイナムのことや流民の棺のことをリリーナが全て知っているのかわからないけれど、どうしても言わずにいられなかった。

「リュリスが必死に帰ろうとしてるの、馬鹿みたいだと思わなかったか?」

 リリーナに怒っても仕方ないと理解はしているのに言葉が止められなかった。
 本来なら、学園長に言うべき言葉だ。でも、俺は無駄な見栄を張って、異世界の危機に理解があるようなフリをして、苦情も泣き言も吐き出す機会を逃してしまった。
 リリーナ本人に俺の声が届いていないといいなと思いながら、壁に打ち付けるように続ける。

「誰でもいいから適当に連れて来られて、死んだら補充されるだけだ。だから、この世界で必死になったってしょうがない。どうせ意味無いんだから」

 リリーナが小さく鳴きながら、俺の手の甲にペン先ほどの爪を立てた。振り払うと、小さなネズミはその勢いでコロコロと転がって行く。

「俺だって、勇者になんかならなくてもよかったんだ。適当に、もっと楽に生きれば良かった。あんなに頑張ったのに、結局誰も褒めてくれなかったし」

 俺が第二の人生を真面目に生きていたのも、自分が特別だと思っていたからだ。
 前の人生は、自分が生きているのが許されている気がしなかった。痛いのは嫌だから寝ていたらこのまま目が覚めないで死ねたらいいなとか、この人生が全部誰かの夢で最初から存在しないことになればいいのにとか、いい歳してそんな惨めな思いをずっと抱えていた。
 でも、俺はこの世界に転生した。
 前世の記憶を持って生きているなんて、すごく特別だ。だから、俺は自分が今生きていることに何か意味があって、世界に求められていると思っていたのに。
 全然そんなことなかった。思い上がりもいいところだ。恥ずかしいような、悔しいような、全部どうでもいいような気分になる。
 これはもしかして、俺は泣くのか。
 そう思った時、俺の指に噛み付いていたリリーナが、背を反らして大きく鳴いた。
 黒い霧を纏って膨らみ、そのまま人の姿になる。狭い室内に2人入るスペースが無くて、そのまま俺に圧し掛かって来た。

「何よ!あんたが卑屈になってるだけでしょ!」

 ぽよん、と目の前で跳ねた白いものを見て、涙が引っ込む。
 リリーナは色仕掛けで俺を慰めようなんて考えるタイプじゃないし、部屋着の露出は多いけれど最低限の服は着ている。
 それなのに、俺の上にいるリリーナは、一糸纏わぬ全裸だった。感触からして、下も何も着ていない。
 おそらく、モベドスは侵入禁止の魔術が厳重にかけられていて、分身に本体を移すのが完全には出来なかったのだろう。
 だから、これは不可抗力だ。リリーナの名誉のために絶対に首より下を見てはいけない。
 目線が下に行きそうになるのを、全力で理性をかき集めて何とか耐える。

「わざわざ言わないわよ!すごいとか、好きだとか、言わなくてもわかりなさいよ!あたしだって嫌いな奴とは一緒にいないわよ!」

「リリーナ、服は着た方がいい」

 話が全然頭に入って来ないから、取りあえず近くにあった俺のマントを掴んでリリーナに被せた。
 足の先まで届くマントでリリーナの白い体が隠れる。しかし、リリーナはそんな事には構わず喚き続けていた。

「そうやってお姉ちゃんも勝手にいなくなるんだから!ママに何言われたんだか知らないけど、あたしの傍にいろって、このあたしが言ってるのよ!聞けないってどういうこと?!」

 ぽかぽかと殴りかかって来たリリーナを抑えていると、狭い仮眠室の入口を蹴破るようにローブを着た職員が無言で押し入って来る。
 俺が何か言う暇もなく、リリーナは職員に数人掛かりで部屋の外に引っ張り出された。

「お姉ちゃんもあんたも馬鹿なんだから!みーんなきらい!ばかー!」

 職員に羽交い絞めにされて廊下を引き摺られて行って、リリーナの喚く声が徐々に遠くなっていく。
 俺はリリーナにマントを着せて一仕事終えた気になっていたけれど、達成感に浸っている場合ではないと気付く。
 リリーナを追い掛けようとしたが、すぐ外で待ち構えていたポテコが腕を伸ばして俺を制した。

「止めといた方がいいよ」

「でも、リリーナが」

「大丈夫。何だかんだ言って身内には甘いから、少し説教されて追い出されて終わり。でも、先輩はそうはいかないから、知らないフリしてた方がいい」

「やっぱり、気付いてたのか」

 学園長に会う前にポテコが俺のマントを取り上げたのは、リリーナの分身を中に入れないためだ。学園の機密情報を聞く時に侵入者を連れて来たら、ただでは済まなかっただろう。
 リリーナは打たれ弱いから少し説教されただけでも尋常じゃなく落ち込むだろう。しかし、命の心配が無いなら取りあえず安心だ。後で好物でも渡して慰めてやれば素直なリリーナはすぐに元気になる。

「リリーナ、マントの下は素っ裸なんだ。下着くらい着せてやってくれないか?」

「わかった。言っとく」

 ポテコは一度頷いて、リリーナが引き摺られて行った廊下の先に消えた。
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