献身

nao@そのエラー完結

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御者

十四

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 私のような無教養な者が、格好だけ紳士を真似てみても滑稽でございましょう。
 それでも、直之様の恥にならぬように、私なりに身なりに気を払うことにいたしました。朝と夕には汗を流し、髪を整えて、シャツに袖を通します。白いシャツはすぐに汚れてしまいますので、手洗いを欠かせませんし、整備されていない砂利道では革靴はすぐ傷みますので、毎夜のように手入れをいたします。
 その甲斐があってか、私の洋装も多少は板についてきたのではないかと思います。


 朝倉邸の玄関前に馬車を止めて、馬を撫でておりますと、女中頭のウメさんが玄関扉を開きます。

「行って参ります」

 直之様がお辞儀をしますと、ウメさんは深々と頭を下げました。隣りでは奥様が優雅に手を振られております。朝倉邸では、毎朝、直之様が登校する際には、奥様とウメさんが玄関先で見送ることが日課となっているのです。

「弘、お待ちなさい」

 馬車の御者台へと足をかけますと、奥様に呼び止められてしまいました。振り返りますと、奥様は腕を伸ばして、私の肩に触れました。

「糸屑がついていますよ」
「すみません」

 奥様は上目遣いで微笑まれました。このように間近で接したことがなく、これまで気がつきませんでしたが、朝倉夫人は、上品な花の香りを纏い、三十路を過ぎているとは思えぬ肌艶をしておられました。そうして、直之様の涼やかな目元は母親譲りであることが知れたのでございます。

「こうして見ると、弘も随分と背が高くなったわね。屋敷へ着たときは、こんなに小さかったのに」

 奥様は手を下げて、楽しそうに記憶の中の背丈を計りました。
 幼き日の私の瞳に映っていた奥様は、見上げるほどに背丈が高く、落ち着いた大人の女性でございましたが、目の前にいらっしゃる女性は、存外に小柄で、ころころと鈴のように笑う姿は若い娘のように見えました。

「弘、早くしろ。遅刻する」
「申し訳ありません」

 直之様が苛立ったように仰るので、私は慌てて馬車に乗り込みました。

「気をつけていってらっしゃいね」

 クロの尻に鞭を打ち、馬車を走らせますと、奥様は優しげに手を振りながら、私たちを見送ってくださったのでございます。



 伊豆の町へ向かう馬車は、いつになく重苦しい空気を漂わせていました。というのも、直之様は不機嫌さを隠そうともせずに、腕を組んで、何か物思いに耽っておられたのです。

「直之様、学校はどうですか」
「阿呆ばかりだ」

 差し出がましいとは思いましたが、お声かけをすると刺々しい言葉が返ってきます。

「直之様には中学校の授業は簡単すぎますか」
「あれなら、家で本を読んでいた方がよほど学業が進むというものだ」
「…………左様ですか」

 私の枕元に飾ってある少年倶楽部には、学校というところは、学問を習うだけではないのだと説かれておりました。心身の鍛練を成し、ご学友との親睦を深めることが学舎の本質なのだそうです。

 けれど、直之様は社交的な人間ではございませんでしたし、裕福な家に生まれたことで、妬まれることも多かったようでございます。どうにも心を許せるようなご友人には恵まれていないように見えました。 


 なんとも気まずい沈黙の中、馬の蹄の音だけが響いておりました。

「母はめかけなのか」

 驚いて顔だけ振り返ると、直之様は遠くを見つめておりました。その顔は表情のない人形のようでございます。

「……ご存知ありませんでしたか」

 若く美しい朝倉夫人は、旦那様の妾でありました。成功を修めた実業家が妾を囲うことは珍しいことではございません。それが男の甲斐性というものでございます。

「父には他に家庭があるのだな」
「……旦那様は奥様のことも直之様のことも愛しておられますよ」

 直之様は、薄く微笑みました。それは、どこか痛ましい笑みでございました。

 正妻の子と疑いもしていなかった直之様は、心無いご学友に「妾の子」と、からかわれたことで、初めてその事実を突きつけられてしまったのでございましょう。
 旦那様はというと貿易商の事業拡大を見越して、数年前に満州国へと移り住んでしまわれておりました。そうなると、自然と伊豆への足は遠のいてしまいます。それでも、こうして多額の援助を続けておられるということは、旦那様の誠意の現れでございましょう。

 しかし、直之様には、そのような事実は受け入れ難いものでした。まるで旦那様に見捨てられてしまったかのように打ちひしがられていたのです。
 直之様は、教養があり、賢く、純粋で、硝子細工のように繊細な心の持ち主でございましたから。




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