揺れる想い

稲葉真乎人

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始まりは抜擢人事

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朝の始業前に主任以上が参加する営業部内ミーティングが行われる。
ミーティングが終わり、芦沢丈晴あしざわたけはるは始業五分前に営業所のデスクに戻った。
所長がミーティング前に目を通し終えた各種業界新聞の束と、社内便の封筒が袖机の上に積んであった。
コンピーューターを立ち上げておいて袖机の上の整理を始める。
社内便のベージュ色A4封筒に混じって白い縦長の郵便封筒があった。
差出人は、[本社営業本部・販促担当・梅木友香うめきゆか]となっている。
裏返して宛名面を見ると郵便切手が貼ってある。運送便で送られて来る社内便では無い。
封筒の角だけを鋏で切り、オープナーで封を開ける。
封筒の中には便箋が三枚、プリンターの印字では無く万年筆直筆の手紙だった。
芦沢丈晴は全文を読まずに便箋を封筒に戻すと抽斗に仕舞った。

芦沢丈晴が勤務する《株式会社ユカワ》は、一般的には知られていないが、株式上場企業の間では、名の知れたコンサルティング会社である。
地方で山林王と呼ばれていた西川統治郎が、資材を投げうって、経営難に陥っていた地元の中小企業を支援したのが創業の所以である。
利益は社会貢献できた結果の謝礼金だと思え、と云うのが理念にある。儲け主義一辺倒の会社ではない。
最前線で活動する部門には、大学、大学院在学中を含め、入社して十年以内には、各種の国家資格や専門分野の公的資格を、十資格以上は有する、優秀なプロフェッショナル.パーソンが配置されている。
担当者の背後には、法律、経営、経理、各種専門分野、市場調査、情報収集など、専門の部門が、総力を挙げてバックアップするシステムが構築されている。
現在は、医療機器関連、工作機械関連、化学薬品関連企業を対象にしているが、広い分野に市場拡大する方針を打ち出している。

始業のチャイムが鳴り、所員全員が揃うと所長の近藤祐司が簡単に業務連絡の徹底を伝えて、主任の芦沢丈晴に場を譲る。
芦沢は各業界の動向について要点を伝え、続いて担当毎に進行中の商談に関する指示をしてミーティングを終えた。
営業担当者は暫くすると外出して行った。
芦沢がパソコンで送られて来た各種業界のニュースをチェックしているときだった。
所長の近藤が側に来ると肩に手を置いた。
「芹沢くん、少し時間がとれるかい?」
「ええ、いいですよ」
「じゃあ三階のサロンに行くか?。コーヒーでも飲みながら話そう」
「分かりました」
芦沢はパソコンを切ると、隣席の光原佳奈に席を外すことを伝えて三階のサロンに向かう。
営業部は二階の全フロアを使っており、三階には総務部門と喫茶コーナーが在る。
フロアの奥にパーティションで仕切られた、座り心地の好いソファーが並ぶサロンが在る。
四階は業務部門と経理部門が使っていた。
近藤はコーヒーを二つ頼み、出されたカップを自分でトレーに載せてサロン席に向かう。
芦沢はグラスに水を入れて近藤の後に続いた。
ソファーに腰掛けると近藤が話し始める。
「先週の研修はどうだった?」
「部下の管理には、みんな苦労しているようでしたね。色々と質問が出ましたけど、講師もこれと言った決定打は無いようでした。結局は現場の管理者が真剣に考えながら、個々に対処するしかないような気がしました」
「それは課所長研修でも同じだな。地方の支店と本社や、うちのような大都市部の支店とでも差があるみたいだ……。本社の幹部と話す機会はあったのか?」
「はい、打ち上げの席で営業本部長とは結構長い話しをしました」
「そうか、特に何かと云うのでは無かったんだな?」
「はい、まだ当社が接触していない業界とか業種に対してどんなアプローチが効果的なのか。接触の為に必要だと思われるツールとしては何が必要かと云ったことでした。営業本部としては、今まで全く接触のなかった分野の業界、業種との接触を計画しておられるようでしたが……」
「そうか……。本部長が君と話されたのは偶然じゃないな……。恐らく意識して芦沢くんに話し掛けられたと思う……」
「えっ、どうしてですか?」
「実は来期になるんだけど、新規開拓チームが都市圏の支店だけに設置されることが決まっているんだよ」
「何処の管轄になるんですか?」
「ああ、現在営業本部に置かれている企画販促室と並立する形で新たに設置されるチームだ。トップは営業本部長で企画販促室長と兼務される予定だ。営業本部長の下には、各所から抜擢された主任クラス以上のメンバーが配属されることになっている。中間管理者は置かない……、課長は居ないと言うことだよ」
「そうなんですか……」
「もう、分かるだろ……。芦沢丈晴主任は来期から新設される組織に移籍と言うことに決まった。幹部会で選ばれたんだよ、喜ぶべきことなんだ……」
「そうですか、何かピンとこないですけど……」
「そうだろ、周辺との摩擦を生じないように配慮して進められていたことだからな。
課所長クラスでも、当事者を抱えている上司しか知らない筈だよ」
「それで、どんなメンバーが何処で勤務をするんですか?」
「所属は本社営業本部の新規開拓プロジェクトチーム。勤務地は西日本全域と東日本全域に分担が分かれて、それぞれの拠点が設けられる。芦沢くん達の西日本担当は四階の業務部か経理部の近くに部屋が割り当てられる筈だ」
「営業部じゃなくてですか?」
「そうだよ、利益を生むかどうか分からない仕事に投資をする訳だからな、営業部の傍で派手に金が使われるのは拙いだろ?。おれたちは苦労して稼いでいるのに……、なんて邪推されても困る……」
「そう言うことですか。でも、そんなに派手に投資するんですか?」
「いやいや、そう言う意味じゃないよ。当初は資金投入を行っても直ぐに見返りの利益は無い、と言うことを予測してのことだ。ある意味、きつい仕事になるかも知れないぞ……」
「確かにそうですね、現状では全く関わりのない業界へ進出するとなれば……」 
「そうだ……、君の同期では西日本担当で四国の大迫主任、中部の時田主任かな。
他は、東日本で……、いや、東日本は全員が君達より先輩だな……。東西六名ずつ、総勢十二名のメンバーでスタートする。今回の十二名の中で君達三名がいちばん若い世代になる……。抜擢人事だ。自信を持ってやってくれ。それと西日本の取りまとめ役は九州支店の君原主任になる予定だ」
「ありがとうございます。しっかりやりたいと思います」
「ところで、芦沢くんたちの同期の男子社員は、まだ誰も結婚していないらしいね。
人事課長が気に掛けておられたが、中部支店の時田くんは支店の電算機センターの女性と話しがあるらしいな?」
「所長はご存じなんですか?」
「みんな知っているみたいだぞ、君は知らないのか?」
「先週、本社から帰りの新幹線の中で、時田くん本人から聞くまで知りませんでした」
「おい、職場の管理は現場の管理者でないと出来ないんじゃないのか? まあ、電算機センターだから、直接の部下の話しじゃないがな……。これは個人的なことだから、さほど重要ではないが、身の周りの無駄なような事にも最低限の配慮はしておくことだな、頼むよ……」
「そうですね、仕事に集中して管理監督を忘れるようじゃ、まだまだです。心しておきます……」
「ともかく、そう云うことだから準備はしておいてくれ?」
「分かりました。公表は何時ですか?」
「正式には明日だ。本人に内示と言うことになっている。新組織設置の発表は今週末の筈だが、人事の発令は一ケ月前だから、総務部からの各所への通達は来月の一日になるだろ。そうは言っても漏れてくると思って話したんだ。本社は情報が早いが、漏れるのも早いからな。近々、本社から招集が掛るかも知れないから、それも伝えておくよ」
「所長、いいですか?」
「ああ」
「組織では西日本と言う括りですが、メンバーは従来通りの職域で仕事をすると言うことですか?。一ケ月前の移動通知は転勤が伴う場合ですよね?」
「そうだよ。西日本地域は関西支店が拠点となる、従って六人全員の席はこの支店内に設けられる。必ずしも全員が常駐するとは限らないがね。来週には四階フロアのパーティション移動で工務店が入る筈だ。新規開拓チームの部屋を準備するらしいよ……」
「そうなんですか、分かりました」
「うちの営業所も大変だよ。来期は新入社員が二名配属されて来る予定なんだ。せっかく芦沢くんに研修を受けて貰ったのに、指導を頼めなくなってしまったよ」
「谷岡くんが主任研修中ですから、来期には主任になるんでしょ?。彼ならやってくれますよ。わたしより太っ腹ですし」
「まあな、タイブは色々あるからね。どっちがいいのかな……。いずれにしても当社の生き残りの為にはやるしかないね……」
「そうですね」

翌日。来期人事で住居移転が必要となる社員には、人事から部課長を通して当事者への内示があった。
名古屋支店の時田から芦沢に電話が入ったのは、五時三十分の終業時刻が迫る五時二十分頃だった。
「芦沢、聞いたか?」
「ああ聞いた。それでどうなんだ?」
「色々とあるんだ……。早速、総務から住まいを探すように連絡があった。今週末にそっちに行くから時間を取ってくれるか?」
「ああいいぞ。総務に聞いて候補になる住宅を調べておこうか?」
「いや、それはまだいいよ。他に相談に乗って欲しいことがあるんだ」
「僕にか?」
「そうだ、芦沢にしか話していないからな……」
「彼女のことか?」
「ああ、そうだ」
「うちの所長は知っておられたぞ?」
「そうか……。拙いな……」
「どうしたんだ?。この前の話しは上手く行ってないのか?」
「芦沢、誰か親しい女性に彼女のことを聞いてくれないかな?」
「何を?」
「何でもいいから……」
「ええっ⁉、何でもいいって……、例えば?」
「君がいちばん疎い部分だ。男女関係……」
「嘘だろ?、今さらって感じじゃないか?」
「そうだ。他にもあるから会ったときに話す。来期に入ったら拙いからな」
「それはそうだな……、こっちに転勤して来るんだからな」
「そう言うことだ」
「分かった空けとくよ。自動車は要るか?」
「要らないよ。京都駅で会おう。また時間は連絡する。
僕の携帯の番号を言うから控えて電話してくれるか?」
「分かった、言ってくれ」
時田は自分の個人携帯の番号を告げた。
「じゃあ頼むよ……。仕事は面白くなりそうだな……」
「それは僕も思っているよ。頑張ろう……」
「ああ、じゃあ頼むわ?」
「了解……」

その日、芦沢丈晴は退社して京都に帰ると、行きつけの場所に向かう。
丸太町通の府庁前バス停から通を入ったところに在る、自宅から十分程のスタンドバー《ブーメラン》に顔を出す。
日頃の生活の中で、悩んだり迷ったりした時には必ずと云っていいくらい、この店に顔を出してマスターに話しを聞いて貰う。
それが芦沢丈晴の問題解決のルーティンになっていた。
今日はスーツの内ポケットに入っている一通の封書が、丈晴の足をブーメランに向けさせたと言える。
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