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「光の魔法と黒の呪い」後編
17大猩猩の仕立物師
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大猩猩、ゴリラの亜獣人と聞かされてカルディアはひどく納得した。人にしては長く逞しい腕、膨らんだ鼻にどこまでが髪でどこからが髭なのか分からない側頭部の被毛など、それらの特徴がゴリラの一言で全て結びついた。
大猩猩族の仕立物師であるタルジは主にアルタナ地区を拠点に仕事をしていたところ様々な事情でジャナヴァラにやってきたが、やっぱり様々な事情があって故郷に帰ろうとしていたところだったという。そこをタッチの差でシデンが見つけ、王宮に召し上げた。
「彼は大猩猩族のタルジという者です。彼の故郷に伝わるクラムという織物は何と木の皮から出来ているそうで」
「あのう……」
「皮を煮て……はい、タルジさん、何でしょう?」
「私、女です」
「あ……!」
息を弾ませながら熱心に説明をしていたシデンが一気にまずくなって慌てて謝罪する。後は直接本人から聞いてくれというように、シデンは礼をして一歩後ろに下がった。
「じ、事情は聞きました。ですが実は私、クラムは織れないんです。専用の織機も故郷にしかありませんし……」
単なる広間とは言え王宮に召喚されて萎縮しっぱなしのタルジは大きな肩を小さく窄めて心底申し訳なさそうにしている。その上王子の求めに応じられないとくれば、俯いてしまうのも無理はない。
「仕立物師を自称しながら王族の方々に相応しい婚礼衣装がどのような物かも知りません。私には、とても……」
誰に対してもクールなアスランをして、タルジの様子は相当憐れに見えるらしい。拍子抜けしたような顔つきで、可哀想なくらい縮こまっているタルジを見下ろしている。
しかしこちらとしても簡単に引き下がる訳にはいかない事情があった。仕立物師といっても当然、婚礼衣装のような大掛かりなものを仕立てられる腕を持つ者は限られる。その上で獅子族の仕立て屋が王族に協力しないというのだから困り果てていた。そこにきて、アルタナ地区でいっとき流行の中心だった仕立物師とくれば、ひとまず彼女の腕前を見てみなければ納得出来なかった。
「タルジ、そのクラムってまだ手元に残ってる?」
逞しい腕を腹の前で握りしめ、「端切れなら」と消え入りそうな声で言う。
「大猩猩族は森で暮らしてるんだよね? 僕も森が故郷だから、是非見てみたいな」
見せてくれる? とカルディアはなるべく彼女を刺激しないように訊ねてみると、タルジはひどく恐縮しながら念のためシデンが預かっていた大きなバッグから布を仕舞っているらしい箱を取り出した。四隅に金属をはめた透かし彫りの綺麗な木箱だ。元々は服を入れておくためのものだったようだが、開けた中から出てきてのはハンカチサイズの端切れのみ。
タルジに頼んで手に取ってみると端切れと言ってもその仕事の丁寧さや、使われている糸が元が木だったとは思えないほど細く繊細に縒られているのが分かる。染めていない部分は生成りの優しい色合いだ。原色系且つ派手な柄が多いシリオの服ばかり着ていたので、自然なままの色合いが妙に落ち着く。
生地は硬くひらひらと風になびくような軽い質感ではないが、十分に綺麗な衣装を作る事が出来そうだ。
「アスラン、どうかな」
カルディアからアスランの手に端切れが渡るとタルジはとうとう顔を片手で覆ってしまった。
(いくらなんでも怯えすぎじゃあ……)
今は顔も見えなくなってしまったが、最初こそカルディアとは辛うじて視線が合っていた。怖いのはアスラン──獅子族か。
視線だけでマーサムを探すも彼はアスランの後ろから一緒になって端切れを検分している。カルディアは自分の傍に控えていたケディに訊いてみる事にする。
「大猩猩族と獅子族って仲が悪かったりする?」
声を可能な限り落として訊くと、ケディも同じように小さな声で答えてくれる。
「さぁ? ゴリラの住んでる森ってこっから大分遠いから、あんまり交流ないし」
ケディは肩を竦める。
アスランの感触は悪くはないといった感じだ。だがタルジの言うように専用の機織りがなければクラムは織れない。やはり諦めるしかないのかと落胆していると、恐る恐る顔から手を退かしたタルジが「あの……」と声を掛ける。
「何かお叱りがあるんじゃないんでしょうか? ち、近頃、猿族の粛清があったと、噂で……っ」
二つに結った大きな毛玉のような髪を揺らして今度こそ両手で顔を覆う。大きい体に毛玉の髪型、珍しいゴリラの亜獣人というどう足掻いても目立つ姿のおかげであまり悲壮感はない。長い腕を機敏に動かすので仕草も大きく、傍に立っているシデンは一瞬笑い掛けて顔を思い切り逸らした。
「粛清ではない。犯罪の取り締まりだ」
アスランがぴしゃりとタルジの言葉を否定すると、タルジはぶるぶると肩を震わせて「すみません!」と泣きそうな声で叫んだ。
「アスラン」
カルディアが苦笑するとアスランはバツの悪そうな顔で目を閉じた。アスランの周りは自分の主張をはっきりと伝える人間ばかりなので、タルジのような人は慣れなくても仕方がない。
カルディアはクラムを持ってタルジの傍に寄ると、彼女の肩を優しく叩いて顔を上げさせる。
「ねぇもしもここにたくさんのクラムがあるとするでしょ? そして繕った服を着る事になる僕らもここにいる。想像の僕やアスランでは思い描けなかったデザインが、本人を前にしてみたらどうかな?」
僕にはどんな服が似合う?
カルディアの問いに半泣きの顔を上げる。タルジの目から恐怖が消えて、分厚い唇が溢れてきたアイディアに突き動かされ自然と開く。
「……カルディア様はやはり森でお育ちになられたので、自然の色がよくお似合いです。こちらの派手な色や柄も良いけど、繊細な銀の御髪と、まるでアカネで染めた布に銀箔を散りばめたような発色の良い瞳には、生成りの生地に草木で染めた柔らかい発色の糸を通したクラムで縫ったローブとケープが神秘的なお姿をよく引き立てると思います。レースのような柔らかい生地もきっとお似合いですよ!」
話していくうちに段々と頬を紅潮させるタルジにうんうんと頷いて、「アスランは?」と更に彼女の想像を促す。
「色の浅い褐色で艶のあるお肌と何と言っても『黒獅子』だけが持つ漆黒の鬣を一番に魅せられるものが良いです。ですがお二人は番ですから、クラムに織り込む柄を揃えにして、そうですね……決して真っ青ではない複雑な色の瞳と黒髪には銀、そう、ちょうどカルディア様の御髪のような銀糸の刺繍はいかがでしょう? 身に付ける装飾品も銀に揃えて、青地に銀糸の刺繍を施した長いマントなど私は好きです!!」
すっかり興奮して舌を振るったあと、はっと冷静になったタルジは空気を抜くようにしゅるしゅると再び体を縮こめた。
カルディアはアスランの顔を無言で見つめる。腕を組んで黙ってタルジのデザイン案を聞いていたアスランは、カルディアの意図を察して同じく無言で頷いた。
「タルジ、お願いがあるんだ」
「な、何でございましょう……?」
「僕とアスランの婚礼衣装を作ってほしい」
「な、なななっ!? む、無理です、無理ですよう!!」
「無理でも構わない。でも挑戦してほしい。君も知ってるだろうけど今、国では絹が不足していて王都の仕立て屋はどこも仕事を受けられない状況なんだ。お願い、タルジ!」
厚くて肉刺だらけのタルジの手を両手で握り、アスランよりも更に高いところにある彼女の赤褐色の目をじっと見つめ、祈る思いで頼み込む。自分より姿形の全てが小作りなカルディアから懇願するように見つめられたタルジはたまらずたじたじになって後退りしたが、しっかりと握られた手のおかげでカルディアはどこまでもついてきた。背後に自身のバッグを持って立っていたシデンが迫り、「我が主のためどうか」と真摯に頭を下げられては、臆病なタルジにもはや断るだけの勇気は持てなかった。
「し、承知致しました……」
タルジという大猩猩族の仕立物師にどうにか婚礼衣装を作ってもらえる事にはなったが、王宮にもお抱えのお針子たちが居る。お針子たちはジェサーレ、アスラン、カルディアの服を季節に合わせて毎日せっせと繕ってくれるのだが、彼らの力を借りても婚礼衣装の製作はなかなか進まなかった。
一週間、二週間と過ぎても相変わらずジャナヴァラの仕立て屋たちが婚礼衣装の案を持って王宮に登ってくる事はない。更に三週間が過ぎ、すっかり秋めいてカルディアが活き活きとし始めた頃に若い獅子族の針子を名乗る男がやってきた。
歳は二十歳前後、とある仕立て屋で修行の毎日を送っている青年は名をイグネといい、腹を括ったような顔でカルディアたちの前に現れた。
「抜け駆けをするものがいると、噂になったんです」
「抜け駆け?」
アスラン自らが話を聞くとは思っていなかったのだろう、イグネは気後れした様子で事情を話し始める。
およそ二ヶ月ほど前、馬闘祭で優勝したアスランが仕立物師を募る触れを出した。王族の婚礼衣装を繕うとなれば仕立物師にとって生涯で最も名誉ある仕事である。名は売れ、店は子の世代まで繁盛し、町中の仕立て屋がこぞって自慢の仕立物師に衣装案を練らせて王宮に詰めかける──はずだった。
噂は馬闘祭が行われた日から三日と経たずに流れ始めた。アスランが主導している職人の支援活動で、抜け駆けする者がいるという。
「最初はそれだけだったんです。抜け駆けした者がアスラン様に選ばれる、と。でもそのうち噂はどんどん尾ひれをつけて膨らんでいって、アスラン様に貢ぎ物をしている奴がいるだとか、その貢ぎ物の内容もエスカレートしていって、仕立て屋たちはお互いに抜け駆けをしないよう協定を結びました。絹不足も助けて、お互いがお互いを監視し始めたんです」
そうしてジャナヴァラの仕立て屋たちは横一線に王族への協力を拒む事になってしまった。
そんな事がありえるのだろうかと疑ってしまうが、ありえてしまったから現状タルジは一人で婚礼衣装を作る羽目になってしまっている。製作に必要な生地も糸も道具もなかなか手配が進まず難航しているようだ。
「それで、お前はそれを何故ここに伝えにきた?」
タルジの時と同様、広間に通されたイグナはタルジ以上に立場は悪いはずだったが、彼は真っすぐにアスランを見つめて覚悟を決めていた。
「おかしい、と思ったからです。本来なら材料の不足を知恵で補い、時には仕立て屋同士で助け合って王子様方の結婚式を一番に盛り上げなくてはならない私たち仕立て屋が、どうして王族を裏切らなくてはならないのかと。確かに婚礼衣装の製作は仕立て屋の夢です。そのお仕事をさせてもらえば名は上がって箔がつく。でもそれ以前に、私たちは服を作るのが仕事。欲しいと言う人がいるのを放っておいて、何が仕立て屋かと、そう、思ったんです」
自身の主張がおかしいなら首を切られたって構わない。そんな気迫の籠った演説に感心したのはカルディアだけではなかった。衣装製作を請け負ってくれる仕立て屋を探して東奔西走してきた者たちや、彼らの苦労を知るアスランも、イグネの心意気は嬉しいものだった。
イグネはすぐにタルジと合流し、二人で衣装製作を進めていく事になった。表立ってはいないがイグネの勤めている仕立て屋が道具や材料を手配してくれる事になり、残る問題は人手とクラムだけになった。
大猩猩族の仕立物師であるタルジは主にアルタナ地区を拠点に仕事をしていたところ様々な事情でジャナヴァラにやってきたが、やっぱり様々な事情があって故郷に帰ろうとしていたところだったという。そこをタッチの差でシデンが見つけ、王宮に召し上げた。
「彼は大猩猩族のタルジという者です。彼の故郷に伝わるクラムという織物は何と木の皮から出来ているそうで」
「あのう……」
「皮を煮て……はい、タルジさん、何でしょう?」
「私、女です」
「あ……!」
息を弾ませながら熱心に説明をしていたシデンが一気にまずくなって慌てて謝罪する。後は直接本人から聞いてくれというように、シデンは礼をして一歩後ろに下がった。
「じ、事情は聞きました。ですが実は私、クラムは織れないんです。専用の織機も故郷にしかありませんし……」
単なる広間とは言え王宮に召喚されて萎縮しっぱなしのタルジは大きな肩を小さく窄めて心底申し訳なさそうにしている。その上王子の求めに応じられないとくれば、俯いてしまうのも無理はない。
「仕立物師を自称しながら王族の方々に相応しい婚礼衣装がどのような物かも知りません。私には、とても……」
誰に対してもクールなアスランをして、タルジの様子は相当憐れに見えるらしい。拍子抜けしたような顔つきで、可哀想なくらい縮こまっているタルジを見下ろしている。
しかしこちらとしても簡単に引き下がる訳にはいかない事情があった。仕立物師といっても当然、婚礼衣装のような大掛かりなものを仕立てられる腕を持つ者は限られる。その上で獅子族の仕立て屋が王族に協力しないというのだから困り果てていた。そこにきて、アルタナ地区でいっとき流行の中心だった仕立物師とくれば、ひとまず彼女の腕前を見てみなければ納得出来なかった。
「タルジ、そのクラムってまだ手元に残ってる?」
逞しい腕を腹の前で握りしめ、「端切れなら」と消え入りそうな声で言う。
「大猩猩族は森で暮らしてるんだよね? 僕も森が故郷だから、是非見てみたいな」
見せてくれる? とカルディアはなるべく彼女を刺激しないように訊ねてみると、タルジはひどく恐縮しながら念のためシデンが預かっていた大きなバッグから布を仕舞っているらしい箱を取り出した。四隅に金属をはめた透かし彫りの綺麗な木箱だ。元々は服を入れておくためのものだったようだが、開けた中から出てきてのはハンカチサイズの端切れのみ。
タルジに頼んで手に取ってみると端切れと言ってもその仕事の丁寧さや、使われている糸が元が木だったとは思えないほど細く繊細に縒られているのが分かる。染めていない部分は生成りの優しい色合いだ。原色系且つ派手な柄が多いシリオの服ばかり着ていたので、自然なままの色合いが妙に落ち着く。
生地は硬くひらひらと風になびくような軽い質感ではないが、十分に綺麗な衣装を作る事が出来そうだ。
「アスラン、どうかな」
カルディアからアスランの手に端切れが渡るとタルジはとうとう顔を片手で覆ってしまった。
(いくらなんでも怯えすぎじゃあ……)
今は顔も見えなくなってしまったが、最初こそカルディアとは辛うじて視線が合っていた。怖いのはアスラン──獅子族か。
視線だけでマーサムを探すも彼はアスランの後ろから一緒になって端切れを検分している。カルディアは自分の傍に控えていたケディに訊いてみる事にする。
「大猩猩族と獅子族って仲が悪かったりする?」
声を可能な限り落として訊くと、ケディも同じように小さな声で答えてくれる。
「さぁ? ゴリラの住んでる森ってこっから大分遠いから、あんまり交流ないし」
ケディは肩を竦める。
アスランの感触は悪くはないといった感じだ。だがタルジの言うように専用の機織りがなければクラムは織れない。やはり諦めるしかないのかと落胆していると、恐る恐る顔から手を退かしたタルジが「あの……」と声を掛ける。
「何かお叱りがあるんじゃないんでしょうか? ち、近頃、猿族の粛清があったと、噂で……っ」
二つに結った大きな毛玉のような髪を揺らして今度こそ両手で顔を覆う。大きい体に毛玉の髪型、珍しいゴリラの亜獣人というどう足掻いても目立つ姿のおかげであまり悲壮感はない。長い腕を機敏に動かすので仕草も大きく、傍に立っているシデンは一瞬笑い掛けて顔を思い切り逸らした。
「粛清ではない。犯罪の取り締まりだ」
アスランがぴしゃりとタルジの言葉を否定すると、タルジはぶるぶると肩を震わせて「すみません!」と泣きそうな声で叫んだ。
「アスラン」
カルディアが苦笑するとアスランはバツの悪そうな顔で目を閉じた。アスランの周りは自分の主張をはっきりと伝える人間ばかりなので、タルジのような人は慣れなくても仕方がない。
カルディアはクラムを持ってタルジの傍に寄ると、彼女の肩を優しく叩いて顔を上げさせる。
「ねぇもしもここにたくさんのクラムがあるとするでしょ? そして繕った服を着る事になる僕らもここにいる。想像の僕やアスランでは思い描けなかったデザインが、本人を前にしてみたらどうかな?」
僕にはどんな服が似合う?
カルディアの問いに半泣きの顔を上げる。タルジの目から恐怖が消えて、分厚い唇が溢れてきたアイディアに突き動かされ自然と開く。
「……カルディア様はやはり森でお育ちになられたので、自然の色がよくお似合いです。こちらの派手な色や柄も良いけど、繊細な銀の御髪と、まるでアカネで染めた布に銀箔を散りばめたような発色の良い瞳には、生成りの生地に草木で染めた柔らかい発色の糸を通したクラムで縫ったローブとケープが神秘的なお姿をよく引き立てると思います。レースのような柔らかい生地もきっとお似合いですよ!」
話していくうちに段々と頬を紅潮させるタルジにうんうんと頷いて、「アスランは?」と更に彼女の想像を促す。
「色の浅い褐色で艶のあるお肌と何と言っても『黒獅子』だけが持つ漆黒の鬣を一番に魅せられるものが良いです。ですがお二人は番ですから、クラムに織り込む柄を揃えにして、そうですね……決して真っ青ではない複雑な色の瞳と黒髪には銀、そう、ちょうどカルディア様の御髪のような銀糸の刺繍はいかがでしょう? 身に付ける装飾品も銀に揃えて、青地に銀糸の刺繍を施した長いマントなど私は好きです!!」
すっかり興奮して舌を振るったあと、はっと冷静になったタルジは空気を抜くようにしゅるしゅると再び体を縮こめた。
カルディアはアスランの顔を無言で見つめる。腕を組んで黙ってタルジのデザイン案を聞いていたアスランは、カルディアの意図を察して同じく無言で頷いた。
「タルジ、お願いがあるんだ」
「な、何でございましょう……?」
「僕とアスランの婚礼衣装を作ってほしい」
「な、なななっ!? む、無理です、無理ですよう!!」
「無理でも構わない。でも挑戦してほしい。君も知ってるだろうけど今、国では絹が不足していて王都の仕立て屋はどこも仕事を受けられない状況なんだ。お願い、タルジ!」
厚くて肉刺だらけのタルジの手を両手で握り、アスランよりも更に高いところにある彼女の赤褐色の目をじっと見つめ、祈る思いで頼み込む。自分より姿形の全てが小作りなカルディアから懇願するように見つめられたタルジはたまらずたじたじになって後退りしたが、しっかりと握られた手のおかげでカルディアはどこまでもついてきた。背後に自身のバッグを持って立っていたシデンが迫り、「我が主のためどうか」と真摯に頭を下げられては、臆病なタルジにもはや断るだけの勇気は持てなかった。
「し、承知致しました……」
タルジという大猩猩族の仕立物師にどうにか婚礼衣装を作ってもらえる事にはなったが、王宮にもお抱えのお針子たちが居る。お針子たちはジェサーレ、アスラン、カルディアの服を季節に合わせて毎日せっせと繕ってくれるのだが、彼らの力を借りても婚礼衣装の製作はなかなか進まなかった。
一週間、二週間と過ぎても相変わらずジャナヴァラの仕立て屋たちが婚礼衣装の案を持って王宮に登ってくる事はない。更に三週間が過ぎ、すっかり秋めいてカルディアが活き活きとし始めた頃に若い獅子族の針子を名乗る男がやってきた。
歳は二十歳前後、とある仕立て屋で修行の毎日を送っている青年は名をイグネといい、腹を括ったような顔でカルディアたちの前に現れた。
「抜け駆けをするものがいると、噂になったんです」
「抜け駆け?」
アスラン自らが話を聞くとは思っていなかったのだろう、イグネは気後れした様子で事情を話し始める。
およそ二ヶ月ほど前、馬闘祭で優勝したアスランが仕立物師を募る触れを出した。王族の婚礼衣装を繕うとなれば仕立物師にとって生涯で最も名誉ある仕事である。名は売れ、店は子の世代まで繁盛し、町中の仕立て屋がこぞって自慢の仕立物師に衣装案を練らせて王宮に詰めかける──はずだった。
噂は馬闘祭が行われた日から三日と経たずに流れ始めた。アスランが主導している職人の支援活動で、抜け駆けする者がいるという。
「最初はそれだけだったんです。抜け駆けした者がアスラン様に選ばれる、と。でもそのうち噂はどんどん尾ひれをつけて膨らんでいって、アスラン様に貢ぎ物をしている奴がいるだとか、その貢ぎ物の内容もエスカレートしていって、仕立て屋たちはお互いに抜け駆けをしないよう協定を結びました。絹不足も助けて、お互いがお互いを監視し始めたんです」
そうしてジャナヴァラの仕立て屋たちは横一線に王族への協力を拒む事になってしまった。
そんな事がありえるのだろうかと疑ってしまうが、ありえてしまったから現状タルジは一人で婚礼衣装を作る羽目になってしまっている。製作に必要な生地も糸も道具もなかなか手配が進まず難航しているようだ。
「それで、お前はそれを何故ここに伝えにきた?」
タルジの時と同様、広間に通されたイグナはタルジ以上に立場は悪いはずだったが、彼は真っすぐにアスランを見つめて覚悟を決めていた。
「おかしい、と思ったからです。本来なら材料の不足を知恵で補い、時には仕立て屋同士で助け合って王子様方の結婚式を一番に盛り上げなくてはならない私たち仕立て屋が、どうして王族を裏切らなくてはならないのかと。確かに婚礼衣装の製作は仕立て屋の夢です。そのお仕事をさせてもらえば名は上がって箔がつく。でもそれ以前に、私たちは服を作るのが仕事。欲しいと言う人がいるのを放っておいて、何が仕立て屋かと、そう、思ったんです」
自身の主張がおかしいなら首を切られたって構わない。そんな気迫の籠った演説に感心したのはカルディアだけではなかった。衣装製作を請け負ってくれる仕立て屋を探して東奔西走してきた者たちや、彼らの苦労を知るアスランも、イグネの心意気は嬉しいものだった。
イグネはすぐにタルジと合流し、二人で衣装製作を進めていく事になった。表立ってはいないがイグネの勤めている仕立て屋が道具や材料を手配してくれる事になり、残る問題は人手とクラムだけになった。
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