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「……え?」

「一度も会ってない。沙希の家から出た後は久しぶりにあの汚い祠で寝ていた」

「う、うそ、だってあの白い人が」

 見せてくれた、ソウスケと春奈が愛おしそうに抱き合うシーンを。私はしっかりこの目でそれを見たのに。

 震える声で言ってみれば、ソウスケはため息をついて突然私の頬を手で挟んだ。むにゅっと唇が尖って変な顔に変化してしまう。頬に彼の体温を感じたまま、私はただ必死に彼の顔を見上げるしかできなかった。

「だから、それはあいつが見せた幻だ。まだ分からないのか、全て計算内で騙されてるんだ。
 あんな得体の知れないやつのことを、私より信じるのか」

 真っ直ぐ見つめられ言葉を失った。ガラス玉みたいな彼の瞳に自分の顔が映り込む。やっぱりひょっとこみたいな間抜け顔だった。

 そうか、そうだったのか。

 私が騙されてただけなのか。

 ……怒るべきとこなのに、私は今喜びの気持ちでいっぱいだった。

「……ソウフケを、信じふ」

「はは。締まりのない返事だ」

 私の顔をみて少しだけ笑った彼は、そのまま無言でこちらに口付けた。私は反射的に瞼を閉じる。

 花のような、太陽のような懐かしい匂いを彼から感じた。ひんやりとした柔らかな唇はただただ私を翻弄し、溢れ出そうになる吐息を懸命に堪える。そこに彼の舌が侵入してきたので体が跳ねた。

 これは愛のないキスだ。業務事項のようなもの。それでも、私にとっては大切なものだった。自分の気持ちを再確認してしまった後の行為は、幸せで虚しかった。ありふれた歌詞のように、時が止まってしまえと思った。

 しばらくそうしたあとソウスケが離れる。私は顔を真っ赤にさせている自覚があったというのに、見上げてみると彼は非常に厳しい顔をしていた。金色の瞳を輝かせたまま、さっきまでの笑顔はまるでなく、睨むように背後を振り返る。

 私を背中に隠すように立つと、ソウスケは小声で言った。

「いいか沙希」

「え?」

「逃げられる時には必ず逃げろ。私は神だから死ぬことはない、だが沙希の体は違うからな。何を見ても必ず自分の安全だけを考えて逃げろ。
 あの妖の力はなかなか強い。沙希の陽の気でも防ぎきれないかもしれない」

 早口で私にそう告げた途端、ふわりと周りを獣臭が包んだ。うっと鼻を塞いでしまいたくなる。私はソウスケの背中からこっそり前を覗いてみると、そこに白いものがあった。

 白い髪、白い着物、白い肌。だが、初めに見た時とはまるで違う姿になっていた。美しかった髪は生き物のようにうねり蠢いている。目が酷く吊り上がって口も大きく裂けていた。そこから尖った牙が見える。

「化けの皮が剥がれているぞ」

 ソウスケが吐き捨てるように言うと、相手は怒りに震えながら言う。

「あと少しだったのに邪魔しおって」

「随分手の込んだ芝居を打ったようだな。まあ騙されるこいつも間抜けだが、それでもお前の用意周到さが圧巻だったのは認める」

「油断させないとその女は殺せない」

 白い獣の口の端から銀色の唾が垂れた。その光景を見てなんて自分は馬鹿だったんだろう、と思う。あんなの全然神様じゃない、私あいつに食べられるところだった。

 ぞぞっと寒気がして、私はソウスケの白いシャツを後ろから掴んだ。毅然とした態度で立っているソウスケは、低い声で言う。

「去れ」

「こっちのセリフだ、落ちこぼれめ。力がないのは知っている」

 そう強い口調で言った直後、その白い物が一気にこちらへ向かってきた。同時にソウスケはすっと右腕を前に差し出す。鋭い視線で呟いた。

「クズめ」

 指先をほんのわずかに動かし、円を描く。たったそれだけの動きだったが、同時にとんでもない突風が吹き荒れた。私すらそれで転んでしまいそうな強さで、必死にソウスケのシャツを掴んだまま足を踏ん張る。

 一瞬だけ目を閉じるも、すぐに開眼すると白い物が突風に煽られてその姿が見えなくなったのがわかった。安心してほっと息をつくも、ソウスケがすぐに言った。

「油断するな、すぐに来るぞ」

 右腕は何かに狙いを定めるように前に伸ばしたままだった。私はごくりと息を呑みながら黙ってソウスケにしがみついている。確かに、まだどこからか獣臭がする。

 その鼻につく匂いが突然強まった。はっとした私より一足早く、ソウスケが勢いよく右側を向く。そして思い切り腕を地面に向けて払った。

 それと同時に、いつのまにかほんの数メートル先まで迫っていた白い物が悲鳴を上げた。震えながらそれを見る。彼の着ている白い着物から煙が立ち上がっていた。だが何かが燃えているというわけでもない。一体どこから煙が立っているのか、私は目を凝らしてみる。

 わからなかった。わからないが、彼の体のあらゆるところから灰色の煙が上がって増えていく。空へ向かって登っていく煙は生きているような動きをしていた。着物から、指先から、足から、そしてとうとう顔から煙が噴き出していく。

 ソウスケが少し鼻で笑いながら言った。

「いくら落ちこぼれとはいえ神に敵うと思ったのか、愚かだな。なかなか力の強い者だが、神にはまるで敵わない」

 再び右腕を翳す。途端煙がさらに増し、悲鳴は一段と大きくなった。私は目の前の現実離れした光景に唖然としながらも、必死にそれを見つめていた。

 そんな私に気づいたのかソウスケが小声で言う。

「目を瞑ってろ。あまりいい光景とはいえない」

「ううん。わ、私のせいでこうなってるんだもん、ちゃんと見届けないと」

 叫ぶ白い人の顔半分は、見えない炎で燃え上がっていた。顔から尋常ではない煙が登っていく。ああ、このまま消えるんだ。私はそう思った。
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