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第一章
第七話 許婚殿
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「髙藤、それではお相手がかわいそうじゃないか」
竹内ではない少し高い声がした。それにもっと人数がいる気配を感じる。お相手とは玲のことだろうが、とても玲を心配しての口調ではなかった。まるで面白がっているように聞こえてきて、思わず玲は下唇を噛んだ。
そして、続けて聞こえてきた声に玲は愕然とする。
「愛などなくとも結婚はできる」
聞きなじみのある婚約者、数正の声。彼からの信じられない言葉だった。
薄く開いた隙間から溢れる光が一瞬遮られると、開きかけた扉が途端に大きく開いた。そこから出てこようとする影と鉢合わせてしまった。
「おっと、……失礼! え? 玲君? 大丈夫? ぶつかったかな? ごめんよ」
見上げると竹内だった。
「い、いえ、大丈夫です」
いきなり対面してしまい慌てる竹内に、玲は咄嗟に笑顔を繕ったが、おそらくうまく笑えてはいないだろう。
「髙藤! 玲君が来たよ」
そう中に声を掛けると玲の方へ向き直り、玲の肩を軽くポンと叩いた。先程の秋田犬の人懐こい笑顔は完全に眉が下がってしまっている。竹内はきっと玲を心配している。そう玲は感じた。
そうして「ごめんよ」と言い玲の横を通り過ぎていった。
「あぁ、一ノ瀬さん。いらしたんですね、どうぞ」
笑顔を繕ったまま部屋の中を見つめると、数人の男たちがワイングラスを片手に数正を囲んでいる。その中のひとりが玲に振り返ると、手を差し伸ばしてきた。
さきほどの声の主だ。
少し高い声に釣り合うような華奢で華やかさのある男で、旧華族出身の正彦という名前のオメガだ。たしか正彦は数正の大学の同期だったと玲は記憶している。
なぜこの男が玲を招き入れるのか。ここは一ノ瀬家の控え室のはずだ。玲は小さな拳を作ると努めて穏やかさを保った。
伸ばされている手は握手だろうか。判断に迷い数正をちらりと見やるも数正は見てみぬふりか、或いは気がついていないのか、こちらを見ていない。先程あれだけ大広間では玲の手を離そうとしなかったのに、今は心底どうでも良いかのような顔をしている。
何時までもそのままで待っている正彦に、玲は手を差し出さない訳にはいかなくなった。恐る恐る正彦の手のひらに指先を置くと、数正のそれではないすべすべとした手触りにひんやりと心が冷えていくのを感じた。玲の知っている数正の手は豆だらけのゴツゴツとした手だ。剣道五段の腕前の剣士でもある数正は、毎朝木刀を振る。
エスコートしてくれる手が数正ではないというだけで、こんなにも心がぎゅっと抓られているような痛みが走ることに玲は自嘲した。
正彦は玲をエスコートすることが出来て気を良くしたのか、ニンマリと気色悪く口角をあげて玲の手の甲に唇をつけた。それからカウチに座らせたのだった。なんだか妙な違和感を覚えた。背筋がゾクゾクとするような、じんわり影か忍び寄るような、冷気を。小さく悪寒がして思わず腕を引っ込めると、その手を体の後ろへと隠した。
「さて、一ノ瀬さん。君の許婚殿は大丈夫なのかな」
「というと……?」
小さく震えながらも言っている意味を探ろうと顔をあげると、正彦は胸の前で腕を組んで首を傾げていた。後ろにいる友人たちもそれぞれ含み笑いを浮かべていて、その異様な雰囲気におそらく玲が立ち聞きしていたことを知っているだろうと思った。薄ら笑いを浮かべている彼らを見て、悪趣味だと鳥肌が立つ。
「すみません。この男たちはマナーがなっていなくて。結婚はまだかと聞かれ、君の卒業まで待つと話したんだ。君とそう約束しましたからね」
その中心で髙藤が振り返って言った。
その目は未だかつて玲には見せたことのない冷酷な視線だった。
「確か一ノ瀬さんは大学二年だったよね。それじゃああと二年も待つと言うこと? なら、それまでは独身を謳歌しようじゃないか、ねぇ、一ノ瀬さんいいだろう? 君の許婚殿はちゃんとお返しするからさ」
あざ笑うかのように正彦は視線だけ玲に送ると、ワイングラスを片手に数正の肩を抱いた。何か言ってほしい。その手を振りほどいてほしい。おずおずと数正を見るも、数正は正彦の手を振り払うこともせず、ただワインを煽るだけだった。
そんな数正に玲は落ち込む他なかった。まるで生気を失ったように、数正の肩に置かれたオメガの美しい手を見ていた。
数正との逢瀬の頻度が激減した時と、玲が大学へ通い始めたのは同じ時期だった。念願叶って大学生になり、ようやく数正との時間が増える、そう信じた。しかし現実は数正との距離は開く一方だった。
玲はいつも浮かない顔をしていた。
当然楽しい毎日を過ごすだろうと思っていた母親の倫子は、沈む玲を見兼ねて食事に誘ってやってほしいと数正に頼み入れた。それをきっかけに始まった月一度の逢瀬。しかしそれも義務的なのが見て取れた。
横浜の外国人居留区にほど近い上流階級が通うフレンチレストランで食事をして、家に送ってもらう。その繰り返しだった。寂しさは解消されることはなかった。
思い返してみれば、玲が大学進学を決めた高校二年、その頃から会う頻度は既に落ちていた。受験勉強に集中するよう数正からの配慮だと思ってはいたが、無事に合格し大学へ通うことになってもその頻度は戻るどころか減る一方だった。
学生の玲とは違って既に二十六歳。副社長という立場にある数正だから、きっと忙しい。婚約者とは言え大学生相手に付き合っていられないのかもしれない。それに知らない間柄でもない玲に、今更優しくしたり気を遣う必要もなくなったというところかもしれない。
玲にとっては初恋の人だ。
彼といつか番えるんだという、夢物語を描いて生きてきた。そう玲はオメガだ。そして数正はアルファという性を持っている。この結婚はアルファとオメガの番の契約でもあった。
物心ついたときから彼しかいないと生きてきた。心の底から彼を愛しているのだ。玲の心は海の奥底に沈んでいくようだった。
竹内ではない少し高い声がした。それにもっと人数がいる気配を感じる。お相手とは玲のことだろうが、とても玲を心配しての口調ではなかった。まるで面白がっているように聞こえてきて、思わず玲は下唇を噛んだ。
そして、続けて聞こえてきた声に玲は愕然とする。
「愛などなくとも結婚はできる」
聞きなじみのある婚約者、数正の声。彼からの信じられない言葉だった。
薄く開いた隙間から溢れる光が一瞬遮られると、開きかけた扉が途端に大きく開いた。そこから出てこようとする影と鉢合わせてしまった。
「おっと、……失礼! え? 玲君? 大丈夫? ぶつかったかな? ごめんよ」
見上げると竹内だった。
「い、いえ、大丈夫です」
いきなり対面してしまい慌てる竹内に、玲は咄嗟に笑顔を繕ったが、おそらくうまく笑えてはいないだろう。
「髙藤! 玲君が来たよ」
そう中に声を掛けると玲の方へ向き直り、玲の肩を軽くポンと叩いた。先程の秋田犬の人懐こい笑顔は完全に眉が下がってしまっている。竹内はきっと玲を心配している。そう玲は感じた。
そうして「ごめんよ」と言い玲の横を通り過ぎていった。
「あぁ、一ノ瀬さん。いらしたんですね、どうぞ」
笑顔を繕ったまま部屋の中を見つめると、数人の男たちがワイングラスを片手に数正を囲んでいる。その中のひとりが玲に振り返ると、手を差し伸ばしてきた。
さきほどの声の主だ。
少し高い声に釣り合うような華奢で華やかさのある男で、旧華族出身の正彦という名前のオメガだ。たしか正彦は数正の大学の同期だったと玲は記憶している。
なぜこの男が玲を招き入れるのか。ここは一ノ瀬家の控え室のはずだ。玲は小さな拳を作ると努めて穏やかさを保った。
伸ばされている手は握手だろうか。判断に迷い数正をちらりと見やるも数正は見てみぬふりか、或いは気がついていないのか、こちらを見ていない。先程あれだけ大広間では玲の手を離そうとしなかったのに、今は心底どうでも良いかのような顔をしている。
何時までもそのままで待っている正彦に、玲は手を差し出さない訳にはいかなくなった。恐る恐る正彦の手のひらに指先を置くと、数正のそれではないすべすべとした手触りにひんやりと心が冷えていくのを感じた。玲の知っている数正の手は豆だらけのゴツゴツとした手だ。剣道五段の腕前の剣士でもある数正は、毎朝木刀を振る。
エスコートしてくれる手が数正ではないというだけで、こんなにも心がぎゅっと抓られているような痛みが走ることに玲は自嘲した。
正彦は玲をエスコートすることが出来て気を良くしたのか、ニンマリと気色悪く口角をあげて玲の手の甲に唇をつけた。それからカウチに座らせたのだった。なんだか妙な違和感を覚えた。背筋がゾクゾクとするような、じんわり影か忍び寄るような、冷気を。小さく悪寒がして思わず腕を引っ込めると、その手を体の後ろへと隠した。
「さて、一ノ瀬さん。君の許婚殿は大丈夫なのかな」
「というと……?」
小さく震えながらも言っている意味を探ろうと顔をあげると、正彦は胸の前で腕を組んで首を傾げていた。後ろにいる友人たちもそれぞれ含み笑いを浮かべていて、その異様な雰囲気におそらく玲が立ち聞きしていたことを知っているだろうと思った。薄ら笑いを浮かべている彼らを見て、悪趣味だと鳥肌が立つ。
「すみません。この男たちはマナーがなっていなくて。結婚はまだかと聞かれ、君の卒業まで待つと話したんだ。君とそう約束しましたからね」
その中心で髙藤が振り返って言った。
その目は未だかつて玲には見せたことのない冷酷な視線だった。
「確か一ノ瀬さんは大学二年だったよね。それじゃああと二年も待つと言うこと? なら、それまでは独身を謳歌しようじゃないか、ねぇ、一ノ瀬さんいいだろう? 君の許婚殿はちゃんとお返しするからさ」
あざ笑うかのように正彦は視線だけ玲に送ると、ワイングラスを片手に数正の肩を抱いた。何か言ってほしい。その手を振りほどいてほしい。おずおずと数正を見るも、数正は正彦の手を振り払うこともせず、ただワインを煽るだけだった。
そんな数正に玲は落ち込む他なかった。まるで生気を失ったように、数正の肩に置かれたオメガの美しい手を見ていた。
数正との逢瀬の頻度が激減した時と、玲が大学へ通い始めたのは同じ時期だった。念願叶って大学生になり、ようやく数正との時間が増える、そう信じた。しかし現実は数正との距離は開く一方だった。
玲はいつも浮かない顔をしていた。
当然楽しい毎日を過ごすだろうと思っていた母親の倫子は、沈む玲を見兼ねて食事に誘ってやってほしいと数正に頼み入れた。それをきっかけに始まった月一度の逢瀬。しかしそれも義務的なのが見て取れた。
横浜の外国人居留区にほど近い上流階級が通うフレンチレストランで食事をして、家に送ってもらう。その繰り返しだった。寂しさは解消されることはなかった。
思い返してみれば、玲が大学進学を決めた高校二年、その頃から会う頻度は既に落ちていた。受験勉強に集中するよう数正からの配慮だと思ってはいたが、無事に合格し大学へ通うことになってもその頻度は戻るどころか減る一方だった。
学生の玲とは違って既に二十六歳。副社長という立場にある数正だから、きっと忙しい。婚約者とは言え大学生相手に付き合っていられないのかもしれない。それに知らない間柄でもない玲に、今更優しくしたり気を遣う必要もなくなったというところかもしれない。
玲にとっては初恋の人だ。
彼といつか番えるんだという、夢物語を描いて生きてきた。そう玲はオメガだ。そして数正はアルファという性を持っている。この結婚はアルファとオメガの番の契約でもあった。
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