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落花流水
三十五
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窓の外で辻馬車が走り去るのを見送ると、眠っている直之様を背に担いで、若旦那様の寝室まで運んで差し上げました。寝台に横たえて、水を浸した手拭いで汚れた肢体を拭って差し上げます。直之様は、ぐったりと深い眠りに入っているというのに、小刻みに身体を震わせているものですから、すぐにでも町までおりて、お医者様を呼んでくるべきか、けれど直之様をおひとりにしてよいものか、私は途方に暮れておりました。そうしているうちに、直之様の瞼がゆっくりと開いたのです。
「お前には世話をかけてばかりだな」
「いいえ、直之様のお世話をするのが私の仕事ですから」
起き上がろうと身じろいだ直之様は、苦しそうに頭をおさえて踞りました。肩を支えて、背中を擦って差し上げると、ゆっくりと息を吐いて、再び寝台に沈んでいきました。
「大事ない。阿片で少し頭がぼんやりしているだけだ」
書斎に充満していた臭いは、まやかしの陶酔感をもたらす毒だったのやもしれません。あの獣の前で、毒に酔った直之様は、どのような姿を晒したのでしょうか。
「僕のことを軽蔑するか」
直之様は、両腕で目元を伏せながら、唇を開きました。
「僕はこの目で、世界を見てみたかった。海を渡ってみたかったんだ」
「そうまでして大英帝国へ渡りたいのですか。できもしない陰間の真似事までなさって、阿片に脳を溶かされ、廃人になっても構わないと、そうおっしゃるのですか」
「あゝ、そうさ。僕は愚か者だ。けれど、こうする他はなかったんだ。僕はおそろしいんだ。こんなところで、こんな陰気な屋敷の中で、何も成し得ず、何者にも成れず、誰に知られることもなく、じわりじわりと生きながら朽ちていくのだと思うと、僕はどうしようもなく、おそろしい」
「ですから、私もこの屋敷と一緒に置いていくつもりでしたか」
「それは違う。違うんだ。弘なら帝都や満州で大成することもできるだろうから、心配いらないと先生がおっしゃったんだ」
「私はそんなものを望んではおりません」
直之様は、ぴたりと口を閉ざしました。そうして、腕をとくと、私に視線を寄越したのです。
「そうだな。お前は僕を好いているのだったな」
直之様は私の手を取ると、自らの胸元に押しつけたのです。しっとりと汗ばんだ肌は温かく、私は唾を呑みました。まるで媚びるような瞳は、奥様を思い起こさせます。
「いいえ、あれは、私の気の迷いでございました」
直之様は「そうか」と目を伏せて自嘲気味に笑いました。
私に気の迷いなどありませんでした。できうるならば、直之様の肢体を隅々までまさぐって、悦楽に震える唇を奪い取り、泣いて赦しを乞う直之様を、私のものにしてしまいたいのです。
もしかすると、それは容易に叶えられるのやもしれません。直之様の腕はこんなに細く、逃げるための足も潰れ、ここはどんなに叫んでも助けの来ない山奥なのですから。
「僕にはもう何もない。お前にやれるものなど、ひとつもないんだ。それでも、お前はここにいてくれるのか」
「私は、ずっと、直之様のお傍におりますよ」
あの獣を殴りつけて腫れ上がった手の甲を、直之様は労るように撫でてくださいます。そうして、私を真っ直ぐに見つめて、優しく微笑んでくだすったのです。私など、一介の下男に過ぎませんのに。
「お前は本当に、欲のない男だ」
「いいえ。私は、もう欲しいものを手にしておりますから」
直之様が不思議そうに首を傾げられるものですから、私は思わず吹き出してしまったのです。腹を抱えて笑い出せば、息を吸うこともままならぬほどで、それがあまりにも苦しくて、涙が溢れてくるのです。直之様は、おそろしげに私のことを見つめておりました。私が気でも違ってしまったのかと不安になられたのやもしれません。
そうではないのです。私はただ、気づいてしまったのです。私ほど、邪悪で強欲な男などいないのです。何かもを失い、私という男以外には、頼れる者のいなくなった直之様の不幸を、何よりも悦んでいるのですから。
「お前には世話をかけてばかりだな」
「いいえ、直之様のお世話をするのが私の仕事ですから」
起き上がろうと身じろいだ直之様は、苦しそうに頭をおさえて踞りました。肩を支えて、背中を擦って差し上げると、ゆっくりと息を吐いて、再び寝台に沈んでいきました。
「大事ない。阿片で少し頭がぼんやりしているだけだ」
書斎に充満していた臭いは、まやかしの陶酔感をもたらす毒だったのやもしれません。あの獣の前で、毒に酔った直之様は、どのような姿を晒したのでしょうか。
「僕のことを軽蔑するか」
直之様は、両腕で目元を伏せながら、唇を開きました。
「僕はこの目で、世界を見てみたかった。海を渡ってみたかったんだ」
「そうまでして大英帝国へ渡りたいのですか。できもしない陰間の真似事までなさって、阿片に脳を溶かされ、廃人になっても構わないと、そうおっしゃるのですか」
「あゝ、そうさ。僕は愚か者だ。けれど、こうする他はなかったんだ。僕はおそろしいんだ。こんなところで、こんな陰気な屋敷の中で、何も成し得ず、何者にも成れず、誰に知られることもなく、じわりじわりと生きながら朽ちていくのだと思うと、僕はどうしようもなく、おそろしい」
「ですから、私もこの屋敷と一緒に置いていくつもりでしたか」
「それは違う。違うんだ。弘なら帝都や満州で大成することもできるだろうから、心配いらないと先生がおっしゃったんだ」
「私はそんなものを望んではおりません」
直之様は、ぴたりと口を閉ざしました。そうして、腕をとくと、私に視線を寄越したのです。
「そうだな。お前は僕を好いているのだったな」
直之様は私の手を取ると、自らの胸元に押しつけたのです。しっとりと汗ばんだ肌は温かく、私は唾を呑みました。まるで媚びるような瞳は、奥様を思い起こさせます。
「いいえ、あれは、私の気の迷いでございました」
直之様は「そうか」と目を伏せて自嘲気味に笑いました。
私に気の迷いなどありませんでした。できうるならば、直之様の肢体を隅々までまさぐって、悦楽に震える唇を奪い取り、泣いて赦しを乞う直之様を、私のものにしてしまいたいのです。
もしかすると、それは容易に叶えられるのやもしれません。直之様の腕はこんなに細く、逃げるための足も潰れ、ここはどんなに叫んでも助けの来ない山奥なのですから。
「僕にはもう何もない。お前にやれるものなど、ひとつもないんだ。それでも、お前はここにいてくれるのか」
「私は、ずっと、直之様のお傍におりますよ」
あの獣を殴りつけて腫れ上がった手の甲を、直之様は労るように撫でてくださいます。そうして、私を真っ直ぐに見つめて、優しく微笑んでくだすったのです。私など、一介の下男に過ぎませんのに。
「お前は本当に、欲のない男だ」
「いいえ。私は、もう欲しいものを手にしておりますから」
直之様が不思議そうに首を傾げられるものですから、私は思わず吹き出してしまったのです。腹を抱えて笑い出せば、息を吸うこともままならぬほどで、それがあまりにも苦しくて、涙が溢れてくるのです。直之様は、おそろしげに私のことを見つめておりました。私が気でも違ってしまったのかと不安になられたのやもしれません。
そうではないのです。私はただ、気づいてしまったのです。私ほど、邪悪で強欲な男などいないのです。何かもを失い、私という男以外には、頼れる者のいなくなった直之様の不幸を、何よりも悦んでいるのですから。
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