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第一章
第八話 結婚する義務がある
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数正の友人たちが去って二人きりになると、玲は震える息もどうにか飲み込んで冷静さを辛うじて保ち、可能なかぎりいつものように柔らかい口調に努めた。
「先程のことは、一体どういう──」
「聞こえなかったか?」
こちらに振り向くことなく数正は答える。
「聞こえてはおります。それは一体どういうことかと尋ねているのです」
「気持ちはなくともこの結婚は成立させる、と言ったことか?」
もう一度丁寧に、数正は婚約者である玲にそう言った。
ワインボトルを無造作に片手で注ぐ仕草を見つめながら、玲は今にも張り裂けそうな心を逃がすように小さく息を吐いた。
「祖父が約束を……。だからわたしと結婚する義務がある、そういうことですね」
「そうだ」
温度のない横顔がワイングラスに口を付け、顎をぐいっと上げ一気にそれを飲み干した。
「気持ちがないとは? わたし達は愛──」
「君はなにか勘違いしている」
「勘違い……?」
「えぇ」
「あなたが祖父との約束を守ろうとしているのは理解します、ですが──」
「その約束は必ず果たします」
玲の言葉に被せるように数正は言葉を吐く。
「成立させる義務が私にはある」
「ぎ、む……ですか」
「私には責任があるんだ」
「わたしを……」
──愛してはいないのですね。
口に出すことさえも悲しくて喉が詰まる。矢継ぎ早に言われてしまい、まるで問い詰められているようで玲はついに口を閉じた。玲が黙ると数正は静かにワイングラスをテーブルに置いた。
「愛のない結婚はこの世界ではよくある話です」
政略結婚に愛がないことなど特に珍しいことではない。それは彼の言うとおりだ。しかしふたりは幼い頃から逢瀬を重ねており、少なからず気持ちは通じ合っているものと思っていたのに。
「数正さまからの結婚の申し込みを、留学を理由に延期したことを怒っているのですか」
ついに、気に掛けていたことが口から溢れた。数正はため息をひとつ。きっとこんな会話さえ面倒なのだ。
「だからあなたは勘違いしていると言っているんです。私は怒ってなどいない。ただ、あなたを愛することはないから安心していいと先に言っておこうと、それだけです」
現実は、こんなにも残酷だった。
「そんなの、……あんまりだ」
玲は俯いてゴクリと唾を飲み込んだ。
あぁそうだ、思い込みだ。全ては自分だけの妄想の世界で、やはりここ数年の冷たい様子は勘違いでもなんでもなかったんだ。ならば──
「婚約は解消致しましょう。破棄にして頂いてもかまいません」
「……なんだと?」
数正が凄んだが玲は止めない。
「わたしに瑕疵が付いてもどこかの会長の愛人くらいにはなれるかもしれません。そこは母が尽くしてくれるでしょう。元はといえばわたしの祖父が勝手に言い出したことです。もう時効もいいところでしょうから数正さまに義務は発生しません」
「解消など有り得ない!」
数正が勢いよくテーブルを叩いた。と同時に数正から圧が放たれた。驚きで目を見開いている玲へ、同じ言葉を繰り返す。まるで言い聞かすように。
「有り得ない。言ったではないですか、気持ちは無くとも結婚はできると!」
「わたしが……っ、嫌なのです!」
数正の圧に喉が締め付けられる。しかし跳ね除けるようについに玲が声を荒げると、数正は驚きに満ちた表情で玲を見張った。数秒、数正の目が玲を捉える。玲が何を考えているのか探っているのだろうか。玲にはもう耐えることは出来なかった。視線を外すとカウチの縁を力強く握った。その手はふるふると小刻みに震えていた。
──しかしここで泣くわけにはいかない。
力を振り絞り手に力を入れ直すと、無理矢理に体を立ち上がらせた。
「もう、帰ります」
「……送ります。一緒に来たのに帰りは別とは、変な噂が立ちますから」
「構いません」
こんな悲しい言葉で玲を傷つけておいて、世間がどう思うかの方が大切だなどと、心がズタズタに裂けてしまいそうだ。
「ひとりでも帰れますから」
「わがままを言わないでくれ、君に何かあったら」
──わがまま?
「わがままではありません。婚約は解消です。もうあなたの部下に送ってもらうわけにもいきません、そちらのほうがご迷惑になります、もう、お気遣いいただく関係にもありません」
「駄目だ!」
「それにわたしも男です、一人で帰ることくらい大したことではありませんよ」
目の前にいる人間は本当に数正だろうか。見つめられる彼の目はたしかに彼だ。しかしこんなにも冷酷な眼差しは、到底玲の知る人物と同じだとは思えないほどに、冷たいものだった。
「私を困らせないでくれ」
「わたしから母に話して解消するよう手筈を整えます。では失礼」
「言っただろう、結婚はすると!」
数正は声を荒らげ、玲の腕を掴んだ。
「いいえ。この結婚にはわたしの意志があってもいいはずです。わたしはそのような結婚を望まない。だから解消でも破棄でもいい。あなたは心から愛する人と結婚してください」
玲は拳を作り、ぎゅっと握るとありったけの勇気を振り絞り早口で彼に意見した。
彼の隣でまるで人形かのように振る舞っていると思うことがあった。御曹司は誰彼の期待を裏切ってはいけない。しかし今は自分の矜持を保つためには言わなければならなかった。
「は……っ、驚いたな。そんな感情が君にあったとは……」
整った顔を歪ませて玲にそれを向けた。
「手を、離してください」
嫌味と受け取った玲は、数正の手を振り解くと控え室のドアから勢いよく出た。ドアも閉めず、振り向かないでずんずん進んだ。もう終わりなんだ。
廊下に待機していた彼の秘書が玲に気がついた。そして慌てて駆け寄ってくる。
「玲坊ちゃん! 如何しましたか?」
「すみませんが、わたしの家に連絡をして迎えを寄越すよう伝えてください」
「迎え? それなら私が車を……」
「いえ、呼んでください」
「しかし……っ!」
歩みを止めようとしない玲に数正の秘書は混乱していた。
「お願いします」
玲は秘書からの返事を待つこともなく、貴族会館の玄関へと突き進んだ。握りしめた手を体の横にくっつけて溢れてこようとする感情を懸命に抑えて。
「先程のことは、一体どういう──」
「聞こえなかったか?」
こちらに振り向くことなく数正は答える。
「聞こえてはおります。それは一体どういうことかと尋ねているのです」
「気持ちはなくともこの結婚は成立させる、と言ったことか?」
もう一度丁寧に、数正は婚約者である玲にそう言った。
ワインボトルを無造作に片手で注ぐ仕草を見つめながら、玲は今にも張り裂けそうな心を逃がすように小さく息を吐いた。
「祖父が約束を……。だからわたしと結婚する義務がある、そういうことですね」
「そうだ」
温度のない横顔がワイングラスに口を付け、顎をぐいっと上げ一気にそれを飲み干した。
「気持ちがないとは? わたし達は愛──」
「君はなにか勘違いしている」
「勘違い……?」
「えぇ」
「あなたが祖父との約束を守ろうとしているのは理解します、ですが──」
「その約束は必ず果たします」
玲の言葉に被せるように数正は言葉を吐く。
「成立させる義務が私にはある」
「ぎ、む……ですか」
「私には責任があるんだ」
「わたしを……」
──愛してはいないのですね。
口に出すことさえも悲しくて喉が詰まる。矢継ぎ早に言われてしまい、まるで問い詰められているようで玲はついに口を閉じた。玲が黙ると数正は静かにワイングラスをテーブルに置いた。
「愛のない結婚はこの世界ではよくある話です」
政略結婚に愛がないことなど特に珍しいことではない。それは彼の言うとおりだ。しかしふたりは幼い頃から逢瀬を重ねており、少なからず気持ちは通じ合っているものと思っていたのに。
「数正さまからの結婚の申し込みを、留学を理由に延期したことを怒っているのですか」
ついに、気に掛けていたことが口から溢れた。数正はため息をひとつ。きっとこんな会話さえ面倒なのだ。
「だからあなたは勘違いしていると言っているんです。私は怒ってなどいない。ただ、あなたを愛することはないから安心していいと先に言っておこうと、それだけです」
現実は、こんなにも残酷だった。
「そんなの、……あんまりだ」
玲は俯いてゴクリと唾を飲み込んだ。
あぁそうだ、思い込みだ。全ては自分だけの妄想の世界で、やはりここ数年の冷たい様子は勘違いでもなんでもなかったんだ。ならば──
「婚約は解消致しましょう。破棄にして頂いてもかまいません」
「……なんだと?」
数正が凄んだが玲は止めない。
「わたしに瑕疵が付いてもどこかの会長の愛人くらいにはなれるかもしれません。そこは母が尽くしてくれるでしょう。元はといえばわたしの祖父が勝手に言い出したことです。もう時効もいいところでしょうから数正さまに義務は発生しません」
「解消など有り得ない!」
数正が勢いよくテーブルを叩いた。と同時に数正から圧が放たれた。驚きで目を見開いている玲へ、同じ言葉を繰り返す。まるで言い聞かすように。
「有り得ない。言ったではないですか、気持ちは無くとも結婚はできると!」
「わたしが……っ、嫌なのです!」
数正の圧に喉が締め付けられる。しかし跳ね除けるようについに玲が声を荒げると、数正は驚きに満ちた表情で玲を見張った。数秒、数正の目が玲を捉える。玲が何を考えているのか探っているのだろうか。玲にはもう耐えることは出来なかった。視線を外すとカウチの縁を力強く握った。その手はふるふると小刻みに震えていた。
──しかしここで泣くわけにはいかない。
力を振り絞り手に力を入れ直すと、無理矢理に体を立ち上がらせた。
「もう、帰ります」
「……送ります。一緒に来たのに帰りは別とは、変な噂が立ちますから」
「構いません」
こんな悲しい言葉で玲を傷つけておいて、世間がどう思うかの方が大切だなどと、心がズタズタに裂けてしまいそうだ。
「ひとりでも帰れますから」
「わがままを言わないでくれ、君に何かあったら」
──わがまま?
「わがままではありません。婚約は解消です。もうあなたの部下に送ってもらうわけにもいきません、そちらのほうがご迷惑になります、もう、お気遣いいただく関係にもありません」
「駄目だ!」
「それにわたしも男です、一人で帰ることくらい大したことではありませんよ」
目の前にいる人間は本当に数正だろうか。見つめられる彼の目はたしかに彼だ。しかしこんなにも冷酷な眼差しは、到底玲の知る人物と同じだとは思えないほどに、冷たいものだった。
「私を困らせないでくれ」
「わたしから母に話して解消するよう手筈を整えます。では失礼」
「言っただろう、結婚はすると!」
数正は声を荒らげ、玲の腕を掴んだ。
「いいえ。この結婚にはわたしの意志があってもいいはずです。わたしはそのような結婚を望まない。だから解消でも破棄でもいい。あなたは心から愛する人と結婚してください」
玲は拳を作り、ぎゅっと握るとありったけの勇気を振り絞り早口で彼に意見した。
彼の隣でまるで人形かのように振る舞っていると思うことがあった。御曹司は誰彼の期待を裏切ってはいけない。しかし今は自分の矜持を保つためには言わなければならなかった。
「は……っ、驚いたな。そんな感情が君にあったとは……」
整った顔を歪ませて玲にそれを向けた。
「手を、離してください」
嫌味と受け取った玲は、数正の手を振り解くと控え室のドアから勢いよく出た。ドアも閉めず、振り向かないでずんずん進んだ。もう終わりなんだ。
廊下に待機していた彼の秘書が玲に気がついた。そして慌てて駆け寄ってくる。
「玲坊ちゃん! 如何しましたか?」
「すみませんが、わたしの家に連絡をして迎えを寄越すよう伝えてください」
「迎え? それなら私が車を……」
「いえ、呼んでください」
「しかし……っ!」
歩みを止めようとしない玲に数正の秘書は混乱していた。
「お願いします」
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