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悪夢の痣

第55幕

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 薫は怠い身体をフェンスに預けて、グランドを眺めていた。暑く蒸すような気温の中、時折、吹き抜ける風が頬を撫でて心地好い。

 駆けたり、跳ねたりする男たちの走るペースが徐々に落ちて、ゆったりとしたストレッチを始める様子に、陸上部の練習が終わりに近づいている気配を感じた。

 隼人と目が合った、と思ったけれど、あれは気のせいだったのだろうか。隼人はあれから、一度も薫に視線を向けることはなかった。

 薫は、フェンスに寄り掛かりながら、その場から立ち去ろうと歩き出した。けれど、眩暈がして、膝から崩れる。脂汗が滲み、吐き気が伴う。もしかすると、薬の副作用なのかもしれない。



「夜中に寮を抜け出して、こんなところで何してるんだ、」

 唐突に声が降ってきて、薫は顔を上げた。声の主を目の当たりにして、さっと血の気が引いていく。

「兄さん、なんで、」

 目の前に立っている実兄は、薫を見下ろしている。呆れたように、それでいて苛立ちを隠しきれない立ち姿に、薫は萎縮した。

「母さんに心配かけるなと言っただろ。家で話を聞かせてもらうからな」

 有無を言わさぬ物言いで、響は実弟についてくるように顎で指図した。けれど、薫の反応は鈍く、その場で身体を硬直させているだけであった。響は苛立ったように、薫の手首を掴んだ。

「ほら、行くぞ、」
「……ッ……」

 強く腕を引かれて、無理やり立たされる。ぶつけた肩がピリっと痛み、薫は顔を歪ませ、前のめりにバランスを崩す。響は咄嗟に、薫を身体を抱き止めた。

「怪我してるのか、」
「…………転んで、ぶつけただけだから、」

 響の身体を押し退けようとしたが、上手く力が入らない腕では、響から逃げることは敵わない。響の匂いは、懐かしく、心が安らいでしまいそうな気がして、怖くなる。

 響は、腕の中の怯えたように震える肩に、眉を曇らせた。

 薫の内腿や臀部に刻まれた痣が脳裏を過る。直ぐにでも問い詰めたくなったが、口を閉ざして、薫に肩を貸してやった。実弟の身体は、四年分の身長が伸びていたが、高校生にしては、少し軽い気がした。


 無言で歩き続ける男に居心地の悪さを感じて、薫は響の顔を盗み見た。至近距離で見上げる実兄は、鼻筋が通った美しい横顔だった。切れ長の目元は知性があり、整った唇は優しさがあった。そして、記憶の中の実兄よりも、大人の男になっていた。

「……あの、荷物取ってきたいんだけど、」
「ダメだ。今、寮に戻ったら問い質される、」

 どうにか、この場から逃げ出そうと回らない頭で考えた言葉は、前を見据えたままの響に呆気ないほど簡単に一掃される。薫にはそれ以上の言葉は、見つけられそうになかった。


 駐車場には黒塗りの外国車が停まっていた。その車を視界に入れた途端、薫はゾワゾワと背筋に寒気がして、身体を硬直させた。あの密室の中で、兄に犯されたのは数日前のことであった。生々しい肌の感覚や甘く狂おしい快楽の記憶が甦る。

「そんなに警戒するなよ」

 響は、優しい口調で言葉を投げ掛けた。けれど、自分で発したその言葉は、あまりにも滑稽で笑えるものであった。

 無理やり番にして、一方的に番の契約を破棄して、再会した薫に手を出した。

 薫が怯えるのも無理はない。けれど、響の記憶の中の薫は「兄さん」と無邪気に自分の後ろを追ってくる実弟であった。
「響」と甘く名前を呼んで、しなだれかかってくる番の恋人であった。

 薫は自分のことを想って、恋い焦がれて、ずっと泣き暮らしているのだと、そんな自惚れを抱いていた。

 けれど、再会した薫は響の目を見ようともしない。

 助手席に薫を座らせると、響はダッシュボードから薬の袋を取り出した。後部座席からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、薫に手渡す。

「痛み止だ。飲んどけよ」

 薫は少し躊躇したが、渡された白い薬剤を口に含み、ミネラルウォーターを傾ける。

 響の言葉には逆らえない。優秀な実兄は常に正しく、薫は常に響の背中を追いかけて過ごしてきた。幼い頃に培われた習性は、簡単に抗えるものではない。

 ごくりごくりと動く薫の喉元には、黒いチョーカーが巻かれていて、その下には赤黒い瘡蓋がこびりついている。

「なに?」

 運転席から、じっと見つめられる視線に気がついて、薫は兄を見上げた。響は「別に」と、素っ気なく呟いて、ギアを入れ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。

 そうして、学園の正門から、一台の黒い車が滑るように走り去っていったのだった。



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