「南風の頃に」~ノダケンとその仲間達~

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第二話 第一部 1・丹野邸の朝

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「おーいっ、もう起きろよー! 春の光いっぱいの朝が始まっているんだぞー!」
始発の路面電車が目覚まし時計の代わりにそう叫んでいる。

停留所から二軒分の家を間に挟んだところにあるここ丹野邸には、朝と夜の静かな時間帯だと路面電車の停車音が聞こえてくる。エアーを噴射するブレーキ音が部屋の中までやって来るのだ。今朝のエアーは幾分長めだった。続いて聞こえて来た畳をわずかにこするような音は、下宿先の丹野の婆さんが僕と二人だけの朝食の準備を終えて、仏壇に火を灯しに行ったことを伝えている。和服しか着ない丹野の婆さんはスリッパを履かない。

「着物には足袋を履くのが日本人の古くからの習慣ですぅ。スリッパなどというんはなぁ、西洋の習慣ですぅ。畳には合うものでぇありませんー。」

畳の部屋は仏壇を置いてある床の間と丹野さんの寝室の二部屋しかないのだが、このばあさんは、毎日洗濯したての新しい足袋を履き、狂言師のような身のこなしで家事仕事をこなす。僕との二人分の朝食なんて簡単にできてしまうようだ。味噌汁も焼き魚も卵焼きも毎日新しく作る。漬物だってもちろん自分が漬けたものだ。高校に入りたての僕と70歳を越したであろう丹野の婆さんと、食べ物の好みがなぜかあっている。高校生向けにメニューを工夫してくれているわけでなく、祖母の作った料理で育った田舎者の僕にとって、丹野のばあさんがつくる料理はどれも食べ慣れたものに近かった。6時15分から30分の間には必ず仏壇に向かう習慣も、祖父や祖母との生活に慣れていた僕にはかえって安心できることだった。

祖父が勝手に決めてしまったこの下宿は、意外にも僕にとって快適な場所だった。甘やかされるとどこまでも甘えてしまうのが自分の弱さだと分かっていた。そのかわり厳しさに対しては、誰よりも我慢も順応もできる自信があった。というよりも、自分の弱さを諌めてくれる人が必要な、自立できない幼さがあるのだと自分でも分かっていた。

6時45分と決めた朝食時間に少しでも遅れると、丹野さんはなかなか怖い婆さんになる。
「顔を洗ってぇ、服を着替えてぇ、しゃきっとした顔でぇなぁ、食卓に向かいなさい。それが食事を作ってくれた人に対する礼儀ぃ、というものですよぉ。いいですかぁ、ノダさん。時間というものはぁ、一度ルーズにしてしまうとぉ、どこまでもぉいい加減になってしまうものですよぉ。」

確かに丹野のばあさんが時間にルーズになるなんてことは考えられなかった。

「人っちゅうものはなあ、……いいかケンジ。毎日ぃー、毎日の習慣をな、飽きることなくぅー、さぼることなくぅー、誠実にぃー、積み重ねることでなぁ、心も体も強くなるもんだっ! 日々の務めを全うしぃー、毎日毎日繰り返される時間をよぉー、大切にするってえことだっ。そしてな、同じようによぉ、人を大事にするんだあっ。それだからこそな、その人は信用される人間になっていくんだぁー。そうやってよー、人の価値ってえものはな、決まるもんなんだぞー。」

田舎にいたときにしょっちゅう家にやって来ては、酔いつぶれてしまった安德院の住職のこんな言葉よりも、丹野さんの方がずっと信用できそうな気がした。しかも、僕が生まれた海の町とは違う、なんともなめらかで抑揚たっぷりの日本語を話す彼女に対しては、どんな言い訳もしてはいけないように感じて「はい!」と従ってしまうしかなかった。

「お前はなんも知らない田舎者なんだから、丹野さんに教わった通りにするんだぞ。そうでないと、札幌みたいなおっきな街ではな、大事なとこで必ず失敗する。んでな、恥をかくことになるもんだ。いいかぁ、このことはちゃんと覚えとけ。お前が大人になるための訓練なんだからな。お前は、賢い奴だから、もうわかってると思うけどよ……。しっかり……、頑張んだぞ」

札幌にやってくるまで父親代わりになんでもやってくれていた祖父が、いつもどこからか僕に語りかけているような気がする。最初の頃それは、田舎から離れてやっと手に入れた自由な生活を押しつぶしてしまう重荷のようにも感じられた。それでも確かに丹野さんの言葉には真実があるような気がしていた。

「ケンジ。いいか、南が丘ってのはよ、札幌で一番の進学校だ。国立大学とか医学部とか難しい大学を目指す生徒ばっかしが集まってる。そいつらぁはよぉ、小学生ん時から塾に通ったり、家庭教師つけたりしてな、勉強に勉強を重ねてきた。そういうやつらだ。自分で望んでいたやつも、親に押しつけられたやつも、家を継がなけりゃなんねえ重荷を背負っているやつもいるべ。きっとな。南ヶ丘ってなぁよ、北海道ではな、一番難しい高校だ。して、卒業したら高い学力と名前を武器にしてな、世の中で活躍する人間になっていくんだぁ。北海道のトップにいる連中の多くはよ、こういう学校から生まれてきてる。そんな学校なんだぁ。」

「じいちゃん、俺なんかまぐれで入ったんだから……」
「んなこたぁ、どうだって良い。まぐれで入ったってぇ、なんで入ったってぇよ、おまえは南が丘の生徒の一人になったんだから、こんなすげえことはねえ。んでもよ、なんにしたって、できねーごとやわがんねーごとばっかりだろっさ。けどもよ、恥ずかしがったり、知ったふりなんかするんでない。ちゃんと教えてもらえる人が必ずいるんだぁ。先生でも、友達でも先輩でもよ、何かを教えてもらえる人はいっぱいいるぅ。そんなとこは滅多にないんだぁ。おまえはよ、これ以上ねー良いチャンスをもらったんだぁ。」

「『人間至る処青山有り』いいか、どこに行ったってぇ、お前はちゃんと活躍できる。お前の本当の力を発揮してみるんだ。いいな。何をやったって、お前は立派にできる。そう信じてやるんだぞ!」
札幌へ出発する日になっていつもにもまして熱の入った言い方をする祖父の言葉は、まるで遺言のように聞こえて仕方なかった。

そんな祖父の言葉と共に札幌にやって来てから、丹野さんにはたくさんのことを教えてもらった。いや、教えられた。僕はその京言葉だと思われる話し方を聞くたびに、たった一度だけ行った家族旅行のことを思い出していた。それは、小学生の頃に祖父と祖母に連れて行ってもらった京都への旅だった。

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