初めてを失うまでの契約恋愛

佐倉響

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第1章 副社長と契約恋愛

05

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「し、仕事!」

 熱が下がって目が覚めるなり、唯は飛び起きた。

「今日はお休みです」
「そうでしたっけ……て、あれ?」

 さらりと返された言葉に相づちを打ちかけ、目を瞬いた。
 爽やかで品のある顔が、こちらを見ている。夢ではなく、見知らぬ男性でもなかった。
 唯はぐっと喉を詰まらせ、そっと視線を下げて千歳から目を逸らす。

(どうして、副社長が家に……でも、家にいたのを見たし……)

 熱でうなされている中、千歳が家まで運んでくれたのだ。
 そして、それより以前のことを思い出し、唯は血の気が引いた。

「私が倒れた後、どうなりました? 怪我とかしてませんか」

 確か一矢が逆上して、千歳に襲いかかったはずだ。

「俺は大丈夫です。普段からボディーガードがついているので、彼が取り押さえてくれました」
「そうなんですか!? 私、今まで見たことはないと思うんですけど……」

 全然知らなかった唯は驚いた。秘書として二年以上、働いていたのだ。それなのに知らないなんてこと、あるのだろうか。

「知らせないようにしていました。怖がらせてしまうかなって」
「でも、ボディーガードが必要なことってそんなにあるんですか?」
「俺も必要ないと思うんですけど、社長が雇っているんです」
「社長なら……雇いそうですね」

 唯はひとまず納得することにした。
 これはもう、深く聞かない方がいいと判断したからだ。
 それに、ボディーガードが必要だと社長が判断したのなら、過保護でもなんでもなく必要なのだろう。

「それより、月野さんはこれからどうしますか」
「どう……」
「すみません、病み上がりなのに。だけど、今日のうちに決めておくと安心なことが幾つかあると思うので。話はできそうですか? 病院に行った方がいいなら、送りますよ」
「病院は大丈夫です。解熱剤で熱はすっかり引いたし、必要な薬も飲んだので……」

 言いながら、唯はつい千歳の薄い唇を注視してしまう。熱で朦朧としている中、口移しで薬を飲ませられたことはしっかりと覚えていた。インパクトが強すぎて忘れられるはずがない。
 唯は頬がぼっと赤くなるのを堪える。あれは仕方のないことだった。唯はできる限り騒ぎにならないようにしたかった。千歳はその思いを言葉にしなくとも汲んでくれたのだろう。あの場で薬が飲めなかったら、救急車を呼ぶことになっていただろうから。
 ……とはいえ今回、千歳には処女だということがバレてしまった。

「わざとではないんですけど、月野さんのデリケートな部分を知ってしまってすみません」
「いえ! あの……誰にも言わないでいてくれたら大丈夫です」

 わざわざそんなことを言わなくても、千歳は黙っていてくれるだろう。分かってはいるが、やはり恥ずかしいので念を押しておく。

「誰にも言いません。だけど知らないふりをするのはできそうになくて」

 苦笑する千歳に、唯は首を傾げる。

「見るつもりはなかったんですけど、風俗に行こうと考えているんですよね」
「は……」

 何を見たのか。
 唯は即座に察して、視線を勉強机の方へ動かした。仕事用のファイルが並んでいる場所に置いておけば良かったのに、罪悪感が邪魔をして机の上に置いたままにしていたのだ。
 それに最近はどうすれば風俗に一回行くだけで目的を達成できるのか、イメージトレーニングをすることが頻繁にあった。
 昨日の朝も時間ギリギリまでファイルを見ていて、慌てて家を出たので開いたままだった――ということがないとは限らない。
 そもそもこんな卑猥な内容をファイリングして読み込む行動自体がおかしいのだが。

「こんなことを言うのは良くないかもしれないんですけど、難しいと思いますよ」
「それは私も分かっています」
「月野さんの事情を知らない男性だったら、驚いてしまうと思います。それに月野さんも、よく知らない男性に体を預けることができますか」
「いえ、その……頑張ります……よ」
「インフルエンザの予防接種で、あんなに悲鳴が出るのに」
「そ、そ、それは忘れてください!」

 それは唯が秘書になった最初の冬のこと。彼女はインフルエンザにかかった。
 なので翌年は必ず予防接種に行くよう千歳に言われたのだが、忙しいからマスクと手洗いを頑張るので許して欲しいと懇願した。

 ――結果、千歳は自分の分と一緒に予防接種の予約をした。

 個人経営の知り合いの医師を頼れば、時間の都合はどうとでもなる。忙しいのなら、仕事中に抜け出せばいいと考えたのだ。
 これで今年の冬は安心だとほくほく顔で病院に行ったのだが、唯はほとんど涙目で腕を差し出しながらも助けを求めるように千歳を見てきた。

 その時、千歳は「月野さんは先端恐怖症だっただろうか」と、過去を振り返るがそんなはずはないと振り返るのを止める。
 そして唯は何度も「無理です」「本当に打つんですか」と弱々しい声を出し、針が皮膚を刺した瞬間に「いっ――――――――たぃいいいいいいい!」と子どものように声を出していた。

 これでも唯は抑えたつもりだったが、千歳は驚いた。
 驚きすぎて、ポカンとした顔で唯を見てしまった。
 唯は痛いことが苦手すぎて、大人になっても痛みに対するリアクションが大きくなってしまうのだ。チクリとした痛みにさえ涙が出る。

 だから全力で注射から逃げていた。
 ちなみに酷い時は貧血で倒れたこともある。ものすごく迷惑をかけた。
 このことを知っているのは、唯が通う病院の医者と看護師、そして家族以外は誰も知らなかった。赤の他人が知ったのは千歳が初めてだ。恋人だった一矢にすら隠していた。

 今となっては良かったが、だからこそ唯は二十七歳になっても、メネッカに三度刺されても、処女を貫く事態に陥っていた。
 そんな唯が、風俗に行って解決するだろうか。
 最中、泣いて叫べば途中でお店を出ることになりかねない。そして二度とそのお店には行けなくなりそうだ。
 千歳はその懸念をすぐに見破っていた。

「大丈夫です。たった一回で終わるんです。私だって、大人ですからそれくらい耐えられます。……相手にはすごく、申し訳ないと思いますけど。予防接種の時みたいに、いつまでも長引かせたりしないようにします。これ以上、仕事で迷惑をかけるわけにはいきませんから」

 大丈夫だと言いながらも、唯は手が震えた。今の状況を思うと、悲しくなってくる。ちゃんとした恋人がいれば、こんな惨めな思いはしなかっただろう。

「俺が心配しているのは仕事のことじゃなくて、月野さんのことです」

 千歳の手が持ち上がる。嫌であれば避けられるほどゆっくりとした動作で、唯の目尻に浮かんだ涙を拭う。
 なのに唯の目尻からは涙が消えなかった。後から後から、ほろほろと浮かんでいく。
 肉体的な痛みは、酷く苦手だった。
 そのかわり、精神的な痛みはどこまでも鈍くて、恋人に浮気をされても涙一つ出なかったのに。

「……私、浮気されていました」

 一層惨めな気持ちになるからと言えなかった言葉が、唯の口から出ていた。

「でも、相手は私のことが好きだったわけじゃなくて、便利なだけで……」

 全部ぶちまけてしまいそうになるのを、それでも堪える。秘書でお金があるから結婚を提案されたなんて話すのは、秘書にと選んでくれた千歳に申し訳がなかった。

「元々、恋人を作るなんて私には向いていないんですね。仕事をしている方が楽しいし、そのためにも早めに終わらせないと」

 このままだと愚痴ばかりになってしまいそうだった。
 一度でも自制心が決壊してしまったら、そう簡単には落ち着かないだろう。千歳を傷つけてしまう前に、唯は会話を終わらせて家から出てもらおうと考えた。

「誰でもいいんですか」

 千歳には、会話を終わらせる気がなかった。
 性的な話題なのに、穏やかな顔のまま唯に問いかける。

「優しくしてくれる人、なら」

 唯は性的な嗜好を伝えているわけではないのに、とてつもなく悪いことを教えている気分になった。

「良かった」

 千歳は心の底からそう思っていることを表現するように、ふんわりとした笑みを向ける。
 緊迫していた空気は一瞬にして解けていた。

「なら、俺が一番ちょうどいいですよね」
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