初めてを失うまでの契約恋愛

佐倉響

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プロローグ

01

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 好きになったばかりの女性に頭突きした。
 それは、無意識にキスをしそうになった千歳が咄嗟に取った行動だった。




 熱を出した時の記憶は、千歳にとって虚しいものだった。咳をすれば汚いものを見たとばかりに眉をひそめられ、苦しいと恐る恐る伝えると早く寝ればいいと返される。その態度に千歳は悲しいと思うことはなかった。言っていることはその通りだと思い、人前で咳をするのは我慢して弱気な発言も封じ込める。

 それでも千歳と両親の仲はうまくいかず、気づけば彼は家で一人になっていた。両親はいつもの如くすこし気が立ってしまっただけで、冷静になったら一度は戻って来てくれるはずだと思った千歳は三人分の食事を作るが冷蔵庫にあった食材が尽きてしまってからは一人分だけを作った。

 恨む気持ちはない。両親からの愛が欲しいという小学三年生らしい感情はあったけれど、どうにも千歳の心は乾ききっていた。彼らの顔色を窺いながら生活するよりは、一人でどうにか生きていく方がずっと楽である。とはいえ、千歳が持っている金額では二週間も生活することはできないだろう。そのうち、大人たちにバレてしまう。バレたら、どうなるのだろうか。この生活よりも悪い環境に身を置くことにならないとは限らない。

 だから千歳はできる限り、他の子どもと同じふりをした。料理も洗濯も、やろうと思えば一人でできてしまうのだ。ゴミを出す日だって覚えている。元々、両親はやってくれないから千歳がやっていたことだ。

 しかし、一週間もすれば疲れが出て熱を出してしまった。
 一人きり。静かな家の中、千歳は苦しげに息を吐く。
 今なら咳をしても誰かが嫌がることはない。弱音を吐いても、面倒くさいと睨まれることもない。
 なのに咳はうまくできないし、言いたいことも思い浮かばない。

(そっか、これが『こどく』……)

 は、と息を吐きながらぐらぐらと痛む頭に眉を寄せる。
 まだ寝るわけにはいかなかった。学校に連絡しなければならない。後はご飯を食べて、苦すぎる粉末の薬を飲まなければ。
 悲しくもない。寂しくもない。悔しくもない。そんなことを感じる余分な心は彼になく、淡々とやらなければならないことを考える。

 それができたのは、今まで一度も優しく看病された経験がなかったからだ。知らなければ、この記憶は日常のまま。そういうこともあったと思うだけ……。



 千歳が僅かに目を開くと、そこは子どもの頃にいたアパートではなかった。昔、風邪を引いた時の夢を見ていたのだと気づく。そのままぼんやりとしていると、トコトコと小さな足音が聞こえた。千歳は一人暮らしだ。あるはずのない、人の気配に不思議と心が和らいでいく。それは千歳を害するものではなく、眠っているであろう人を起こさないように気遣う音だった。

(誰だろう)

 心地よい音が、千歳に近づいてくる。反射的に千歳は目を閉じた。風邪を引いているので、できれば誰なのか分かってから相手をしたい。うまく頭が回らないのだ。
 小さな指が千歳に触れる。目にかかった前髪を横にかわし、遠慮がちな手つきで熱を確認した。
 冷たくて気持ちいい。
 千歳は思わず、その指に自分から額を押しつけたくなった。
 もっと構って欲しい。

(風邪を引いて心細くなるってこういうことなのかな)

 何かを恋しいという経験がまったくない千歳は、誰なのか分かったのに目を瞑り続ける。
 心地の良い指先がそっと離れる。綿菓子のような夢が終わるのを感じ、千歳はゆったりと目を開いた。
 時刻は昼間だったが、それほど眩しくはない。部屋の電気は消され、窓はカーテンを閉じていた。

「副社長……?」

 心配するような声音で呼ばれて、千歳は胸が苦しくなる。無償の愛に触れた気さえしたのに、名前を呼んでもらえなかったことに落胆していた。これが当然の距離だ。千歳は副社長で、相手は千歳の秘書。それ以外に接点はなく、仕事上の関係でしかない。

「月野さん、どうしてここにいるんですか」
「社長が面倒を見てくれないかって……」

 言葉を濁す月野唯に、千歳はそれが嘘であることがすぐに分かった。気を遣わせまいと、考えたのだろう。結局、本人にはバレてしまっているが。

「ああ、そうなんですね。すみません、もう大丈夫だと思うので月野さんは戻ってください」

 一度甘え始めると、際限なく甘えてしまいそうだった。秘書だからと言って、私生活までお世話になるわけにはいかない。千歳は上半身を起こし、もう大丈夫だと訴えようとしたが意外にも唯は彼の両肩を押す。

「そういうわけにはいきませんよ。お腹、空いていませんか。遅いお昼ご飯になりますけど、すこしでも食べてから薬を飲んでください」

 こんなに大胆なことをする唯を見るのが初めてだった千歳は目を瞬く。
 彼女は千歳から一歩どころか二歩も三歩も下がってついてくる女性だった。仕事は好きだが、目立つのはあまり好きではない。仕事を褒めると喜ぶし、食事に誘えばとりあえずはついてくるが、だからといって千歳に対して慣れ慣れしい態度は取らない。はっきりと線引きをする女性だった。それでいて、千歳が仕事ばかりしていると心配して手伝うお人好し。千歳に好かれたくてやっているのではなく、このまま帰っても落ち着かないから手伝うという点が、何とも難儀な性格である。本人は気にしていないので、千歳もそれならと満足するまで仕事を手伝わせている。

 唯は千歳をしっかりベッドの中に戻すと、お粥を持って来た。
 助けてくれるのなら、遠慮なく助けてもらおうか。彼女の珍しい態度も見ていたくて、千歳は抵抗するのを止める。お粥を受け取り、一口食べた。適度な温かさで、ほんのりと甘い。小学生の頃に熱を出しながら一人で作ったお粥とはたいぶ違う。そういえばあの頃は味よりも義務感が強く、とりあえず消化に良いものをお腹に入れてしまえばいいと思っていたから味付けは考えていなかったと千歳は一人納得する。風邪を引いた時、お粥を作ってもらったのは人生初めてだ。ちなみに両親はそんなことしない。自分たちの分だけ作って食べるので、千歳は残った分を無心で食べていた。残飯処理だ。

(こそばゆい……)

 普段、人に見られることは気にしない千歳だったが、何故か今は胸がそわそわする。
 最後まで食べられるかどうか気にする視線は嫌ではない。千歳は彼女に見守られながら、ゆっくりと咀嚼した。

「じゃあ、副社長はしばらく寝ていてください。夕飯、簡単に食べられるものを作っておくので、目が覚めたら食べてくださいね」

 唯はほっと息を吐いて、立ち上がる。
 もう大丈夫そうだと安心する彼女を見た千歳は、息が詰まった。

(……嫌だ)

 いっきに心細くなる。最後までそばにいてくれない。当たり前のことなのに、どうにもうまく呑み込めなかった。風邪で弱っているせいだとしても、千歳は今までの経験上、風邪で精神が弱ったことはない。

 ――咳をすれば、心配してそばにいてくれるだろうか。
 ――苦しいと切なげに呻いたら、眠りにつくまではそばにいてくれるだろうか。

 そんな考えが浮かぶが、千歳は小さな頃からの癖になっているのか、それができない。
 喉の奥につっかえる。我慢ができるのなら、それに超したことはない。余計な心配をかけたくないのも本心だ。
 だけど、この心地よさを失うのは耐えられない。
 嫌われてはいない。それなりに好かれてはいる。千歳個人ではなく、副社長としてだが。
 この状況が男として好かれているという結果であれば、良かったのに。

 唯が千歳に対して、そういう感情を持つのは難しい。持ったとしても、彼女は途中で諦める可能性が高かった。千歳は自身の境遇がいかに面倒で、複雑で、それでいて重たいかを知っている。堅実な生活を好む唯にとって、千歳は関わりを避けたいと思う部類の人間だ。それでも秘書を続けてくれているのは、彼女がお人好しだからである。
 その事実を弱った今になって、酷く苦しく思う。

「……ぁ」

 千歳は薄く唇を開く。寝てしまいたくないのに、薬を飲んだせいで眠気が増していた。

「どうかしましたか」

 掠れた小さな声を、唯はしっかりと受け取る。
 聞いたこともないくらい、優しく、柔らかな声。たったそれだけで、千歳は心が満たされていくのを感じる。
 無防備にこちらを覗き込む唯の顔を見た千歳は、初めて自分自身に存在する飢えに気づいた。

(どうすれば、そばにいてくれるのだろう……)

 ただ「そばにいて欲しい」と伝えたら、一緒にいてくれるだろうか。しかし、千歳は同情されて勝ち取るのは嫌だった。
 このままベッドに引き摺り込んで既成事実を作れば、男として意識してもらえるだろうか。だが、それは彼女を傷つけるだけだ。
 千歳はもう一度、掠れた声を出す。さらに近づけば聞こえるくらいの声量で、話しかけた。何かされるなんて考えてもいない唯は、そのまま顔を近づけていく。
 こんなのは子どもの我が儘と同じだと思いながらも、千歳は衝動を抑えられなかった。
 触れたくてたまらない。自分のものにしたいし、彼女のものになりたい。起き上がれば、唇に触れることができる。手を伸ばせば抱きしめることができる。

(そうじゃない――俺が欲しいのは)

 千歳は唯の唇に口付けそうになる寸前で、体勢を変えた。
 すると、コツン、と頭が唯の顔にぶつかった。

「えっ、あ、すみません! 顔を近づけすぎましたね?」

 顔を押し戻された唯は、慌てて身を引いた。両手で口元を塞いでいるので、そこそこ痛かったのだろう。

「俺の方こそ、すみません。ちょっと声が出にくくて……月野さん、今日はありがとうございました」
「あんまり無理はしないでくださいね。おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい」

 言い慣れない言葉がくすぐったい。風邪は引きたくないが、毎日こんな風に一日が終わればどんなにいいだろうか。
 千歳はふわふわと笑いながら、キスをしなくて良かったと安堵した。
 刹那的な快楽に何の意味があるのだろう。その時は良くても、終わってしまえば悲惨だ。それでも大抵の男であれば、一線を越えてしまうのだが千歳はしない。――先ほどやりかけたが。

(どうすれば、隣に立ちたいと思ってもらえるんだろう……)

 好かれるだけではだめだった。何かあるたびに、揺らぐような関係は千歳の望むものではない。唯自身が千歳のそばにいたいという欲を持ってくれなければ、あっさりと身を引いて秘書すら辞めてしまうだろう。
 彼女の価値観を変える方法を考える。けれど、風邪が治っても方法は思い浮かばなかった。それどころか千歳が風邪を引いた一件から、唯は警戒心を強くしている。これで千歳が唯に対して好意を明確に示せば本気で逃げるかもしれない。だからそれを解こうと何でもないふりを続けることにした。

 なのに、結果はどうだろう。
 仕事が終わると急いで帰るようになった唯は合コンに参加していたらしく、彼氏ができたと話す。嬉しさを滲ませた表情に、千歳も微笑んで「おめでとうございます」とお祝いした。反面、彼は内心でそんなに嫌だったのか、と落ち込んだ。

 ならばこのまま女性として好かれているなんて思われないよう、千歳はお見合いすることを唯に話す。唯は神妙な顔つきになると「副社長って忙しくて恋愛する時間なさそうですよね。大丈夫です、私も頑張ります」なんて言って積極的に情報収集をしてくれる。ありがたいことだ。その後、千歳は人生初の自棄買いをした。社長の達也は「どうするんだ、それ」と使いもしない別荘に若干引いていた。傷心中だから買ったと言っても信じてもらえていない。悲しい。

 そうして一年近く経ち、唯が完璧に千歳への警戒心を解除したかと思えば彼女は「そのうち、結婚する予定で……」と話す。千歳はいつもの笑みで「おめでとうございます」とお祝いした。好きな人が幸せならそれに越したことはない。縁がなかったということだろう。秘書を辞める予定がないのなら、それでいい。

 ――けれど千歳の過ちはたったの一度だったはずだ。好意が表に出てしまっただけ。それだけで、今まで出会いを求める素振りもなかった唯が必死になって相手を見つけてきた。こんなことになるなんて、と一度の過ちが悔やまれる。しかし千歳は風邪で弱っていなければ、唯のことを好きだということすら気づけなかったかもしれない。

(もっと、うまくできたはずなのに……)

 時々、千歳は『もしも』を考える。
 結婚はまだだ。別れる可能性はある。いや、ここまで来てその可能性を考えるのはかなり不謹慎なのだが。その時、チャンスが訪れたなら――



 好意を一切表に出さずに、好いてもらえるように努力しよう。
 離れたくないと、そんな考えすら抱けないくらい好かれなければ意味がない。
 当然、彼女の気持ちを尊重するけれど、それでも選んでもらえるように最大限努力しよう。
 それでも手に入らないのなら、今度はきちんと諦めよう……。
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