劇場の紫陽花

茶野森かのこ

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劇場の紫陽花 7

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「…ねぇ、本当にあなたは、」

言いかけて、佳世かよは思い止まる。彼の素性を詳しく聞き出したところで理解出来るだろうか、そもそも人間でない事や、たつみではない事はよく分かった。巽はこんなに図々しくないし、人にいちゃもんつけるような性格ではない。
佳世は、最早それが分かれば十分な気がした。素性なんか聞かないでさっさと彼を追い出し、今、目の前で起きている事は夢を見ていた事にしようと決めた。それが、心の平穏への近道だ。

「…ところで、私に何か用があるんですよね?どういったご用件ですか?」
「君、今、面倒だからと僕の正体を知ることを諦めたね」

なんでこんな所ばかり聡いんだと、佳世は内心舌打ちする。気持ちが分かるなら、巽の姿で現れた時も色々と察して欲しかった。

「…話してくれるなら聞くけど」

とにかくこの男を追い出したい。それなら、相手に合わせて話を聞く方が早いだろう。佳世は居住いを正し、巽もどきに向き直った。

「今まで、君の部屋のベランダを通り道として使わせて貰っていたからね、今後もベランダを借りる身としては自己紹介するのも当然だ。僕の名前は、ミケランシュバルツ・ハロイドカルサル・エリン…」

佳世はぽかんと口を開け、慌てて腕を突き出し男の声を遮った。

「ちょ、ちょっと待って!…もう一度言って貰える?」
「だから、ミケランシュバルツ・ハロイドカルサル…」
「名前長くない?」

佳世が思わず口を出すと、彼は眉を寄せた。

「君、人の名前にいちゃもんつける気か?失礼な奴だな」

う、と言葉に詰まる。そりゃそうだ、名前は誰にとっても人生で初めて受け取る大切な贈り物だ。

「ごめん、でも…じゃあなんて呼べば良い?」
「皆からは、ミカと呼ばれている」

そんなに省略されてしまうのか、そう思った事が顔に出ていたのか、ミカは佳世を見て肩を竦めた。

「不服だけどね。僕は、全てに意味のあるこの名前が結構気に入っているんだ」

そうだったのか、それはどんな意味があるのだろうと、新たな疑問が脳裏を掠めたが、それを尋ねてしまうと、また話が長くなりそうだ。気にはなるが、佳世は話を先に進める事にした。

「それでミカ、用件は?」
「…まだ名乗り終えていないが、まぁいい…僕はご覧の通り猫だろ?」

猫、なのだろうか。

「違うでしょ、化け猫?妖怪?」
「そんな不気味な奴らと一緒にしないでくれよ。せめて、妖精とか精霊とかさ」
「それじゃあ、余計混乱するんだけど」
「まあ、普通じゃないってことだね」
「それなら何でも同じじゃない」
「…さっきから思うんだが、君、僕に恨みでもあるの」
「恨みなんて…ただ理解しがたいだけっていうか…気に障ったならごめんなさい」
「見事に上辺だけの謝罪だね、いっそ清々しいよ」

ミカは不服そうな表情を浮かべたが、それも束の間、直ぐに表情を緩めた。

「しかしまぁ、それくらい元気があれば安心だな」

その柔らかな表情に、佳世は思わず目を瞪った。
巽と同じ顔で言われたからだろうか、だけど、何故ミカがそんな顔をするのかが分からない。まるで慈しむようなその表情に、大事にされているような気になって、反応に困ってしまう。

「君、最近歌わなくなったね」
「え?」
「よく歌っていたじゃないか、僕はあれが結構気に入っていたんだ。昼寝には最適だったから寂しいんだよ」
「え?私、歌なんて、」

言いかけて、そういえばと思い出す。まだ劇団に居た頃、団員達の間で流行った歌がある。何かあれば皆で歌う、最早劇団のテーマソングになっていた。そんな歌だったから、自分でも気づかない内に家でも口ずさんでいたのかもしれない。けれどそれは、劇団に居た頃の話だ。少なくとも五年は前の事、どうしてミカは、今頃そんな話を持ち出してきたのだろう。

悩む佳世に、ミカがその歌を口ずさんだ。柔らかな低音で紡がれたメロディーは、間違いなくあの歌だ。

「何度も聞いてたから覚えてしまったんだ。歌う君は楽しそうだった」

そうなのだろうか、自分では分からない。あの頃と今の違いなら、嫌でも気づいてしまうのに。

「夢、見ていられた頃だったから」
「今は見れないの?」
「現実を知っちゃったから。私には才能がないし」

苦笑えば、ミカは分からないな、といった具合に腕を組んだ。

「才能なんて、きっかけの一つにすぎないんじゃないか?夢を掴んだ者の中に才能に胡座をかいてきた奴なんていないだろ」
「じゃあ、私には努力が足りなかったって言いたいの?」
「だって、そうだろ?君は、ずっと今を嘆くばかりで、たったの一歩も踏み出そうとしていない」

その一言に、佳世は思わずカッとなった。図星だったからだ。

「あなたに何が分かるの、後輩にどんどん追い抜かれて、同期は手の届かないところに行っちゃうし、今更どうしろっていうの、私は諦めたの!」
「だったら、そんな傷ついたヒロインみたいな顔やめたらどうだ?悲劇のヒロインだってね、自ら動き出した者にだけ幸せが訪れるんだ、今の君に奇跡なんか舞い込みはしないよ」
「だったら何?そもそもあなたに私の将来は関係ないでしょ」
「関係ならある」
「何よ」
「昼寝が出来ない」

真顔で言われ、佳世は呆れて頭を抱えた。


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