太陽王と終焉の月

帰り花

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第二章 王冠と鎖

堕ちる月

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 エルセリア王都の城門は、夜明けの三刻後に崩れた。
 ヴァルディア軍は止まらなかった。
 矢が降ろうと、油が流れようと、石が落ちようと、進み続けた。止まらない軍勢ほど恐ろしいものはない。死を恐れていないのではない。死より恐ろしいものを知っているのだ。
 ――後退。
 ヴァルディアにおいて、後退は敗北ではない。
 消滅だ。
 だから彼らは進む。
 生きるためではなく、消えないために。

 城壁の上。
 アルベルトは、それを見ていた。
 緑の瞳に映るのは、押し寄せる黒。
 それらは、ただの兵ではない。
 恐怖だ。
 止まらない恐怖。
 それが、波のように押し寄せてくる。
 将が言う。
「殿下、退却を」
 アルベルトは、首を振る。
「まだだ」
 声は穏やかだった。
 だが、揺れない。
 恐怖はある。
 だが、恐怖に従わない。
 それが、彼という男だ。
 愛されて育った者の強さ。
 失う前提で生きていない者の強さ。
 守ることを選べる者の、強さ。

 門が砕けた。
 破城槌ではない。
 炎だ。
 ヴァルディアの魔術兵が放った火は、木材ではなく石を焼く。熱で膨張した石が悲鳴を上げ、内側から裂ける。
 轟音。
 門が崩れる。
 兵がなだれ込む。

「弓兵、後退! 二列目前へ!」
 アルベルトの声が戦場を切る。
 命令は明確。
 兵は従う。
 この国の兵は、王子を信じている。
 迷いのない声は、信じられる。
 だが。
 信じる力は、壊される。
 圧倒的な力の前では。

 ソルは前線にいた。
 王が前線に立つなど愚かだ、と将は言った。
 ソルは答えた。
「関係ない」
 彼にとって、戦は儀式だ。
 距離を置くものではない。
 触れるものだ。
 奪うものだ。
 確かめるものだ。

 城門を越えた瞬間、空気が変わる。
 王都の匂い。
 豊穣の匂い。
 花。
 水。
 土。
 豊かな国の匂い。
 それが鼻に入った瞬間、ソルの瞳がわずかに細くなる。
(ここにいる)
(この空気の中に)
(あいつが)
 胸の奥の炎が一段、強くなる。

 市街戦は、短かった。
 抵抗は、あった。
 だが、遅い。
 遅れた抵抗は、勇敢ではなく徒労になる。
 剣が交わり、血が散り、叫びが途切れる。
 瓦礫が崩れ、旗が落ち、鐘が鳴り止む。
 一刻。
 それで終わった。

 アルベルトは、最後まで退かなかった。
 広場の中央。
 兵が倒れていく中、剣を振るっていた。
 緑の瞳は、静かだった。
 敗北を悟っている目だ。
 だが、絶望していない。
 それが、ソルには理解できない。
 敗北は、終わりだ。
 終わりなら、崩れるはずだ。
 だが、崩れない。
 なぜだ。

 ソルが、馬を進める。
 兵が、道を開ける。
 二人の王子が、向かい合う。
 赤と緑。
 炎と森。
 破壊と保護。
 対極にある存在。

「久しいな」
 ソルが言う。
 声は穏やかだった。
 怒りはない。
 激情もない。
 ただ、静かな確信がある。
 アルベルトは答える。
「……そうだな」
 短い。
 だが、恐れはない。
 ソルは思う。
(やはり)
(邪魔だ)

「降伏しろ」
 ソルが言う。
「そうすれば、民は助ける」
 事実だ。
 嘘ではない。
 だが、優しさではない。
 合理だ。
 アルベルトは問う。
「しなければ」
 ソルは微笑む。
 炎色の瞳が、わずかに歪む。
「壊す」
 一言。
 それで、十分だった。

 沈黙。
 風が吹く。
 焼け跡の匂いが漂う。
 アルベルトは理解する。
 この男は、止まらない。
 ここで剣を取れば、民が死ぬ。
 ここで膝を折れば、国が死ぬ。
 選択は、一つしかない。
 守れる方を、守る。
 それが、彼の王族としての在り方だ。

 アルベルトは、剣を地に置いた。
 降伏だ。
 その瞬間、広場の空気が静まる。
 ソルは、馬を降りる。
 近づく。
 数歩。
 距離が縮まる。
 そして――囁く。
「神官はどこだ」
 アルベルトの瞳が、初めて揺れた。
 ほんの一瞬。
 だが、確かに。
 ソルは、それを見逃さない。

「……答えろ」
 声が低くなる。
 アルベルトは言う。
「なぜだ」
 ソルは答える。
「俺のものだからだ」

 その言葉が、空気を変えた。
 兵たちが顔を見合わせる。
 意味が分からない。
 だが、アルベルトだけは分かる。
 これは、侵略のための戦争ではない。
 これは――月を堕とすための戦いだ。

 アルベルトは、沈黙する。
 言えば、連れていかれる。
 言わなければ、探される。
 探されれば、神殿ごと焼かれる。
 その未来が、分かる。
 ソルは、本当にやる。
 やれる男だ。

「……大神殿だ」
 アルベルトは答えた。
 守るために。
 民を。
 神殿を。
 そして、ルナを。

 ソルは微笑む。
 満足した時だけ、見せる笑み。
 それは、勝利の笑みではない。
 獲物を見つけた、獣の笑みだ。

 大神殿は、まだ無傷だった。
 白い柱。
 高い天井。
 静かな空気。
 そこに、ルナがいた。
 兵に囲まれて。
 逃げなかった。
 抵抗もしなかった。
 ただ、立っていた。
 まるで、最初から知っていたみたいに。
 ここへ来ることを。
 ソルが来ることを。

「久しいな」
 ソルが言う。
 同じ言葉。
 だが、声は違う。
 低く。
 深く。
 熱を帯びている。
 ルナは言う。
「……王に、なったのですね」
 肯定でも、否定でもない。
 事実だけを、伝える声。
 それが、ソルの胸を軋ませる。

 ソルは、手を伸ばす。
 今度は、止めない。
 指が触れる。
 銀の髪。
 温度。
 記憶。
 神殿の回廊。
 血の匂い。
 光。
 すべてが、一瞬で蘇る。
 ソルは囁く。
「迎えに来た」
 ルナの瞳が、わずかに揺れる。
 初めて。

 背後で声がする。
 兵に拘束されているアルベルトだ。
「……ルナ」
 その一言。
 その呼び方。
 その温度。
 それを聞いた瞬間。
 ソルの瞳の炎が、深くなる。

「選べ」
 ソルは言う。
 静かに。
「来るか」
 一拍。
「それとも」
 振り向いて、アルベルトを見る。
「こいつを殺すか」

 風が止まる。
 時間が止まる。
 誰も、動けない。

 ルナは理解する。
 これは脅しではない。
 宣告だ。
 ソルはやる。
 迷わず。
 躊躇なく。
 罪悪感なく。
 やれる男だ。
 だからこそ。
 止められるのは、一人だけ。

 ルナは言った。
「行きます」
 静かに。
 だが、迷いなく。
 アルベルトが、目を見開く。
「ルナ!」
 ルナは振り向かない。
 ただ続ける。
「あなたが望むなら」
 その言葉は、誓いではない。
 祈りだ。
 壊さないように。
 壊れないように。
 もう、これ以上。

 ソルは笑う。
 勝利の笑みではない。
 確信の笑み。
 そして言う。
「今日からお前は」
 手を取る。
 逃げられないように。
 二度と離れないように。
 鎖の代わりに、指で。
「俺の妃だ」

 エルセリアの月は、ヴァルディアの太陽に堕とされた。
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