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第三章 月の檻
偽りの恋人
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ルナが目を覚ました朝、世界は静かだった。
静かすぎるほどに。
音がないわけではない。
風もある。鳥も鳴く。衣擦れもある。
だがそれらすべてが――遠い。
まるで、水の底から聞いているみたいに。
天井は高かった。
白い石でできている。
光が差している。
知らない天井だ。
知らない光だ。
知らない匂いだ。
そして。
知らない“自分”だ。
「……ここは」
声が出た。
自分の声なのに、どこか他人のものみたいだった。
記憶がない。
名前も。
過去も。
祈りも。
何も。
空っぽ。
だが、恐怖はなかった。
空っぽであることを、悲しいと思う感覚すらない。
それほど綺麗に、抜け落ちていた。
「起きたか」
低い声。
振り向く。
そこにいたのは――男だった。
黒い衣。
長い影。
そして、赤い瞳。
炎の色。
その色を見た瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。
理由は分からない。
だが、痛みではない。
“なにかを思い出しかけた時の感覚”。
男は、ゆっくり近づく。
怖くはない。
逃げたいとも思わない。
ただ、視線を外せない。
引力みたいなものがある。
彼が言う。
「俺はソル」
名前。
その名前が耳に入った瞬間、胸の奥で小さな波紋が広がる。
(知っている)
そんな気がした。
だが思い出せない。
霧の向こうにある感じ。
触れそうで触れられない。
「……私は」
ルナは言いかけて止まる。
名前がない。
自分の名前が分からない。
その沈黙を、ソルは静かに受け取る。
そして言った。
「ルナだ」
優しく。
壊れ物に触れる声で。
「それがお前の名だ」
ルナは繰り返す。
「……ルナ」
音の形を確かめるように。
舌の上で転がす。
不思議と違和感がない。
まるで、昔から呼ばれていたみたいに。
ソルは満足そうに目を細める。
その表情は柔らかい。
王の顔ではない。
戦の顔でもない。
孤独を忘れた者の顔だ。
「俺たちは」
ソルが言う。
「恋人だった」
その言葉は、静かに落ちた。
命令でもなく、押しつけでもなく。
ただ、事実みたいに。
ルナは首を傾げる。
驚きはない。
疑いもない。
ただ、空白の中に一つの色が置かれる。
恋人。
その言葉の意味は知っている。
だが“感覚”はない。
懐かしさも、照れも、温度も。
何も。
ただ――
否定する理由もない。
「そう、なのですか」
静かな返事。
その言葉を聞いた瞬間。
ソルの胸の奥で、何かがほどけた。
ほどけて。
落ちて。
消えた。
――恐怖だ。
失うかもしれないという恐怖。
奪われるかもしれないという恐怖。
それが今、消えた。
ソルは、手を伸ばす。
ルナの頬に、触れる。
指先が震えている。
だが、ルナは逃げない。
避けない。
拒まない。
その事実だけで、ソルは救われる。
「……もう大丈夫だ」
ソルが言う。
誰に向けた言葉か分からない。
ルナか。
自分か。
あるいは――
世界か。
それからの日々は、穏やかだった。
少なくとも、外から見れば。
王は怒らない。
王は叫ばない。
王は焼かない。
代わりに、いつもルナの隣にいた。
朝議。
食事。
回廊。
庭。
どこでも。
まるで影みたいに。
いや違う。
影は後ろにできる。
ソルは前にいる。
常に。
ルナの視界の中に。
「疲れていないか」
「寒くないか」
「光が強くないか」
王は尋ねる。
何度も。
何度も。
何度も。
それは気遣いではない。
確認だ。
ここにいるか。
消えていないか。
離れていないか。
夜も同じだった。
ソルは静かに近づく。
触れる。
頬に。
髪に。
唇に。
触れ方は、最初の夜と同じだ。
壊れ物を扱う触れ方。
記憶を失ったルナは、その触れ方に違和感を持たない。
比較対象がないからだ。
過去がないからだ。
唇が触れる。
長く。
静かに。
ルナは目を閉じる。
拒まない。
理由は分からない。
だが、拒まなくていい気がする。
この男に触れられていると、世界の輪郭が安定する。
空白が、形を持つ。
だから、受け入れる。
それは、愛ではない。
拠り所だ。
ソルも知っている。
これは、愛ではない。
記憶の空白が作る、依存だ。
だが、それでいい。
いや。
それがいい。
愛は揺れる。
依存は離れない。
だから――
「これでいい」
彼は、心の中で呟く。
だが。
世界は残酷だ。
完全な静寂は長く続かない。
ある夕方。
庭を歩いていた時。
ルナの足が止まった。
ただ突然。
視線が一点に固定される。
庭の隅。
そこに何もない。
ただ木が生えているだけだ。
人が1人隠れられそうな、そんな、ありふれた木が。
なのに。
胸が痛む。
強く。
理由の分からない痛み。
「……どうした」
ソルが問う。
ルナは答えられない。
ただ呟く。
「……風が」
「風?」
「……懐かしい匂いが、した気がして」
その一言。
その一言だけで。
ソルの瞳の奥に、微かな影が落ちた。
風。
懐かしい匂い。
それは、ソルではない。
別の記憶。
別の場所。
別の“誰か”。
ソルは笑う。
優しく。
何も気づいていない顔で。
「気のせいだ」
そして、ルナの手を取る。
指を絡める。
逃げ場を消すみたいに。
「ここにいろ」
いつもの言葉。
祈りの形をした、鎖。
ルナは頷く。
「はい」
素直に。
疑いなく。
だが。
胸の奥の痛みだけが消えない。
名前のない痛み。
形のない記憶。
それが、静かに――
目を覚まし始めていた。
静かすぎるほどに。
音がないわけではない。
風もある。鳥も鳴く。衣擦れもある。
だがそれらすべてが――遠い。
まるで、水の底から聞いているみたいに。
天井は高かった。
白い石でできている。
光が差している。
知らない天井だ。
知らない光だ。
知らない匂いだ。
そして。
知らない“自分”だ。
「……ここは」
声が出た。
自分の声なのに、どこか他人のものみたいだった。
記憶がない。
名前も。
過去も。
祈りも。
何も。
空っぽ。
だが、恐怖はなかった。
空っぽであることを、悲しいと思う感覚すらない。
それほど綺麗に、抜け落ちていた。
「起きたか」
低い声。
振り向く。
そこにいたのは――男だった。
黒い衣。
長い影。
そして、赤い瞳。
炎の色。
その色を見た瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。
理由は分からない。
だが、痛みではない。
“なにかを思い出しかけた時の感覚”。
男は、ゆっくり近づく。
怖くはない。
逃げたいとも思わない。
ただ、視線を外せない。
引力みたいなものがある。
彼が言う。
「俺はソル」
名前。
その名前が耳に入った瞬間、胸の奥で小さな波紋が広がる。
(知っている)
そんな気がした。
だが思い出せない。
霧の向こうにある感じ。
触れそうで触れられない。
「……私は」
ルナは言いかけて止まる。
名前がない。
自分の名前が分からない。
その沈黙を、ソルは静かに受け取る。
そして言った。
「ルナだ」
優しく。
壊れ物に触れる声で。
「それがお前の名だ」
ルナは繰り返す。
「……ルナ」
音の形を確かめるように。
舌の上で転がす。
不思議と違和感がない。
まるで、昔から呼ばれていたみたいに。
ソルは満足そうに目を細める。
その表情は柔らかい。
王の顔ではない。
戦の顔でもない。
孤独を忘れた者の顔だ。
「俺たちは」
ソルが言う。
「恋人だった」
その言葉は、静かに落ちた。
命令でもなく、押しつけでもなく。
ただ、事実みたいに。
ルナは首を傾げる。
驚きはない。
疑いもない。
ただ、空白の中に一つの色が置かれる。
恋人。
その言葉の意味は知っている。
だが“感覚”はない。
懐かしさも、照れも、温度も。
何も。
ただ――
否定する理由もない。
「そう、なのですか」
静かな返事。
その言葉を聞いた瞬間。
ソルの胸の奥で、何かがほどけた。
ほどけて。
落ちて。
消えた。
――恐怖だ。
失うかもしれないという恐怖。
奪われるかもしれないという恐怖。
それが今、消えた。
ソルは、手を伸ばす。
ルナの頬に、触れる。
指先が震えている。
だが、ルナは逃げない。
避けない。
拒まない。
その事実だけで、ソルは救われる。
「……もう大丈夫だ」
ソルが言う。
誰に向けた言葉か分からない。
ルナか。
自分か。
あるいは――
世界か。
それからの日々は、穏やかだった。
少なくとも、外から見れば。
王は怒らない。
王は叫ばない。
王は焼かない。
代わりに、いつもルナの隣にいた。
朝議。
食事。
回廊。
庭。
どこでも。
まるで影みたいに。
いや違う。
影は後ろにできる。
ソルは前にいる。
常に。
ルナの視界の中に。
「疲れていないか」
「寒くないか」
「光が強くないか」
王は尋ねる。
何度も。
何度も。
何度も。
それは気遣いではない。
確認だ。
ここにいるか。
消えていないか。
離れていないか。
夜も同じだった。
ソルは静かに近づく。
触れる。
頬に。
髪に。
唇に。
触れ方は、最初の夜と同じだ。
壊れ物を扱う触れ方。
記憶を失ったルナは、その触れ方に違和感を持たない。
比較対象がないからだ。
過去がないからだ。
唇が触れる。
長く。
静かに。
ルナは目を閉じる。
拒まない。
理由は分からない。
だが、拒まなくていい気がする。
この男に触れられていると、世界の輪郭が安定する。
空白が、形を持つ。
だから、受け入れる。
それは、愛ではない。
拠り所だ。
ソルも知っている。
これは、愛ではない。
記憶の空白が作る、依存だ。
だが、それでいい。
いや。
それがいい。
愛は揺れる。
依存は離れない。
だから――
「これでいい」
彼は、心の中で呟く。
だが。
世界は残酷だ。
完全な静寂は長く続かない。
ある夕方。
庭を歩いていた時。
ルナの足が止まった。
ただ突然。
視線が一点に固定される。
庭の隅。
そこに何もない。
ただ木が生えているだけだ。
人が1人隠れられそうな、そんな、ありふれた木が。
なのに。
胸が痛む。
強く。
理由の分からない痛み。
「……どうした」
ソルが問う。
ルナは答えられない。
ただ呟く。
「……風が」
「風?」
「……懐かしい匂いが、した気がして」
その一言。
その一言だけで。
ソルの瞳の奥に、微かな影が落ちた。
風。
懐かしい匂い。
それは、ソルではない。
別の記憶。
別の場所。
別の“誰か”。
ソルは笑う。
優しく。
何も気づいていない顔で。
「気のせいだ」
そして、ルナの手を取る。
指を絡める。
逃げ場を消すみたいに。
「ここにいろ」
いつもの言葉。
祈りの形をした、鎖。
ルナは頷く。
「はい」
素直に。
疑いなく。
だが。
胸の奥の痛みだけが消えない。
名前のない痛み。
形のない記憶。
それが、静かに――
目を覚まし始めていた。
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