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第9話 王子様との密会と、空っぽの聖域
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『ご連絡、心よりお待ちしておりました』
ナイト様からの返信は私がメッセージを送ってからわずか数分後のことだった。まるで私が返事を出すのを今か今かと待ち構えていたかのようだ。その速さに私の心臓がとくんと小さく跳ねる。
画面には丁寧な言葉遣いでコラボの打ち合わせのために近いうちに一度ボイスチャットで話せないかという提案が綴られていた。
ボイスチャット。つまり彼と一対一で話すということ。
想像しただけで喉がからからに渇いていく。けれどここで怯んではいけない。私が前に進むと決めたのだから。
『はい、ぜひ! よろしくお願いします!』
私はVTuber『ルル』としてできるだけ明るく元気な文面を打ち込んだ。すぐに具体的な日時の候補がいくつか送られてくる。その手際の良さに彼が今回のコラボにいかに本気であるかが窺えた。私たちは一番早い日程、つまり明日の夜に打ち合わせをすることを決めた。
約束の時間まであと二十四時間。
それはまるで処刑台への階段を一段ずつ上っていくような長くそして息の詰まる時間だった。
◇
翌日のバイトはもはや心ここにあらずという状態だった。
私の意識はほとんど今夜のナイト様との打ち合わせに持っていかれている。彼の声はどんな声だろう。彼は私にどんな話をするのだろう。期待とそれ以上に大きな不安が渦を巻いて私の思考を鈍らせる。
そんな私の様子はカイくんにも当然伝わっていたのだろう。
「……おい」
バックヤードでぼんやりと壁を見つめていた私に彼の低い声が突き刺さった。
「さっきから何回同じ間違いすれば気が済むんだ。ボーッとしてるなら帰れ」
その声は昨日までの不機嫌さを通り越してもはや明確な敵意と軽蔑の色を帯びていた。彼の言葉は氷のナイフのように私の胸を抉る。
ごめんなさい。違うんです。そう言いたかったけれど言葉にならなかった。俯いてただ「すみません」と繰り返すことしかできない。
彼はそんな私に苛立ちを隠しもせずに大きなため息をついた。そしてそれきり私と口を利こうとはしなかった。
彼の冷たい態度は私の心をさらに硬く冷たく凍らせていく。
もしかしたら彼は私がナイト様からの提案に浮かれていると思っているのかもしれない。セバスチャンさんを裏切って新しい男に乗り換えようとしている薄情な女だとそう思っているのかもしれない。
もしそうだとしたら。
私は彼にどう思われても仕方がない。
だって私は前に進むと決めたのだから。
◇
夜九時。約束の時間。
私はパソコンの前に座り深く深く深呼吸をした。心臓が早鐘のように鳴っている。ヘッドセットを装着すると耳が自分の鼓動の音でがんがんと鳴り響いた。
時間ぴったりに通話ソフトの着信音が静かな部屋に鳴り響く。画面には『ナイト』という名前が表示されていた。
震える指で応答ボタンをクリックする。
『……もしもし、ルルさん。聞こえますか?』
ヘッドセットから聞こえてきた声に私は息を呑んだ。
それは配信で聞く声よりもずっと近くそして甘く響いた。少し低めの落ち着いたテノール。鼓膜を優しく撫でるような心地よい声。
「は、はい! こんばんるるー! 聞こえてます!」
私は慌ててルルの声を作った。けれど緊張で声が上ずってしまう。
『ふふ、よかった。ナイトです。今夜はお時間をいただきありがとうございます』
彼はくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声だけで彼の整った顔立ちが目に浮かぶようだ。
「こ、こちらこそ! あのナイト様からお声がけいただけるなんて夢みたいで……!」
『様だなんてやめてください。気軽にナイトと呼んでほしい。僕もあなたのことをルルちゃんと呼ばせてもらっても?』
「は、はい! もちろんです!」
彼のコミュニケーション能力はあまりにも巧みだった。会話の主導権を握りながらも決して相手に威圧感を与えない。むしろ心地よい安心感に包まれて私は少しずつ緊張を解きほぐされていった。
「それでコラボのことなんですが……」
『ええ。僕の方でいくつか企画の案を考えてみたんです。聞いてもらえますか?』
彼はそう言うと今回のコラボ企画について熱心に語り始めた。
ゲーム実況、歌のデュエット、そして二人でオリジナルのボイスドラマを作るというものまで。そのどれもが緻密に練られていて私の魅力を最大限に引き出そうという彼の意図が感じられた。
「すごい……! どれもすごく面白そうです……!」
『本当ですか? よかった。特にこのボイスドラマはルルちゃんのあの可愛い声が絶対に活きると思うんです。少し恥ずかしいセリフもあるかもしれませんが』
彼は悪戯っぽく笑った。
私は彼のペースに完全に引き込まれていた。この人とならきっと最高の作品が作れる。このチャンスを絶対にものにしなくては。
その時だった。
『ところでルルちゃん』
彼の声のトーンがほんの少しだけ変わった。
『昨日の配信、少し元気がなかったように見えましたが。何か悩み事でも?』
その質問に私の心臓がどきりと跳ねた。
彼は私の昨日の涙声に気づいていたのだ。
「え、あ、あれはその……! リスナーさんの優しさに感動しちゃって……!」
『そうでしたか。あなたのその純粋なところもとても魅力的ですよ。でももし本当に困っていることがあるのならこの僕がいつでもあなたの騎士(ナイト)になりますから』
甘く囁くような声。
それは女性なら誰もがうっとりとしてしまうような完璧な王子様のセリフ。
けれど私の心はその言葉を素直に受け取ることができなかった。
なぜなら私の頭の中には別の人の言葉が鳴り響いていたからだ。
『無理しなくていい。君がどんな状態でも、俺たちはここにいるから』
セバスチャンさんの不器用でけれど心の底から私を心配してくれているあの言葉。
ナイト様の言葉は美しく完璧だ。でもどこか薄いガラス一枚を隔てているようなそんな感覚。
一方セバスチャンさんの言葉は。
「……ありがとうございます。ナイトさんは本当にお優しいんですね」
私は笑顔の仮面を貼り付けたままそう答えるのが精一杯だった。
◇
その頃、相田カイは自室で地獄のような時間を過ごしていた。
ルルのSNSは沈黙を保ったままだ。きっと今頃あの気に食わない王子様と二人きりで話しているのだろう。
どんな声で笑っているのだろう。
どんな甘い言葉を囁かれているのだろう。
想像するだけで腹の底が黒い嫉妬の炎で焼け付くようだった。
彼はパソコンの電源を落としベッドに倒れ込んだ。
何も手につかない。カフェの仕事も大学の課題も何もかもがどうでもよかった。
彼の聖域だったはずのこの部屋が今はただのガランとした空っぽの空間に感じられる。壁のタペストリーも棚のアクリルスタンドも全てが色褪せて見えた。
それらは全てVTuber『ルル』のものだ。
けれど今カイの心を占めているのはルルでありながらルルではない一人の女性の姿だった。
本城凪。
今日カフェで自分の冷たい言葉に傷つき俯いていた彼女の姿。
あの時本当はなんて声をかけたかった?
『気にするな』とそう言って頭を撫でてやりたかった。
『お前は、お前のままでいい』とそう言って抱きしめてやりたかった。
でもできない。
相田カイは彼女のただの塩対応な同僚だ。
セバスチャンは彼女のただの熱狂的なファンだ。
どちらの自分も彼女の隣に立つことは許されない。
このもどかしく息苦しい現実。
「……くそっ」
カイは枕に顔を埋めて低い呻き声を漏らした。
自分はこれからどうすればいいのだろう。
彼女があの男と楽しそうにコラボをするのをただ指をくわえて見ていることしかできないのだろうか。
ファンとして彼女の成功を祈るべきだ。分かっている。頭では分かっているのに。
心がそれを頑なに拒絶する。
これはもうファンとしての感情ではない。
一人の男としての醜い嫉妬だ。
カイはその事実からもう目を逸らすことはできなかった。
ナイト様からの返信は私がメッセージを送ってからわずか数分後のことだった。まるで私が返事を出すのを今か今かと待ち構えていたかのようだ。その速さに私の心臓がとくんと小さく跳ねる。
画面には丁寧な言葉遣いでコラボの打ち合わせのために近いうちに一度ボイスチャットで話せないかという提案が綴られていた。
ボイスチャット。つまり彼と一対一で話すということ。
想像しただけで喉がからからに渇いていく。けれどここで怯んではいけない。私が前に進むと決めたのだから。
『はい、ぜひ! よろしくお願いします!』
私はVTuber『ルル』としてできるだけ明るく元気な文面を打ち込んだ。すぐに具体的な日時の候補がいくつか送られてくる。その手際の良さに彼が今回のコラボにいかに本気であるかが窺えた。私たちは一番早い日程、つまり明日の夜に打ち合わせをすることを決めた。
約束の時間まであと二十四時間。
それはまるで処刑台への階段を一段ずつ上っていくような長くそして息の詰まる時間だった。
◇
翌日のバイトはもはや心ここにあらずという状態だった。
私の意識はほとんど今夜のナイト様との打ち合わせに持っていかれている。彼の声はどんな声だろう。彼は私にどんな話をするのだろう。期待とそれ以上に大きな不安が渦を巻いて私の思考を鈍らせる。
そんな私の様子はカイくんにも当然伝わっていたのだろう。
「……おい」
バックヤードでぼんやりと壁を見つめていた私に彼の低い声が突き刺さった。
「さっきから何回同じ間違いすれば気が済むんだ。ボーッとしてるなら帰れ」
その声は昨日までの不機嫌さを通り越してもはや明確な敵意と軽蔑の色を帯びていた。彼の言葉は氷のナイフのように私の胸を抉る。
ごめんなさい。違うんです。そう言いたかったけれど言葉にならなかった。俯いてただ「すみません」と繰り返すことしかできない。
彼はそんな私に苛立ちを隠しもせずに大きなため息をついた。そしてそれきり私と口を利こうとはしなかった。
彼の冷たい態度は私の心をさらに硬く冷たく凍らせていく。
もしかしたら彼は私がナイト様からの提案に浮かれていると思っているのかもしれない。セバスチャンさんを裏切って新しい男に乗り換えようとしている薄情な女だとそう思っているのかもしれない。
もしそうだとしたら。
私は彼にどう思われても仕方がない。
だって私は前に進むと決めたのだから。
◇
夜九時。約束の時間。
私はパソコンの前に座り深く深く深呼吸をした。心臓が早鐘のように鳴っている。ヘッドセットを装着すると耳が自分の鼓動の音でがんがんと鳴り響いた。
時間ぴったりに通話ソフトの着信音が静かな部屋に鳴り響く。画面には『ナイト』という名前が表示されていた。
震える指で応答ボタンをクリックする。
『……もしもし、ルルさん。聞こえますか?』
ヘッドセットから聞こえてきた声に私は息を呑んだ。
それは配信で聞く声よりもずっと近くそして甘く響いた。少し低めの落ち着いたテノール。鼓膜を優しく撫でるような心地よい声。
「は、はい! こんばんるるー! 聞こえてます!」
私は慌ててルルの声を作った。けれど緊張で声が上ずってしまう。
『ふふ、よかった。ナイトです。今夜はお時間をいただきありがとうございます』
彼はくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声だけで彼の整った顔立ちが目に浮かぶようだ。
「こ、こちらこそ! あのナイト様からお声がけいただけるなんて夢みたいで……!」
『様だなんてやめてください。気軽にナイトと呼んでほしい。僕もあなたのことをルルちゃんと呼ばせてもらっても?』
「は、はい! もちろんです!」
彼のコミュニケーション能力はあまりにも巧みだった。会話の主導権を握りながらも決して相手に威圧感を与えない。むしろ心地よい安心感に包まれて私は少しずつ緊張を解きほぐされていった。
「それでコラボのことなんですが……」
『ええ。僕の方でいくつか企画の案を考えてみたんです。聞いてもらえますか?』
彼はそう言うと今回のコラボ企画について熱心に語り始めた。
ゲーム実況、歌のデュエット、そして二人でオリジナルのボイスドラマを作るというものまで。そのどれもが緻密に練られていて私の魅力を最大限に引き出そうという彼の意図が感じられた。
「すごい……! どれもすごく面白そうです……!」
『本当ですか? よかった。特にこのボイスドラマはルルちゃんのあの可愛い声が絶対に活きると思うんです。少し恥ずかしいセリフもあるかもしれませんが』
彼は悪戯っぽく笑った。
私は彼のペースに完全に引き込まれていた。この人とならきっと最高の作品が作れる。このチャンスを絶対にものにしなくては。
その時だった。
『ところでルルちゃん』
彼の声のトーンがほんの少しだけ変わった。
『昨日の配信、少し元気がなかったように見えましたが。何か悩み事でも?』
その質問に私の心臓がどきりと跳ねた。
彼は私の昨日の涙声に気づいていたのだ。
「え、あ、あれはその……! リスナーさんの優しさに感動しちゃって……!」
『そうでしたか。あなたのその純粋なところもとても魅力的ですよ。でももし本当に困っていることがあるのならこの僕がいつでもあなたの騎士(ナイト)になりますから』
甘く囁くような声。
それは女性なら誰もがうっとりとしてしまうような完璧な王子様のセリフ。
けれど私の心はその言葉を素直に受け取ることができなかった。
なぜなら私の頭の中には別の人の言葉が鳴り響いていたからだ。
『無理しなくていい。君がどんな状態でも、俺たちはここにいるから』
セバスチャンさんの不器用でけれど心の底から私を心配してくれているあの言葉。
ナイト様の言葉は美しく完璧だ。でもどこか薄いガラス一枚を隔てているようなそんな感覚。
一方セバスチャンさんの言葉は。
「……ありがとうございます。ナイトさんは本当にお優しいんですね」
私は笑顔の仮面を貼り付けたままそう答えるのが精一杯だった。
◇
その頃、相田カイは自室で地獄のような時間を過ごしていた。
ルルのSNSは沈黙を保ったままだ。きっと今頃あの気に食わない王子様と二人きりで話しているのだろう。
どんな声で笑っているのだろう。
どんな甘い言葉を囁かれているのだろう。
想像するだけで腹の底が黒い嫉妬の炎で焼け付くようだった。
彼はパソコンの電源を落としベッドに倒れ込んだ。
何も手につかない。カフェの仕事も大学の課題も何もかもがどうでもよかった。
彼の聖域だったはずのこの部屋が今はただのガランとした空っぽの空間に感じられる。壁のタペストリーも棚のアクリルスタンドも全てが色褪せて見えた。
それらは全てVTuber『ルル』のものだ。
けれど今カイの心を占めているのはルルでありながらルルではない一人の女性の姿だった。
本城凪。
今日カフェで自分の冷たい言葉に傷つき俯いていた彼女の姿。
あの時本当はなんて声をかけたかった?
『気にするな』とそう言って頭を撫でてやりたかった。
『お前は、お前のままでいい』とそう言って抱きしめてやりたかった。
でもできない。
相田カイは彼女のただの塩対応な同僚だ。
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このもどかしく息苦しい現実。
「……くそっ」
カイは枕に顔を埋めて低い呻き声を漏らした。
自分はこれからどうすればいいのだろう。
彼女があの男と楽しそうにコラボをするのをただ指をくわえて見ていることしかできないのだろうか。
ファンとして彼女の成功を祈るべきだ。分かっている。頭では分かっているのに。
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