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第36話 勇者、民意を問う

〜5〜

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 魔獣でも一般的な獣と同等の大きさであれば普通の動物と変わらない。油断したら食われるかもしれないけれど、それも含めて普通の動物だ。
 2、3歩離れた正面で魔獣の黒い尻尾が揺れている。俺自身に知覚低下の魔術を掛けているとはいえ、尾行されているのに気付かないとは鈍い奴だ。もしかしたら普通の動物以下かもしれない。

 しかし、俺は魔術でホーリア全域を探知している。
 それに引っ掛からずに国内に入って来ているということは、魔術に掛からない退魔の子か、相当高度な魔術師が術を解読して反術を使っているか。
それなりに複雑な術を使っているつもりだが、カルムなら簡単に解読できてしまうだろう。
 あいつは、事務所とクラウィスと一緒にご飯を作ってあまつさえ飯を食っていたくせに。裏でしっかり俺の仕事の邪魔をしていたのか。
 もしそうだとしたら、もう誰も信じられない。
 そんなことを考えていると、急に肩が重くなった。魔術が解けた、と気付くと同時に魔獣が俺に気付いて襲いかかって来る。
 魔獣退治は久しくしていないが、この程度のサイズなら眠っていても倒せる。
 防御魔術を発動させると同時に剣を抜いた。しかし、防御魔術が発動しない。そして、焦って見当違いの方向に振れた剣は木の枝に引っ掛かった。
 牙を剥いて飛びついて来た魔獣を避けて、その勢いで足が滑る。運悪く崖になっていて、魔獣から逃げることは出来たが崖から滑り落ちた。


 魔術が発動しないとはどういうことだ。
 トルプヴァールの魔術無効化は国内だけと国同士の約束で決められている。
 もしもヴィルドルク国内に術がかかっているのなら、侵略行為だとしもてうっかりミスだとしても国際問題だ。
 とはいえ、俺は魔獣の後について道なき道を進んでいた。気付かない間に森の中で国境線を越えていたかもしれない。
 トルプヴァールとヴィルドルクは今のところ友好国家だから国境にフェンスを立てるなんて面倒なことはしないし、地図で確認したとしても、山の中の木々を縫って引かれた国境などあってないようなものだ。
 崖の下に無事行き付いて見上げると、魔獣は俺を見失ってしばらくうろうろしていたが諦めて森の中に消えて行った。
 崖に指を立てて滑り落ちたから、安物の皮手袋はズタズタになって爪が剥がれて肉が裂けている。
 これで治らなかったら泣いていた所だ。しかし、崖の下はヴィルドルク国内と認定されているようで問題なく治癒魔術が発動した。
 魔獣にビビッて怪我をしたなんてダサ過ぎる。誰にも見られていなくてよかったと安心した所で、マントのポケットに入れていた依代が抜け出してオーナーの姿に変わる。
 俺に自分の仕事を任せておいて、今の今まで台所の仕事をしていたかのような油の染みで汚れた前掛けを付けた巨体で赤ら顔のオーナーだ。

「勇者様、地下に降りられますか?」

「……見てたか?」

「何をですか?」

「見てないならいいんだ」

「魔獣に驚いて崖から落ちた所をですか。ええ、痛そうでしたね」

 オーナーの言葉には、自分じゃなくて良かった、という感想しか含まれていない。
 まぁ気にすることもない。見られたのがニーアやリリーナじゃなくてまだマシだ。
 俺は修理不可能な手袋をマントのポケットに入れて、探知魔術で地面の下を探る。固い岩盤の下は空洞になっていて、自然にできた洞窟が広がっている。そんなの珍しくも何ともないと思ったが、オーナーは難しい顔をして顎の肉を揉んでいる。

「人が倒れています。おそらく死んでいますね」

「カルムが?」

「わかりません。そうだと話が早いのですが」

 岩壁に沿って崖の下を進むとすぐに人が入れそうな隙間が見つかって、湿った洞窟に入った。
 巨体のオーナーでも楽々と進んでいける広い空間で、松明を持って進むと二人分の陰が大きく映る。
 しかし、オーナーの姿はプツンプツンとノイズが掛かったように歪んでいた。トルプヴァールの魔術無効化の影響で上手く魔術が発動していない。依代に自分の姿を写し、更にオーナーの姿に変身するという二重の魔術に限界が来ていて、基礎代謝が高そうな快活なオーナーの姿から、ローブを纏った火傷で歪んだ顔の小柄な魔術師の姿に変わっていた。

「オーナーは死体に興味があるんだな」

「ああ、愚かな軍事魔術師の死体にな」

「それは、アムジュネマニスの任務か?」

「馬鹿が。かの国とは縁を切った。後は滅亡を待つばかりだ」

 オーナーは見た目だけでなく、言語まで魔術師が良く使う古代語に変わって口調も接客用のオブラートが消えている。
 変身魔術に翻訳機能も付いていたらしい。アムジュネマニスの古代語で「消えろ」と吐き捨てれば、ヴィルドルクの言語で「お帰り願えますか?お客様」と平身低頭に出てくるわけだ。是非とも俺にも搭載したい機能だ。

「それなら、学園長は?」

 学園長がリリーナの母親で、オーナーがリリーナの父親なら、自ずと学園長とオーナーは夫婦ということになる。
 このオーナーとあの少女のような学園長が子どもを成したとは思えなかったが、年の差がある方が恋愛は盛り上がったりするのかもしれない。
 部下の実家が円満な家庭だと上司としても安心だし、嫌いな奴の恋愛遍歴は現状が破滅的なほど興味深いものだ。
 しかし、オーナーは動揺した様子もなくローブで隠れた頭を振った。

「気付いているだろうが、あの子達は私の子供ではなく学園長の複製だ。完全に同一個体だと全滅の危険があるから、私の魔力を289で混ぜている」

「なるほど……」

 俺は動揺を悟られないように頷いた。
 気付いているだろうがと言われても、今のが初耳で想像もしていなかった。
 複製ということは、魔術で人工的に作られたクローンのような存在なのだろう。父親に全然似ていない個性的な子どもたちだと思っていたのに。

「なんだ。お前はそれほど賢くないのか」

 オーナーは俺が気付いていなかったことなとお見通しで、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
 火傷で変形した顔や掠れた声から老人だと思っていたが、リコリスの父親にしては若いくらいの年齢のようだ。複製というからには、普通の子どものように0歳で生まれたのではないのかもしれない。

「かの国では名誉なことだが、その結果があの様だ」

「リリーナは、立派にやってくれている」

 あの様がどの様を指すのかわからなかったが、オーナーを慰めるつもりで応えた。
 リコリスについては敢えて言及しない。あの若さで街一つを牛耳っていて立派な経営者だが、果たして自分の娘だったらどうだろう。

「無能だよ。現にお前はまだ生きているだろう」

「俺が生きているのとリリーナが無能なのと、関係ないだろう」

「いいや、折を見て私が殺すから弱らせて連れて来いと任せたのに、完全に忘れている。一生遊んで暮らせるだけの金と彼の国の永住権をやると言ったのに」

「……なるほど」

「お前は、そのポンコツで今までよく死ななかったな」

 俺は先程と同じように動揺を隠して応えたが、やはり隠し切れていなかったらしい。
 リリーナが完全に忘れていて助かった。出会った当初ならまだしも、今のリリーナに誘われたら俺はほいほい着いて行って無残に殺されていた。
 つい先日もリリーナが作ったお菓子を食べてトイレに籠る羽目になったし、ハーブの調合に付き合って丸一日寝込んだこともある。そんな時もリリーナは俺を騙すどころか嬉々としてナース服で看病してくるから、父親からの依頼など記憶の彼方に捨て去っているのだろう。

「それで?娘を使ってまで、どうして俺を殺したいんだ」

「ふん……取るに足らない、個人的な事情さ」

 オーナーは今までの高慢さが嘘のように弱々しく呟いた。
 突然態度を変えるから、何かきっと深くて辛い理由があるのだろうなと同情しかけたが、取るに足らない個人的な事情で殺される俺の事情はどうなる。

「それなら、殺し合いでも何でも、今やるか?」

「いいや、お前は逃げるだろう」

 オーナーは俺の方を見向きもせずにきっぱりと言い切る。
 もしかしたら正々堂々と勝負するかもしれないだろうと自己弁護をしようと思った。
 しかし、モベドスの理事だったこのオーナーが魔術師として本気を出したら、俺は簡単に殺される。だから、決闘開始の合図と同時に背を向けて逃げ出すだろうし、今だって話の流れによっては会話の途中でも移動魔術で養成校辺りに避難しようかと考えている。

「戦えば確実に私が勝つ。それは確実だとお前も分かっているだろう。しかし、逃げに徹されると仕留められない。害虫と同じだ」

 確かに、俺を殺してしまえばその後のアリバイ作りや裏工作まで、オーナーは完璧にやってのけるだろう。
 しかし、逃げられると面倒なことになる。俺はオグオンに報告をせざるを得ないし、勇者が攻撃されたとなると国内で魔術師排斥運動が始まり、魔術師が絡むとアムジュネマニスも黙っていないから事実上の2国間の戦争が始まる。
 面倒過ぎて当事者の俺ですら大人しく死んでおけばいいものを、と俺自身を恨んでしまいそうだ。オーナーもそんな大事にしてまで俺を殺すほどの事情ではないらしい。
 しかし、害虫呼ばわりは流石に酷くないか。

「お前、名は何という?」

 いきなりオーナーが尋ねて来て俺が答えようとした時、洞窟の先がぽっかりと明るくなっていた。
 洞窟の天井に割れ目が出来て、外の光が差し込んでいて人が岩に寄りかかるようにして倒れている。
 オーナーが誰か死んでいると気付いた理由がわかった。洞窟に光が差し込んで影が出来ているが、その影に首が無い。死体に首がないからだ。
 死んでから相当時間が経過していて、殆どミイラ化していた。
 俺は見知らぬ死体にあんまり近付きたくないなと思っていたが、オーナーは平気で近付いて死体のボロ布になっている服を捲った。
 既に変色した皮膚からでもわかるくらい、妙な痣が全身に広がっている。そして、首の傷も刃物で切り取られたというよりも獣が喰い千切ったような痕だ。

「この痣は感染症だ。こんな肉は魔獣でも食べない」

「病気で死んだ人間が、その辺の獣に食われたのか」

 日の光が差し込む隙間は、ギリギリ死体が落ちて来るかどうかの大きさだった。
 獣が死体を引き摺っていたが首が千切れて体が洞窟に落ち、大きな獣は入って来れずに今まで食われずに放置されていた。充分あり得る。勇者の俺がわざわざ調査をする必要はない。

「しかし、簡単な治癒魔術で治せる感染症なのに、どうしてこんな……」

 オーナーが死体を調べようと死体の奥に回り込むと、ぽんと音がして魔術が解けた。オーナーは木製の人形に戻り、カシャンと小さな音を立てて地面に落ちる。
 どうやらこの死体を境にしてトルプヴァールの魔術無効化が掛かっているらしい。オーナーが死体の影しか感知できなかったわけだ。
 試しに人形を摘まんで歩いて来た方に投げると、転がりながらオーナーの姿に戻った。

「遊ぶな」

「遊んでるのはそっちだろう」

「まったく……アガットでないならどうでもいい。好きにしろ」

 オーナーは舌打ちをしてそう言うと、今度は自ら魔術を解いた。ぽん、とコルク栓を抜くような呑気で軽い音がして人形は地面に落ちる。

「好きにしろって言われても……俺は死体に興味はないんだが」

 首無し死体と2人きりにされ、この際オーナーでいいから誰かいてくれないかと呟いたが、依代は完全にただの人形に戻っていた。
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