太陽王と終焉の月

帰り花

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第三章 月の檻

嫉妬

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 それは、些細な出来事だった。
 だが王にとって、世界を壊す理由はいつも些細だ。

 妃となって一年が過ぎた頃。
 王城の空気は、変わっていなかった。
 兵は、ルナに関わらない。
 貴族は、ルナを見ない。
 侍女は、ルナに触れない。
 だが一つだけ、変わってしまったものがある。
 噂だ。
「妃は癒しの力を持つ」
「神の祝福を宿している」
「触れられれば傷が消える」
 噂は広がる。
 火より速く。
 水より深く。
 ソルは、それを知っていた。
 知っていたが、止めなかった。
 止める理由がなかったからだ。
 その時までは。

 事件は、午後に起きた。
 城壁見回りの兵が負傷した。
 崩落した石材に脚を挟まれ、骨が折れていた。血が滲み、痛みで呼吸が荒い。
 城の中庭に運び込まれた兵を見て、侍従が慌てて言った。
「医師を――」
 だが、兵は首を振る。
 苦しげに。
「……妃様を」
 その一言。
 それだけ。
 それだけで、空気が止まった。

 ルナは呼ばれた。
 拒まなかった。
 拒めなかった。
 苦しんでいる者を放置できない。
 それは癖だ。
 二百年で染みついた、消えない癖。

 中庭で。
 兵は地面に横たわっていた。
 汗。
 血。
 歯を食いしばる音。
 ルナは膝をつき、兵の足に触れた。
 光が溢れ、骨が戻る。
 裂けた皮膚が閉じる。
 呼吸が整う。
 兵は、目を見開いた。
 そして言った。
「……ありがとうございます」
 涙を流しながら。
 救われた者の顔だった。

 そのとき。
 背後で音がした。
 足音。
 重くない。
 だが、逃げ場を消す音。
 ルナは、振り向かない。
 振り向かなくても、分かる。
 誰か、分かる。

 誰も、跪かない。
 誰も、声を出さない。
 空気だけが、沈む。
 王は、怒鳴らない。
 顔も、歪んでいない。
 だが。
 赤い炎色の瞳だけが、激しく燃えていた。

「……立て」
 低い声。
 兵に向けた声。
 兵は慌てて、立つ。
 震えている。
 痛みではない。
 恐怖だ。

「下がれ」
 兵は逃げるように、去る。
 誰も止めない。
 止められない。

 沈黙。
 風が止まる。
 鳥の声が遠くなる。
 世界が狭くなる。

 ソルは、歩く。
 一歩。
 また一歩。
 ルナの前まで。
 止まる。
 何も言わない。
 ただ、見る。
 ルナを。
 触れた、手を。
 兵を癒した、指を。

「……誰にでも触れるのか」
 声は静かだった。
 怒鳴らない。
 責めない。
 だが、その静けさが、最も危険だった。
 ルナは答える。
「苦しんでいたので」
 それは真実。
 嘘ではない。
 だが。
 ソルにとって真実は、必ずしも正解ではない。

「そうか」
 短い返事。
 それだけ。
 それ以上、何も言わない。
 踵を返し、去る。
 怒りも命令も残さず。
 ただ、沈黙だけを残して。

 その夜。
 王の寝所は、いつもより暗かった。
 灯りが少ない。
 影が深い。
 ルナが入ると、ソルはすでにいた。
 窓の前。
 背を向けて、月を見ている。
 白い光が、肩を縁取っている。
 静かな背中。
 だが静けさは、嵐の前触れだ。
 ルナは分かる。
 分かってしまう。

「……ソル」
 呼ぶ。
 返事はない。
 代わりに、ゆっくり振り向く。
 赤い瞳。
 昼間より、深い色。
 燃えている。
 炎は揺れていた。
 揺れながらも、消えない炎。

「お前は」
 ソルが言う。
「誰のものだ」
 問い。
 命令ではない。
 確認でもない。
 確証が欲しい声。

 ルナは答える。
「あなたの妃です」
 正しい答え。
 形式として。
 だが、ソルは首を振る。
「違う」
 一歩近づく。
「そういうことじゃない」
 声が低くなる。
 胸の奥の獣が、目を覚ます。

「誰のものだ」
 もう一度。
 今度は逃げ場がない。
 ルナは言う。
 静かに。
「わたしは、だれのものにもなりません」
 その言葉。
 その一言。
 それが、火種になる。

 次の瞬間。
 ソルは、ルナの手首を掴んだ。
 痛い。
 今までと違う。
 確かめる触れ方ではない。
 捕まえる触れ方。

 寝台へ引き寄せる。
 距離が消える。
 逃げ道が消える。
 呼吸が重なる。
 だが、今夜のソルは違う。
 優しくない。
 触れ方が違う。
 指先の迷いがない。
 躊躇がない。
 “壊さないように”が消えている。
 代わりにあるのは。
 抑えつけたい衝動。

「言え」
 声が低くなる。
「お前は、誰のものだ」
 ルナは理解する。
 これは愛ではない。
 不安だ。
 けれど、嘘は言えない。
 嘘が崩れれば、王は壊れてしまうから。
 だから、繰り返す。
「わたしは、だれのものにもなりません」

 その瞬間。
 ソルの瞳が細くなる。

 今までの夜は、確かめる夜だった。
 だが今夜は、違う。
 刻む夜だ。
 証を残す夜だ。
 逃げられない鎖をつける夜だ。

 ルナは、目を閉じる。
 抵抗しない。
 痛みも、熱も、受け止める。
 ソルを、壊さないために。

 夜は長かった。
 長く。
 深く。
 重く。

 夜明け前。
 ソルは、ルナを抱いたまま呟く。
 声は低い。
 だが、震えている。

「……他を見るな」

 命令。
 懇願。
 祈り。
 全部が混ざった声。

 ルナは答える。

「見ません」

 これだけは、嘘だった。
 心の底では、緑の瞳を覚えている。
 消えていない。
 消えない。
 だがその真実は、口にしない。
 口にした瞬間、太陽と月は二度と昇れなくなるから。

 ソルは、安心したように目を閉じる。
 だがその安心は、鎖になる。
 鎖は増える。
 増えるほど、外れなくなる。
 外れなくなるほど――
 王は狂っていく。
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