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若旦那様
二十八
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お夕食をご用意したものの、奥様は食堂にはいらっしゃいませんでした。具合が悪いからと寝室に閉じこもってしまわれたので、仕方なくお夕食をお部屋までお持ちしました。けれど、奥様は布団を被ったまま、顔すら出してくださいません。寝室のテーブルには、夕刻に淹れて差し上げた紅茶が手つかずのまま、冷たくなっておりました。
「奥様、お加減はいかがですか」
「放っておいて頂戴」
布団の中からは、尖ったお声がいたします。なるべく奥様を刺激しないように、テーブルに静かに盆を置いて、寝室を後にしました。人手が足りず、屋敷のあらゆることがままなりません。無意識にこぼれる溜め息を呑み込んで、食堂でお食事中の若旦那様の様子を伺いました。
「母はどうしている」
直之様に訊ねられ、私は首を横に振りました。そうか、と直之様は無感動におっしゃいます。食卓に並べられた膳を見れば、箸がつけられておりません。
「お食事は、お口に合いませんでしたか」
「いいや、弘と一緒に食べようと思って待っていたんだ」
「そんな、若旦那様と食卓を共にするなど」
「こんなに落ちぶれた家だ。若旦那様もないだろう」
直之様はクックッと喉の奥で笑いました。若旦那様からのご厚意を無下にするわけにもいきませんから、自らの分を配膳して、食卓につきました。
「鮎が釣れてよかったな」
醤油と砂糖で煮込んだ鮎の甘露煮。少々煮込みが浅かったように思いますが、幸いにも直之様のお口には合ったようで、頬を綻ばせてくださいました。
直之様の箸の扱いは流れるように美しく、やはり育ちのよい紳士でございます。ですから、このように食卓をご一緒するには、どうにも居心地が悪いのです。
「昔食べたあんみつは旨かったな。覚えているか」
「ええ、覚えております」
直之様の呟いた言葉に驚いて、少し声が上擦ってしまいました。
忘れるはずもありません。そう、あれは幼少の頃に伊豆の町を散策した一夏の思い出でありました。肩を並べて白玉あんみつを食べたのです。
「あの茶屋は、もうないのだったな」
直之様は懐かしそうにおっしゃるので、私は俯くしかありませんでした。
その晩は、どうにも寝つきの悪く、夢と現を行き来しては、何度も寝返りを打っておりました。
不意に瞼を開いて扉の方に顔を向ければ、そこには、ぼんやりと人影があったのです。長い髪を乱した白い着物姿の女。ふらりふらりと足音もなく近づいてくるものですから、私は息すらも忘れてしまいました。
「弘」
消え入るような細い声は、いやにはっきりと聞こえます。長い髪の隙間から覗く瞳は、どこか虚ろでありました。首筋から頬にまで広がる薔薇のような痣は、月明かりに照らされれば、なんとも薄気味が悪く、この世のものとは思えません。すうと伸びた細い指にも赤い斑点が広がっており、その指先が、私の頬を撫でるものですから、私は思わず、払い除けてしまいました。
女は、にんまりと笑いました。
「私はそんなに、みにくいかしら」
虚ろな瞳が恨めしそうに私を見下ろしました。私は、そのときになってようやく、これが現実であると気が付いたのです。
「奥様はお綺麗です」
身体を起こして、その細い肩に手を添えます。
瞬間、パチンと渇いた音が響き渡りました。
「つかれたわ」
奥様は、私の肩を押し退けると、よろめきながら部屋から出ていかれました。頬がじんじんと熱を帯び、口の中に鉄の臭いが広がります。このように頬を打たれたのは久しいことで、私は呆気にとられたまま固まっていることしかできませんでした。
私は意気のない臆病者で、何もできずに後悔ばかりしております。それでも、ほんの少しでも、私に度量があれば、あの小さな背中を追えたのやもしれません。
奥様が亡くなったのは、翌朝のことでございました。
「奥様、お加減はいかがですか」
「放っておいて頂戴」
布団の中からは、尖ったお声がいたします。なるべく奥様を刺激しないように、テーブルに静かに盆を置いて、寝室を後にしました。人手が足りず、屋敷のあらゆることがままなりません。無意識にこぼれる溜め息を呑み込んで、食堂でお食事中の若旦那様の様子を伺いました。
「母はどうしている」
直之様に訊ねられ、私は首を横に振りました。そうか、と直之様は無感動におっしゃいます。食卓に並べられた膳を見れば、箸がつけられておりません。
「お食事は、お口に合いませんでしたか」
「いいや、弘と一緒に食べようと思って待っていたんだ」
「そんな、若旦那様と食卓を共にするなど」
「こんなに落ちぶれた家だ。若旦那様もないだろう」
直之様はクックッと喉の奥で笑いました。若旦那様からのご厚意を無下にするわけにもいきませんから、自らの分を配膳して、食卓につきました。
「鮎が釣れてよかったな」
醤油と砂糖で煮込んだ鮎の甘露煮。少々煮込みが浅かったように思いますが、幸いにも直之様のお口には合ったようで、頬を綻ばせてくださいました。
直之様の箸の扱いは流れるように美しく、やはり育ちのよい紳士でございます。ですから、このように食卓をご一緒するには、どうにも居心地が悪いのです。
「昔食べたあんみつは旨かったな。覚えているか」
「ええ、覚えております」
直之様の呟いた言葉に驚いて、少し声が上擦ってしまいました。
忘れるはずもありません。そう、あれは幼少の頃に伊豆の町を散策した一夏の思い出でありました。肩を並べて白玉あんみつを食べたのです。
「あの茶屋は、もうないのだったな」
直之様は懐かしそうにおっしゃるので、私は俯くしかありませんでした。
その晩は、どうにも寝つきの悪く、夢と現を行き来しては、何度も寝返りを打っておりました。
不意に瞼を開いて扉の方に顔を向ければ、そこには、ぼんやりと人影があったのです。長い髪を乱した白い着物姿の女。ふらりふらりと足音もなく近づいてくるものですから、私は息すらも忘れてしまいました。
「弘」
消え入るような細い声は、いやにはっきりと聞こえます。長い髪の隙間から覗く瞳は、どこか虚ろでありました。首筋から頬にまで広がる薔薇のような痣は、月明かりに照らされれば、なんとも薄気味が悪く、この世のものとは思えません。すうと伸びた細い指にも赤い斑点が広がっており、その指先が、私の頬を撫でるものですから、私は思わず、払い除けてしまいました。
女は、にんまりと笑いました。
「私はそんなに、みにくいかしら」
虚ろな瞳が恨めしそうに私を見下ろしました。私は、そのときになってようやく、これが現実であると気が付いたのです。
「奥様はお綺麗です」
身体を起こして、その細い肩に手を添えます。
瞬間、パチンと渇いた音が響き渡りました。
「つかれたわ」
奥様は、私の肩を押し退けると、よろめきながら部屋から出ていかれました。頬がじんじんと熱を帯び、口の中に鉄の臭いが広がります。このように頬を打たれたのは久しいことで、私は呆気にとられたまま固まっていることしかできませんでした。
私は意気のない臆病者で、何もできずに後悔ばかりしております。それでも、ほんの少しでも、私に度量があれば、あの小さな背中を追えたのやもしれません。
奥様が亡くなったのは、翌朝のことでございました。
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