永い春の行く末は

nao@そのエラー完結

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水無月

第二十話

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 雨上がりの並木道には、水溜まりがいくつも点在していた。借り物のサンダルは少し大きくて歩きにくい。いくら水溜まりを避けようとしても、泥水が素足を濡らす。
 手には二つのビニール袋。森岡が洗濯してくれた生乾きの服と浸水したランニングシューズが入っている。
 空を見上げて虹を探してみたが、再び重い雲が広がり始めていた。

 小料理屋「だんや」は「準備中」の立て札がかけられている。ガラガラと引き戸を開けて、暖簾をくぐる。

「おかえり」

 大将と店員が顔をあげた。

「ただいま」

 ランチ営業を終えた店内は、清掃中のようであった。大将はカウンターの隅で、調理器具を片付けており、店員はテーブル席の食器を下げようとしていた。こちらを見つめる二人に軽く微笑んで、カウンター席を横切る。

「また喫茶店でも行ってきたのか?」

 カウンターの向こう側の大将から、軽く声をかけられ、立ち止まる。

「…………あそこは、もう閉店したんだよ」

 唐突に、セピア色の記憶が甦る。あの純喫茶で、貴俊と珈琲を飲みながら、二人の時間を楽しんでいた頃が確かにあった。もう何年も訪れていなかったが、いつか、また、二人で珈琲を飲みたいと思っていた。

「そうか」

 貴俊は、少しだけ驚いた素振りを見せたが、どこか納得しているようでもあった。

「マコトさん、なんか、いつもと雰囲気違いますね」

 ハルくんが、小首を傾げて尋ねてきた。

「あー、この服、借り物なんだよ。ジョギング中に、急に雨に降られてね。知り合いの家で雨宿りさせてもらってたんだ」

 ラフなTシャツとハーフパンツにサンダル。確かにあまり俺らしくはない格好であった。

「あ、道理でー」

 ハルくんは、腹落ちした顔で頷いた。

「ハル、もうここはいいから。このあと約束あるんだろ?」
「そうでした。すみません」

 青い甚平姿の青年は頭を下げると、慌てたようにカウンターに汚れた食器を置いて、奥に引っ込んでいく。なんだか、その姿が可愛らしくて頬が緩む。

「それで、知り合いって?」

 一瞬、何を尋ねられたのかわからなかった。大将は、まな板を洗いながら、俺の答えを待っている。

「…………同僚だよ。ジョギング仲間かな?」
「真人が、会社の人と仲良くするなんて珍しいな」

 淡々と感想を述べる大将に首を傾げた。けれど、云われてみれば、確かに俺らしくはない。今までは、会社の同僚と一定の距離を取り続けてきたのだから。

「そうだな。その同僚って、森岡くんって言うんだけど、半年ぐらい前に、こっちに異動になってきたんだ。営業部だからかな? 人懐っこくて、よく話しかけてくれるんだ」
「…………もしかして、ジョギング始めたのも?」

 ドキリとした。ジョギングを始めた理由を突き詰めれば、現実逃避に違いなかった。貴俊から求められないのは、俺の身体的な魅力の欠如が原因ではないか。なんて、卑屈な考えが少なからずあった。けれど、それを口に出すのは、あまりにも惨めったらしい。

「…………うん、えっと、森岡くんに体力作りにどうかって勧められたんだよ。呼吸法とか、シューズの選び方とか、いろいろ教えてもらったんだ」
「随分、親切なんだな」

 不審そうな瞳に射抜かれて、ひやりとしたものが心臓を撫でた。

「森岡くんとは年も近いし、彼もゲイだからかな? なんとなく親近感があるのかも、」
「ゲイ?」

 貴俊の眉が、ぴくりと動いた。

「どうかしたんですか?」

 ハッして振り返ると、目を丸くしたハルくんが立っている。

「なんでもないよ」

 少しだけ声が上擦った。森岡の話を聞かれたかもしれない。

「大将?」
「…………なんでもないよ。お疲れ様」

 大将は、ハルくんに優しく微笑んだ。二十歳の青年は、シャツの上に薄手のジャケットを羽織っている。もしかすると、これからデートなのかもしれない。

「そうですか。じゃ、おつかれさまでしたー」

 パタパタと足音を立てて、店から飛び出していく青年を見送ると、店内の空気は再びピンと張り詰める。

「何か、気に触ったか?」

沈黙に堪えられずに、口を開く。

「どうして?」
「…………いや、違うなら……いいんだけど」

 大将は微笑んだままであった。けれど、その笑顔からは言い様のない緊張感が滲み出ている気がした。



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