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第13話 第一部 12・小柄な大森泰平のバリトン講和
しおりを挟む「きりーつ!」クラス委員に立候補した小林啓悟が叫んだ。大森先生がやって来た。
「おはよう!」というバリトンがクラスに響き、「おは……まーす!」という男どもの語尾だけを強調した挨拶が反応した。口を閉じたままのやつも何人かいる。野球部の頃だったら大目玉を食らうはずの行為を、そのまま素通りさせて大森先生の話が始まった。
「ほら、しっかり顔を上げな!しばらく合わなかったけど、僕は元気だよって、顔を見せなよ! こういう時は!」
大森先生は挨拶できなかった生徒の方に顔を向けた。そして少しの沈黙の後に話し始めた。
「おまえたちが中学校の頃は、それぞれにいろんな学校事情があって、いろんな先生がいて、挨拶についてもいろんな言われ方をしてきたんだろう……きっと。それについて、良いとか悪いとか今は言うつもりはない。もっと大事なことに、……力を入れてた学校も多かっただろうし……」
そう言ってから彼はいったん教室の窓から遠くの方に目をやり、正面をむき直して続けた。目が笑ってはいなかった。40人の生徒たちは少し緊張感を漂わせ始めた。
「でもな、おまえら、今、入学してから1か月たって、5月の連休も明けて、ちょっとこの学校にも慣れてきた時期だろう。たぶんな。でー、俺は、今思ってるんだけど……、いいかよく聞きな」
静かに語りかけているようだが、だんだんと言葉に力が入ってきたのが分かった。
「おまえたちには、学校だからと甘えている部分がずいぶんとある。きっと今までもそうだったんだろうし、今も変わらずにそうだ。俺は、学校生活のいろんな面で君たちに対してそう感じています。でもー……」
こうやって、「も」を強調して、しかもいつも以上に丁寧な言葉で話す時の大森先生は怒っている時だ。
「……おまえたちがあと何年かして社会人として世の中に出た時に、大きなギャップに気づくはずです。ギャップと言っても、そんな大げさなものじゃなく、それは、社会の一員として生活していると当たり前のことでしかありません。例えば挨拶、例えば身だしなみ、そして、例えば食事の仕方……です。」
大森先生の話し方が更に丁寧になってきた。長い話になる。クラスのみんなは覚悟した。そして、話が止まる……間が怖かった。
「日本の歴史では、奈良時代や平安時代あたりから、今言ったような日常的に毎日毎日繰り返されることに、その人間の価値の違い……まあ、別の言い方をすると人間としての完成度や魅力や人としての価値を認めるようになってきます。つまりもっと簡単に言うと、毎日毎日の生活の、その時々に応じた適切な言葉を使い、その場に当てはまる行動をとれるかどうかで、その人間の評価や信用度が決まってきたのです。それは作法と呼ばれることもあったし、礼儀と言われることもあったようです」
目が少しつり上がってきた。口元にも怒りの感情が現れた。
「……今でもそうです。結論を言います。君たちの今の挨拶や、応対の仕方、身だしなみに日本人の先輩である大人としての判断を下すと、『下』、上中下の『下です』……」
「いいか、おまえたち!……」
教室内を見回す大森先生の目が鋭くなっていた。そして早口になった。
「少なくとも、目上の人から挨拶をされたら……、それ以上の丁寧さで、しっかりと挨拶を返すもんだ! 日本人の良いところは、まずはそういうところから始まるんだ! 縦のつながりが嫌いだとか、それが良いとか悪いとか、個人の性格がとか多様性だとか、そんな問題じゃない! 人と人との関係は、こういうことから始まるんだ! それできねえでどんな偉そうなゴタクを並べたって、そんなのはたいしたやつらじゃねえ!」
それまでの丁寧な口調が、本人は由緒正しい江戸弁だと主張する「べらんめえ調」になってきた。
「俺は、日本人が長い年月をかけて形作ってきた日本語を教えている。だから日本人として大切なことだけは絶対に教えようと思っている。他の国と比較するつもりなんか全くねえし、日本人の洗練された良い伝統をつぶすようなことは絶対に許さねえ。それが日本人の大人としての役目だと思ってる」
朝からこれだけの熱量で話せる先生はめったにいない。おかげでここにいた40人の寝ぼけた顔に緊張感が生まれた。
「お前たちだって、次の世代に日本の良さを伝えて、伝統を発展させながら引き継ぐ、そういう大人になる役割を持ってるんだぞ」
教室内をゆっくりと見ながら落ち着いた口調に戻った大森先生が続けた。
「……やるべきことをちゃんとやれる人間になれ! おまえたちは、優秀な南が丘の生徒と言われることが多いんだろうけども、こんなあたりまえのこともできない奴らを優秀だなんて呼ぶやつは、アホだぞ! ……いいか! そんなこと言われる前に……もういいかげんわかれ!」
週にいっぺんは大森先生の「人生訓」が始まる。今日もその日になった。40人の生徒の背中がすっと伸びた。
「もう1回、俺が入ってくるところからやるぞ! いいか!」
「はい!」
40人がそれぞれの声を上げ小さくうなづいた。連休明けの淀んでいた空気が教室内から一掃され、みんなの霞んだ視界がリセットされた。大森先生は一度廊下に出てから再び入って来た。廊下側の1番後ろの席にいる僕からは、ドアの前で大きく息を吸う太い眉毛の担任の姿が見えていた。出て行った時とは全く違うにこやかな目をしていた。
「起立!」
小林の声に一段と力がこもっていた。
「おはよう~!」
にこやかに先生が言った。
「おはようございまーす!」
40人の声がそろった。語尾だけの言い方は誰一人いない。
「イヤー良い天気だね……。」
さっきの大森先生はもうそこにいなかった。大きな黒板の前には目尻の下がった太く黒々とした眉毛を持った小柄な古典教師がいた。
中学の同級生で、札幌の男子校に進学した山西拓也と記録会の日に再会した。
「オイス」と「チワー」を一日中言わなくてはならないから、1年生は毎日が緊張の連続だと愚痴っていた。「オイス」は「オハヨウゴザイマス」「チワー」は「コンニチハ」の短縮形で、この2つの挨拶を使い分けて一日に数十回は叫ぶことになるという。彼は中学から陸上部で、さほど挨拶を厳しく言われてこなかった。男子校の体育系部活では慣れないことばかりなのだという。
朝、部室に登校すると、部屋掃除と洗濯から始まる。どこの部活の先輩でも会った時には動きを止めて「オイス」と大声で叫ぶ。今ではもう珍しくなってしまった男子校の、しかも伝統校の体育系部活というと、みんな部活推薦で入ってきた生徒ばかりで、体力自慢と気の強さを持ち合わせた人達ばかり。全く顔見知りのいない自分にとっては、この挨拶の出来しだいでは憎まれ役にもなりそうで毎日緊張ばかりだという。
テニスコートの周りを囲うようにしてある部室までは全力で走って行き来する。その途中であっても先輩らしき人を見つけると急停止しては「チワー」「オイス」と日に何回でも繰り返す。たとえ意図的でなくとも忘れようものなら、自分の部の先輩に伝わり「強い指導」となる。スポーツ自体は結果が全ての判断材料になるものだが、こと学校生活となると、スポーツに関わる者には年の差が全てなのだということを実感しているようだった。
「スポーツをやる人に悪人はいない、なんて、あんなのは大ウソさ! ロクでもねえやつばっかりだ!」山西はかなりくさっていた。
そんなことは僕にはもうずいぶん前から分かっていた。小学校の時も中学の野球部でも、上手いやつ、強いやつはみんな、気が強く負けず嫌いなやつばかり。特に中学になって、先輩後輩という上下関係が公になってしまうと、人と人との関係はスポーツ本来の力関係じゃなくなってしまう。やっかみも無理強いも当然のことで、それを毎年毎年継承していく。野球部なんかその典型的な集団なのだから、挨拶ができないなんてのは考えられないことだった。
野球の能力差は学年に関係なくあったから、後輩がレギュラーになることはあたりまえのようにあった。それはそれで仕方のないことだとみんな分かっている。でも、野球部という集団で生きて行くには、プレーの能力じゃない力関係を把握してそれに従わなくてはならなかった。それはきっと10年前も、50年前も、もっともっと前にも、そして今も続いていて、これからも続いていくだろう。年齢差は経験の差であり、立場の差でもある。持っている責任の差も含めて、学年や年齢という違いが厳然と存在する集団では、それは避けられないことだと思っていた。
山西は素直で真面目な長距離ランナーだった。きっと、彼は彼自身が今嫌っているシステムに順応して生きていくだろう。そして、来年からは同じように年齢という力を使うようになるのだろう。しかしそれも、大人になっていく段階で経験すべきことなのかもしれない。
日本社会の悪癖だとか、スポーツの弊害だとか、前近代的だとか、縦社会の悪いつながりだとかいろいろな批判はされている。けれど、祖父が何度も話していたように、間違いなく日本人はこうやって生きてきたし、日本人的な良い伝統も作ってきたのだ。批判するのは簡単だけれども、まずは自分がその場に立ってみる必要もあるわけで、日本人としてのつながりが生まれて来る場面であるとも考えられはしないだろうか。
大森先生の生きてきた世界が僕たちの世界と違っているわけじゃなく、これから僕たちはその世界の中に飛びこんでいくことになるのだ。拒否はできない。まずはやってみなければならない。集団の中で生きていくということ、そして大人になるということは、そういう経験を積み重ねていくことなのかもしれない。
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