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第三章 月の檻
破綻
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翌朝、王城の空気は昨日より重かった。
誰も、言葉にしない。
だが、皆が知っている。
王の機嫌は、国の天候だ。
その天候が今、崩れかけている。
原因は誰も、口にしない。
口にすれば、燃えるからだ。
ルナは、朝議に立った。
いつも通り、ソルの半歩後ろ。
いつも通り、静かに。
だが“いつも通り”の中に、確実に違うものが混ざっていた。
ルナの顔は、白い面布で覆われていた。
慈愛に満ちた水色の瞳は他の者には見えず、ルナからも人影しか見えていないだろう。
そして、異変はもう一つあった。
ソルの手が、離れない。
昨夜の名残ではない。
昨夜の結果だ。
手首を取られる。
指が絡む。
見えない鎖。
そして、周囲に向けた合図。
――触れるな。
――見るな。
――奪うな。
誰も、奪おうとしていないのに。
ソルは、奪われることを前提に生きている。
だから、先に縛る。
失う前に、縛る。
失う可能性を消すために、縛る。
昼。
ルナが一人になる時間は、なくなっていた。
祈りの時間も、なくなっていた。
ヴァルディアの礼拝堂に行く許可はある。
だがそこへ行くには、ソルの許可が必要だった。
そして、ソルは許可を出さない。
出すのが怖いからだ。
月が王城の外の空気を吸えば、
月が王城の外の誰かに触れれば、
月の心が自分以外へ動くかもしれない。
それは、ソルにとっては死と同じだった。
だから、封じた。
空を。
光を。
人を。
祈りすら。
夜。
ソルは優しさを持ち出さなくなった。
壊れ物を扱う触れ方ではない。
確かめる触れ方でもない。
今は抑えつける触れ方だ。
逃がさないために。
逃げ道を消すために。
ルナは抵抗しない。
それは、諦めではない。
耐えることが、守ることだと知っているからだ。
ソルを怪物にしないために。
ここで拒絶すれば、ソルはもっと深い闇へ落ちる。
その確信が、ルナを黙らせる。
黙らせることで、逆に鎖が太るのに。
そして夜の終わり。
ソルは必ず囁く。
同じ言葉を。
しかし今は、意味が変わっている。
「ここにいろ」
それは祈りではなくなった。
拘束になった。
ルナは窓辺に立ち、月を見る。
格子の向こう。
エルセリアと同じ月。
エルセリアと同じ光。
なのに、ここでは冷たい。
月は反射する。
だから、近くのものに染まる。
ヴァルディアの月は、鉄の匂いがする。
そのとき。
窓の外、庭の隅の木の後ろで、影が揺れた。
鳥ではない。
風でもない。
人の影だ。
ルナの胸が、強く鳴った。
(まさか)
思う前に、影が近づく。
そして、声。
小さな、しかし確かな声。
「……ルナ」
緑の匂いがした。
風の匂い。
エルセリアの匂い。
懐かしい匂い。
ルナは、唇を噛む。
名を呼ばれただけで、胸が裂けそうになる。
それでも声を落とし、答える。
「……アルベルト」
アルベルトが、そこにいた。
王子の衣ではない。
暗い外套。
顔を隠す布。
だが、緑の瞳は隠しきれない。
その目は、昔と変わらない。
疑わない目。
恐れない目。
まっすぐに人を信じる目。
それが、今夜ほど残酷に眩しいことはない。
「来てはいけません」
ルナが言う。
アルベルトは首を振る。
「来るなと言われても、来る」
声は低い。
だが、揺れない。
「俺は、お前を奪い返す」
その言葉は、ソルの言葉と似ている。
奪う。
だが、意味が違う。
アルベルトの奪うは、自由を戻す奪い方だ。
ソルの奪うは、自由を消す奪い方だ。
同じ言葉なのに、正反対。
ルナは苦笑する。
「あなたは……変わりませんね」
アルベルトも笑う。
「変われない」
そして一歩、近づく。
窓格子越し。
手が届く距離。
届きそうで、届かない距離。
「……覚えているか」
アルベルトが言う。
「俺の誓いを」
ルナの呼吸が止まる。
覚えている。
忘れたことなどない。
13歳のアルベルトが、怪我をしていた夜。
血に濡れ、土に伏せた王子。
護衛もいない、無茶な少年。
それを見つけた、銀髪の神官。
触れた。
癒した。
光が生まれた。
ルナは不老不死だと知ったアルベルトは、言った。
「俺の最期まで、お前の隣にいる」
その言葉は、ルナの二百年の孤独に風穴を開けた。
“見送る側”として生きると決めた心を、揺らした。
愛してはいけないと決めた心を、ほどいた。
ルナは囁く。
「覚えています」
アルベルトの緑の瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「なら、来い」
短い言葉。
命令ではない。
手を差し出すでもない。
ただ、“待つ”のではなく、“迎えに来た”目をしている。
ルナは目を伏せた。
行けない。
行けば、ソルが壊れる。
ソルが壊れれば、世界が壊れる。
そして何より――
アルベルトが死ぬ。
その可能性を、ルナは知りすぎている。
ソルは脅しを実行する男だ。
実行できる男だ。
実行しても眠れる男だ。
「……今は」
ルナが言う。
「まだ……」
アルベルトが遮る。
「まだ、じゃない」
声が鋭くなる。
怒りではない。
焦りだ。
「お前の目が、死にかけている」
その一言で、ルナの胸が痛んだ。
見抜かれた。
祈りで保っているだけの自分を。
救済の形をした、自己犠牲を。
アルベルトは続ける。
「俺は、愛されて育った」
突然の言葉。
だがそれは、前置きだった。
「だから分かる。愛は鎖じゃない」
緑の瞳が、真っ直ぐルナを見る。
「お前を縛っているのは、愛じゃない」
ルナは息を吸えなくなる。
正しい。
正しすぎる。
正しい言葉は、時に刃だ。
「俺は、待つだけの男でいたかった」
アルベルトが言う。
「だが、もう待てない」
声が落ちる。
静かになる。
「お前を失う」
その一言に、ルナの心が揺れる。
失う。
見送る。
それが代償だ。
神との契約の代償。
だからこそルナは、愛を遠ざけてきた。
失うのが怖いからだ。
失うのが、確定しているからだ。
ルナは囁く。
「……あなたを巻き込みたくない」
アルベルトは即答する。
「巻き込め」
そして微笑む。
「お前が俺を巻き込んだんだ。雨の夜に」
その笑いは、昔と同じだった。
眩しくて、優しい。
だからこそルナは、胸が苦しくなる。
この光を、守りたい。
この光を、消したくない。
ソルを救いたいのと、同じくらい。
いや、違う。
守りたいのは、アルベルトだ。
愛しているのは、アルベルトだ。
その事実が、胸の奥で焼ける。
遠くで足音がした。
巡回兵だ。
時間がない。
アルベルトが言う。
「次は、必ず連れ出す」
断言。
ルナのために、彼は命をかける。
ルナは目を閉じる。
「……来ないでください」
アルベルトは首を振る。
「必ず来るよ」
そして、最後に囁く。
「お前を取り戻す」
影が消える。
風の匂いが薄れる。
夜が戻る。
格子の影が床に落ちる。
ルナは、その場に立ち尽くす。
胸の奥が震えている。
救済のために、残ったはずなのに。
愛のために、揺れてしまった。
その瞬間。
背後で、扉が開いた。
ソルが入ってくる。
何も言わず。
ただ一つだけ、違う。
赤い炎色の瞳が――
全てを知っている目だった。
「……誰だ」
低い声。
問い。
だが、問いではない。
確認でもない。
確信の刃だ。
ルナは息を止める。
言えば、アルベルトが死ぬ。
言わなくても、いずれ死ぬ。
その未来が、喉元に迫る。
ソルは近づく。
距離が消える。
逃げ場が消える。
そして囁く。
「お前の目が、今――俺を見ていなかった」
その一言が、絶望の宣告だった。
ソルは見てしまったのだ。
“他”を。
“光”を。
そしてその瞬間、彼の中で何かが壊れた。
優しさではない。
慎重さでもない。
壊れたのは、壊さないという最後の理性だ。
誰も、言葉にしない。
だが、皆が知っている。
王の機嫌は、国の天候だ。
その天候が今、崩れかけている。
原因は誰も、口にしない。
口にすれば、燃えるからだ。
ルナは、朝議に立った。
いつも通り、ソルの半歩後ろ。
いつも通り、静かに。
だが“いつも通り”の中に、確実に違うものが混ざっていた。
ルナの顔は、白い面布で覆われていた。
慈愛に満ちた水色の瞳は他の者には見えず、ルナからも人影しか見えていないだろう。
そして、異変はもう一つあった。
ソルの手が、離れない。
昨夜の名残ではない。
昨夜の結果だ。
手首を取られる。
指が絡む。
見えない鎖。
そして、周囲に向けた合図。
――触れるな。
――見るな。
――奪うな。
誰も、奪おうとしていないのに。
ソルは、奪われることを前提に生きている。
だから、先に縛る。
失う前に、縛る。
失う可能性を消すために、縛る。
昼。
ルナが一人になる時間は、なくなっていた。
祈りの時間も、なくなっていた。
ヴァルディアの礼拝堂に行く許可はある。
だがそこへ行くには、ソルの許可が必要だった。
そして、ソルは許可を出さない。
出すのが怖いからだ。
月が王城の外の空気を吸えば、
月が王城の外の誰かに触れれば、
月の心が自分以外へ動くかもしれない。
それは、ソルにとっては死と同じだった。
だから、封じた。
空を。
光を。
人を。
祈りすら。
夜。
ソルは優しさを持ち出さなくなった。
壊れ物を扱う触れ方ではない。
確かめる触れ方でもない。
今は抑えつける触れ方だ。
逃がさないために。
逃げ道を消すために。
ルナは抵抗しない。
それは、諦めではない。
耐えることが、守ることだと知っているからだ。
ソルを怪物にしないために。
ここで拒絶すれば、ソルはもっと深い闇へ落ちる。
その確信が、ルナを黙らせる。
黙らせることで、逆に鎖が太るのに。
そして夜の終わり。
ソルは必ず囁く。
同じ言葉を。
しかし今は、意味が変わっている。
「ここにいろ」
それは祈りではなくなった。
拘束になった。
ルナは窓辺に立ち、月を見る。
格子の向こう。
エルセリアと同じ月。
エルセリアと同じ光。
なのに、ここでは冷たい。
月は反射する。
だから、近くのものに染まる。
ヴァルディアの月は、鉄の匂いがする。
そのとき。
窓の外、庭の隅の木の後ろで、影が揺れた。
鳥ではない。
風でもない。
人の影だ。
ルナの胸が、強く鳴った。
(まさか)
思う前に、影が近づく。
そして、声。
小さな、しかし確かな声。
「……ルナ」
緑の匂いがした。
風の匂い。
エルセリアの匂い。
懐かしい匂い。
ルナは、唇を噛む。
名を呼ばれただけで、胸が裂けそうになる。
それでも声を落とし、答える。
「……アルベルト」
アルベルトが、そこにいた。
王子の衣ではない。
暗い外套。
顔を隠す布。
だが、緑の瞳は隠しきれない。
その目は、昔と変わらない。
疑わない目。
恐れない目。
まっすぐに人を信じる目。
それが、今夜ほど残酷に眩しいことはない。
「来てはいけません」
ルナが言う。
アルベルトは首を振る。
「来るなと言われても、来る」
声は低い。
だが、揺れない。
「俺は、お前を奪い返す」
その言葉は、ソルの言葉と似ている。
奪う。
だが、意味が違う。
アルベルトの奪うは、自由を戻す奪い方だ。
ソルの奪うは、自由を消す奪い方だ。
同じ言葉なのに、正反対。
ルナは苦笑する。
「あなたは……変わりませんね」
アルベルトも笑う。
「変われない」
そして一歩、近づく。
窓格子越し。
手が届く距離。
届きそうで、届かない距離。
「……覚えているか」
アルベルトが言う。
「俺の誓いを」
ルナの呼吸が止まる。
覚えている。
忘れたことなどない。
13歳のアルベルトが、怪我をしていた夜。
血に濡れ、土に伏せた王子。
護衛もいない、無茶な少年。
それを見つけた、銀髪の神官。
触れた。
癒した。
光が生まれた。
ルナは不老不死だと知ったアルベルトは、言った。
「俺の最期まで、お前の隣にいる」
その言葉は、ルナの二百年の孤独に風穴を開けた。
“見送る側”として生きると決めた心を、揺らした。
愛してはいけないと決めた心を、ほどいた。
ルナは囁く。
「覚えています」
アルベルトの緑の瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「なら、来い」
短い言葉。
命令ではない。
手を差し出すでもない。
ただ、“待つ”のではなく、“迎えに来た”目をしている。
ルナは目を伏せた。
行けない。
行けば、ソルが壊れる。
ソルが壊れれば、世界が壊れる。
そして何より――
アルベルトが死ぬ。
その可能性を、ルナは知りすぎている。
ソルは脅しを実行する男だ。
実行できる男だ。
実行しても眠れる男だ。
「……今は」
ルナが言う。
「まだ……」
アルベルトが遮る。
「まだ、じゃない」
声が鋭くなる。
怒りではない。
焦りだ。
「お前の目が、死にかけている」
その一言で、ルナの胸が痛んだ。
見抜かれた。
祈りで保っているだけの自分を。
救済の形をした、自己犠牲を。
アルベルトは続ける。
「俺は、愛されて育った」
突然の言葉。
だがそれは、前置きだった。
「だから分かる。愛は鎖じゃない」
緑の瞳が、真っ直ぐルナを見る。
「お前を縛っているのは、愛じゃない」
ルナは息を吸えなくなる。
正しい。
正しすぎる。
正しい言葉は、時に刃だ。
「俺は、待つだけの男でいたかった」
アルベルトが言う。
「だが、もう待てない」
声が落ちる。
静かになる。
「お前を失う」
その一言に、ルナの心が揺れる。
失う。
見送る。
それが代償だ。
神との契約の代償。
だからこそルナは、愛を遠ざけてきた。
失うのが怖いからだ。
失うのが、確定しているからだ。
ルナは囁く。
「……あなたを巻き込みたくない」
アルベルトは即答する。
「巻き込め」
そして微笑む。
「お前が俺を巻き込んだんだ。雨の夜に」
その笑いは、昔と同じだった。
眩しくて、優しい。
だからこそルナは、胸が苦しくなる。
この光を、守りたい。
この光を、消したくない。
ソルを救いたいのと、同じくらい。
いや、違う。
守りたいのは、アルベルトだ。
愛しているのは、アルベルトだ。
その事実が、胸の奥で焼ける。
遠くで足音がした。
巡回兵だ。
時間がない。
アルベルトが言う。
「次は、必ず連れ出す」
断言。
ルナのために、彼は命をかける。
ルナは目を閉じる。
「……来ないでください」
アルベルトは首を振る。
「必ず来るよ」
そして、最後に囁く。
「お前を取り戻す」
影が消える。
風の匂いが薄れる。
夜が戻る。
格子の影が床に落ちる。
ルナは、その場に立ち尽くす。
胸の奥が震えている。
救済のために、残ったはずなのに。
愛のために、揺れてしまった。
その瞬間。
背後で、扉が開いた。
ソルが入ってくる。
何も言わず。
ただ一つだけ、違う。
赤い炎色の瞳が――
全てを知っている目だった。
「……誰だ」
低い声。
問い。
だが、問いではない。
確認でもない。
確信の刃だ。
ルナは息を止める。
言えば、アルベルトが死ぬ。
言わなくても、いずれ死ぬ。
その未来が、喉元に迫る。
ソルは近づく。
距離が消える。
逃げ場が消える。
そして囁く。
「お前の目が、今――俺を見ていなかった」
その一言が、絶望の宣告だった。
ソルは見てしまったのだ。
“他”を。
“光”を。
そしてその瞬間、彼の中で何かが壊れた。
優しさではない。
慎重さでもない。
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