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第30話 勇者、迷い人を救う

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「まんま」

 と、リュウが言葉らしい言葉を始めて発したのは、用意した昼食の1杯目を床にぶちまけられ、2杯目を頭から浴びられ、クラウィスの冷たい視線に耐えながら3杯目を作った時だった。
 離乳食の在庫が切れるのが先か、俺の堪忍袋の緒が切れるのが先かという瀬戸際だ。

「勇者様、今、リュウが喋りませんでした?」

 ニーアが嬉しそうに声を上げたが、それどころじゃない、と俺は赤子とお椀を取り合いながら答える。
 既に獣人らしい怪力が出始めていて、俺の本気でも勝てなくなってきていた。獣人の育児書によると、大人になれば力加減を覚えて制御できるようになるが、この位の年齢の時はいつでも全力を出してしまって周りも本人も大変な時期らしい。

「絶対言いましたよ。リュウは賢いですね」

「それなら、パパって言ってみなさいよ。ほら、ぱぱーって」

 リリーナが俺を指差して言うが、赤子に負けそうになっている俺は相手にしてられなかった。
 どっちでもいいから手伝ってくれ、と2人に助けを求めようとした時、俺の弱気に気付いたようにリュウが力を込める。

「ゆーちゃ!!」

 掛け声と一緒に俺の手からお椀を奪い取ると、リュウはそれを自分の頭上まで振り上げる。
 寸前で固定魔術を掛けてリュウが頭から御粥を被るのを防いだが、ニーアとリリーナが派手な歓声を上げたせいで驚いて解いてしまった。

「すごーい!今、勇者様のこと呼びましたよ!」

「パパって呼ばせたかったけど。いいわ、それじゃあママって言いなさい。ママ、って。ほら」

 2人が盛り上がっている間に、俺は床に零れた3杯目を拭いていた。頭から被られて風呂に入れることになるよりもマシな方だ。
 クラウィスがそっと雑巾を持って来て手伝おうとしてくれるが、俺は断って一人で片付ける。
 本当は、泣き声を消すのも食事をさせるのも、魔術を使えば簡単に済む。
 しかし、体が小さく精神的に未熟な赤子に魔術を使うのは負担が大きい。自然派の子育てを目指している俺のやり方に反する。
 それに、退魔の子で、泣き声が魔法で消せなかったから喉を潰されたクラウィスがいるのに魔術を使って楽して育てているところを見られたくなかった。
 俺が膝を付いて床を拭いていると、リュウがべたべたの手で俺の頭を撫でて来る。

「ゆーちゃ」

「いいなーあたしもリュウに呼んでほしいなー……」

「でも、勇者様のことを『勇者』って呼ぶのはリリーナさんだけだから、リュウはリリーナさんの真似をしてるんじゃないですか?」

「ふーん……ま、あたしに一番懐いているから、しょうがないわね」

 2人は俺の掃除を手伝わずに別のことで盛り上がっていた。こうやって問題を見ないことにして全力で今を楽しめるの人生はきっと得をしていると思う。
 掃除が終わって雑巾を片付けようと顔を上げると、リュウが俺の髪を掴んだまま銀色の目でじっと俺を見ていた。

「ゆーちゃ」

「おぉ……」

 突然認知されて不覚にもじんわりと胸が熱くなって来た。
 仕事だから世話をしているだけだし、少しの間一緒に生活しても、こんなに幼いんだからすぐに忘れて、大人になる頃には俺達のことなんて覚えていないだろうと考えていたのに。
 リュウが大きくなるまで世話ができないことが、急に惜しくなってきた。

「ご飯食べないってことはお腹空いてないんでしょ。さ、お散歩行くわよ」

 俺がリュウを抱き締める前に、リリーナがベビーチェアからリュウを抱き上げて靴下を履かせた。
 日が出ている間は日焼けするから外に出たくないと言っていたリリーナだったが、リュウと散歩をするのは好きなのか晴れている時でも日傘を差さずに散歩をするようになっていた。

「リリーナ、リュウを連れて行くならこれを付けて行け」

 俺はリュウにロープの付いたリュックを背負わせて、そのロープの先をリリーナの腰に引っ掛ける。

「何よこれ、大袈裟ね」

「あ、それならリュウのおやつと飲み物を持って行ってあげてください」

「わかったわ。公園で食べて来る」

 リリーナはキッチンのニーアに答えながら、背中に生えている尻尾をくるくると丸めてパンツの中に押し込んでいた。尻尾付きの生活にもすっかり慣れたようだ。
 靴下を履いたリュウは外に出掛けることに気付いて、トコトコと玄関に向かっていた。リュックから伸びたロープがピンと張って、そのままリリーナの腰が引っ張られる。リリーナが叫び声を上げて尻もちをついたかと思うと、そのままずるずると引き摺られていた。

「ちょ、ちょっと止まってよ!リュウ!あー!!」

 俺も最近はリュウに引っ張られて負けそうになることはあるが、引き摺られるまでには行かなかった。

「やっぱりリリーナって軽いんだな」

「ええ、そうですね」

『あの……助けてあげないんでスか?』

 リリーナの泣き声を聞いてキッチンからクラウィスが顔を出す。玄関まで引き摺られて行ったリリーナをニーアが助けている間に、俺は獣人の育児書を広げてた。
 3番街の古書店で偶然見つけたもので、元々文字の文化がない獣人の育児書なんて貴重な品だ。
 カナタが言っていたLD検査というのが気になっていたが、この本にも何も書かれていない。赤子の予防接種とか知能テストみたいなものかと思っていたが、俺もニーアもリリーナも知らないし、本にも論文にも記載がない。ここまで徹底的に消されていると、嫌な予感がする。
 マルデュリオンではこの検査を巡ってテロが起きていたとカナタが言っていた。ヴィルドルクとその周辺国は、アルルカ大臣の権力によって獣人に都合の悪い情報は完全に消されている。

「勇者様、リュウは……?」

 2階で昼寝をしていたコルダが下りて来て、リビングを見回した。リリーナとニーアと一緒に散歩に行ったと俺が答えると、コルダはすぐに2人を追い駆けて行こうとした。
 最近になってようやく気付いたが、コルダがリュウの傍から離れないのは、どうやらリュウを俺から守っているのではなさそうだった。

「LD検査ってこれのことか?」

 オルドグの自警団が殺した獣人が持っていたというタグをコルダに見せた。
 タグに刻まれた「LD++096」という文字はおそらくそのLD検査の結果数値だろう。コルダはこのタグを見てリュウが男だと気付いていた。

「白銀種の男だけが受ける検査って言っていたよな。それならリュウにも必要なんだろう?」

「勇者様、レヴィナウス症候群って知ってるのだ?」

 コルダに逆に問われて、俺は何でもないことのように知ってはいる、と頷いた。
 獣人の口からその言葉を聞くことになるとは思わなかったし、オルドクで殺された獣人のことを言っているのかと疑ったが、コルダの表情はいつもと変わらなかった。

「LD値が高い程、レヴィナウス発症の確立が高くなるのだ。白銀種の純潔の男は血が濃くなっていくと数値が上がって行くのだ。だから、男は別種と結婚することになってるのだ」

 白銀種同士が子どもを作っても男の子が生まれるとは限らないから、白銀種同士の結婚を全面的に禁じるものではない。
 しかし、もしも男が生まれた場合は確実に父親よりもLD値が高くなるから、LD値が高い白銀種は予防のために別種、つまり白銀種以外と結婚するようにしているし、一定値を超えると禁じられる。
 コルダはヴィルドルク国民が誰も知らない獣人のことをスラスラと教えてくれた。

「LD値が85を超えると将来確実にレヴィナウス症候群を発症する。だから、勇者様。そのタグがリュウのものなら……そうじゃなくてもリュウの父親のものなら」

 コルダは言葉を止めた。
 それは、自分の言葉の残酷さに戸惑ったのではなく、真実を告げることで俺が傷付くのを案じたからだ。

「勇者様、あの子は殺さないとダメなのだ」

 万が一、リュウが今日発症しても同じ獣人のコルダなら、リュウが誰かを殺す前に殺すことができる。だからコルダはリュウの傍を離れなかった。
 例えば1年後だったら、多分大丈夫だろう。しかし、例えば5年後だったら、10年後だったら、リュウがコルダの力を越える時はそう遠くないはずだ。

「早く決めてほしいのだ」

 それだけ言って、コルダは俺の返事を待たずにリュウを追い駆けて事務所を出て行った。
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