14 / 36
御者
十四
しおりを挟む
私のような無教養な者が、格好だけ紳士を真似てみても滑稽でございましょう。
それでも、直之様の恥にならぬように、私なりに身なりに気を払うことにいたしました。朝と夕には汗を流し、髪を整えて、シャツに袖を通します。白いシャツはすぐに汚れてしまいますので、手洗いを欠かせませんし、整備されていない砂利道では革靴はすぐ傷みますので、毎夜のように手入れをいたします。
その甲斐があってか、私の洋装も多少は板についてきたのではないかと思います。
朝倉邸の玄関前に馬車を止めて、馬を撫でておりますと、女中頭のウメさんが玄関扉を開きます。
「行って参ります」
直之様がお辞儀をしますと、ウメさんは深々と頭を下げました。隣りでは奥様が優雅に手を振られております。朝倉邸では、毎朝、直之様が登校する際には、奥様とウメさんが玄関先で見送ることが日課となっているのです。
「弘、お待ちなさい」
馬車の御者台へと足をかけますと、奥様に呼び止められてしまいました。振り返りますと、奥様は腕を伸ばして、私の肩に触れました。
「糸屑がついていますよ」
「すみません」
奥様は上目遣いで微笑まれました。このように間近で接したことがなく、これまで気がつきませんでしたが、朝倉夫人は、上品な花の香りを纏い、三十路を過ぎているとは思えぬ肌艶をしておられました。そうして、直之様の涼やかな目元は母親譲りであることが知れたのでございます。
「こうして見ると、弘も随分と背が高くなったわね。屋敷へ着たときは、こんなに小さかったのに」
奥様は手を下げて、楽しそうに記憶の中の背丈を計りました。
幼き日の私の瞳に映っていた奥様は、見上げるほどに背丈が高く、落ち着いた大人の女性でございましたが、目の前にいらっしゃる女性は、存外に小柄で、ころころと鈴のように笑う姿は若い娘のように見えました。
「弘、早くしろ。遅刻する」
「申し訳ありません」
直之様が苛立ったように仰るので、私は慌てて馬車に乗り込みました。
「気をつけていってらっしゃいね」
クロの尻に鞭を打ち、馬車を走らせますと、奥様は優しげに手を振りながら、私たちを見送ってくださったのでございます。
伊豆の町へ向かう馬車は、いつになく重苦しい空気を漂わせていました。というのも、直之様は不機嫌さを隠そうともせずに、腕を組んで、何か物思いに耽っておられたのです。
「直之様、学校はどうですか」
「阿呆ばかりだ」
差し出がましいとは思いましたが、お声かけをすると刺々しい言葉が返ってきます。
「直之様には中学校の授業は簡単すぎますか」
「あれなら、家で本を読んでいた方がよほど学業が進むというものだ」
「…………左様ですか」
私の枕元に飾ってある少年倶楽部には、学校というところは、学問を習うだけではないのだと説かれておりました。心身の鍛練を成し、ご学友との親睦を深めることが学舎の本質なのだそうです。
けれど、直之様は社交的な人間ではございませんでしたし、裕福な家に生まれたことで、妬まれることも多かったようでございます。どうにも心を許せるようなご友人には恵まれていないように見えました。
なんとも気まずい沈黙の中、馬の蹄の音だけが響いておりました。
「母は妾なのか」
驚いて顔だけ振り返ると、直之様は遠くを見つめておりました。その顔は表情のない人形のようでございます。
「……ご存知ありませんでしたか」
若く美しい朝倉夫人は、旦那様の妾でありました。成功を修めた実業家が妾を囲うことは珍しいことではございません。それが男の甲斐性というものでございます。
「父には他に家庭があるのだな」
「……旦那様は奥様のことも直之様のことも愛しておられますよ」
直之様は、薄く微笑みました。それは、どこか痛ましい笑みでございました。
正妻の子と疑いもしていなかった直之様は、心無いご学友に「妾の子」と、からかわれたことで、初めてその事実を突きつけられてしまったのでございましょう。
旦那様はというと貿易商の事業拡大を見越して、数年前に満州国へと移り住んでしまわれておりました。そうなると、自然と伊豆への足は遠のいてしまいます。それでも、こうして多額の援助を続けておられるということは、旦那様の誠意の現れでございましょう。
しかし、直之様には、そのような事実は受け入れ難いものでした。まるで旦那様に見捨てられてしまったかのように打ちひしがられていたのです。
直之様は、教養があり、賢く、純粋で、硝子細工のように繊細な心の持ち主でございましたから。
それでも、直之様の恥にならぬように、私なりに身なりに気を払うことにいたしました。朝と夕には汗を流し、髪を整えて、シャツに袖を通します。白いシャツはすぐに汚れてしまいますので、手洗いを欠かせませんし、整備されていない砂利道では革靴はすぐ傷みますので、毎夜のように手入れをいたします。
その甲斐があってか、私の洋装も多少は板についてきたのではないかと思います。
朝倉邸の玄関前に馬車を止めて、馬を撫でておりますと、女中頭のウメさんが玄関扉を開きます。
「行って参ります」
直之様がお辞儀をしますと、ウメさんは深々と頭を下げました。隣りでは奥様が優雅に手を振られております。朝倉邸では、毎朝、直之様が登校する際には、奥様とウメさんが玄関先で見送ることが日課となっているのです。
「弘、お待ちなさい」
馬車の御者台へと足をかけますと、奥様に呼び止められてしまいました。振り返りますと、奥様は腕を伸ばして、私の肩に触れました。
「糸屑がついていますよ」
「すみません」
奥様は上目遣いで微笑まれました。このように間近で接したことがなく、これまで気がつきませんでしたが、朝倉夫人は、上品な花の香りを纏い、三十路を過ぎているとは思えぬ肌艶をしておられました。そうして、直之様の涼やかな目元は母親譲りであることが知れたのでございます。
「こうして見ると、弘も随分と背が高くなったわね。屋敷へ着たときは、こんなに小さかったのに」
奥様は手を下げて、楽しそうに記憶の中の背丈を計りました。
幼き日の私の瞳に映っていた奥様は、見上げるほどに背丈が高く、落ち着いた大人の女性でございましたが、目の前にいらっしゃる女性は、存外に小柄で、ころころと鈴のように笑う姿は若い娘のように見えました。
「弘、早くしろ。遅刻する」
「申し訳ありません」
直之様が苛立ったように仰るので、私は慌てて馬車に乗り込みました。
「気をつけていってらっしゃいね」
クロの尻に鞭を打ち、馬車を走らせますと、奥様は優しげに手を振りながら、私たちを見送ってくださったのでございます。
伊豆の町へ向かう馬車は、いつになく重苦しい空気を漂わせていました。というのも、直之様は不機嫌さを隠そうともせずに、腕を組んで、何か物思いに耽っておられたのです。
「直之様、学校はどうですか」
「阿呆ばかりだ」
差し出がましいとは思いましたが、お声かけをすると刺々しい言葉が返ってきます。
「直之様には中学校の授業は簡単すぎますか」
「あれなら、家で本を読んでいた方がよほど学業が進むというものだ」
「…………左様ですか」
私の枕元に飾ってある少年倶楽部には、学校というところは、学問を習うだけではないのだと説かれておりました。心身の鍛練を成し、ご学友との親睦を深めることが学舎の本質なのだそうです。
けれど、直之様は社交的な人間ではございませんでしたし、裕福な家に生まれたことで、妬まれることも多かったようでございます。どうにも心を許せるようなご友人には恵まれていないように見えました。
なんとも気まずい沈黙の中、馬の蹄の音だけが響いておりました。
「母は妾なのか」
驚いて顔だけ振り返ると、直之様は遠くを見つめておりました。その顔は表情のない人形のようでございます。
「……ご存知ありませんでしたか」
若く美しい朝倉夫人は、旦那様の妾でありました。成功を修めた実業家が妾を囲うことは珍しいことではございません。それが男の甲斐性というものでございます。
「父には他に家庭があるのだな」
「……旦那様は奥様のことも直之様のことも愛しておられますよ」
直之様は、薄く微笑みました。それは、どこか痛ましい笑みでございました。
正妻の子と疑いもしていなかった直之様は、心無いご学友に「妾の子」と、からかわれたことで、初めてその事実を突きつけられてしまったのでございましょう。
旦那様はというと貿易商の事業拡大を見越して、数年前に満州国へと移り住んでしまわれておりました。そうなると、自然と伊豆への足は遠のいてしまいます。それでも、こうして多額の援助を続けておられるということは、旦那様の誠意の現れでございましょう。
しかし、直之様には、そのような事実は受け入れ難いものでした。まるで旦那様に見捨てられてしまったかのように打ちひしがられていたのです。
直之様は、教養があり、賢く、純粋で、硝子細工のように繊細な心の持ち主でございましたから。
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
キャラ文芸
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる