15 / 17
版元
しおりを挟む
時は流れた。一年後の、寛政七年〔一七九五〕一二月。
年の暮れが押し迫っているのに、妙にあたたかい夜だった。蔦屋は山のような仕事を片付けて、夕暮れ時に八丁堀の居酒屋にやってきた。
「おお、蔦屋さん、意外と早かったね。先にやらせてもらってるよ」
そう言って猪口《ちょこ》を掲げたのは、又座衛門こと国学者・歌人の加藤千蔭だった。
「これで何とか年が越せるぜ。親父さん、俺にも熱いヤツをくんな」
お互い体調がすぐれぬこともあり、二人で飲むのは久し振りである。とりとめのない話をしながら、蔦屋は酔いが回って体の芯がほぐれてくるのを感じた。
「又さん、時に、あの人は今どうしているんだい?」
「あの人とは?」
「決まっているじゃねぇか。素人絵師殿のことだよ」
「ああ、斎藤さんか。そういえば、この店で蔦屋さんに斎藤さんを引き合わせようと、一芝居うったこともあったっけね。あれから、もう二年か。時の流れは速いね。もしかして、蔦屋さん、気が咎《とが》めているのかい?」
「へっ、そんなんじゃねぇよ。たった一〇ヵ月でやめちまうなんて、絵師の風上にもおけねぇと思っているぐらいさね」
又座衛門は苦笑を浮かべて、
「斎藤さんは元々、絵師の務めは非番の一年限りと決めていたからね。士分の身では、本分を尽くさなくてはならない。もし続けていて、お上にばれてしまったら、ただじゃ済まないよ。止め時だったと思うね」
蔦屋は神妙な顔つきになって、
「俺のことを何か言ってなかったかい?」
「斎藤さんが蔦屋さんのことを? ああ、『随分と世話になった』とは言っていたよ。『一年足らずのうちに一生分の絵を描いた、もう二度と描けなくとも悔いはない』そう言って笑っていたよ」
「……そうかい。笑っていたかい」
十郎兵衛に売れる絵を描かせたことに悔いはない。何とかなるのではないか、という目算が蔦屋にはあったのだ。
十郎兵衛には粗削りだが、確かに絵師としての資質があった。それこそ、歌麿を超える絵師になるかもしれない、と踏んでいたのだ。その資質を活かすことができなかったのは、己の落ち度。それだけは認めなくてはならない。
「時代が早すぎたのかもな。おっと、いけねぇ。こいつは商人《あきんど》が口にしてはならねぇ戯言《ざれごと》だ」
蔦屋が寂し気な笑みを浮かべたので、又座衛門は彼の猪口に酒を注いでやった。
「来年こそ、良い年にしたいもんだぜ」
「ああ、世間をあっと言わせておくれ」
そんな言葉を交わしてから五ヵ月後、寛政八年〔一七九六〕五月七日、蔦屋重三郎は四八歳で天に召された。死因は脚気衝心《かっけしょうしん》だった。ビタミンB1の欠乏により、心臓麻痺を起こしてしまったのだ。
今際《いまわ》の際《きわ》に「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と笑いながら言った、という話が残っているが、真実は違ったのではないか。いや、まちがいなく、「まだ終われねぇ。このままじゃ終われねぇよ」と思っていたことだろう。
それが蔦屋重三郎という男である。
年の暮れが押し迫っているのに、妙にあたたかい夜だった。蔦屋は山のような仕事を片付けて、夕暮れ時に八丁堀の居酒屋にやってきた。
「おお、蔦屋さん、意外と早かったね。先にやらせてもらってるよ」
そう言って猪口《ちょこ》を掲げたのは、又座衛門こと国学者・歌人の加藤千蔭だった。
「これで何とか年が越せるぜ。親父さん、俺にも熱いヤツをくんな」
お互い体調がすぐれぬこともあり、二人で飲むのは久し振りである。とりとめのない話をしながら、蔦屋は酔いが回って体の芯がほぐれてくるのを感じた。
「又さん、時に、あの人は今どうしているんだい?」
「あの人とは?」
「決まっているじゃねぇか。素人絵師殿のことだよ」
「ああ、斎藤さんか。そういえば、この店で蔦屋さんに斎藤さんを引き合わせようと、一芝居うったこともあったっけね。あれから、もう二年か。時の流れは速いね。もしかして、蔦屋さん、気が咎《とが》めているのかい?」
「へっ、そんなんじゃねぇよ。たった一〇ヵ月でやめちまうなんて、絵師の風上にもおけねぇと思っているぐらいさね」
又座衛門は苦笑を浮かべて、
「斎藤さんは元々、絵師の務めは非番の一年限りと決めていたからね。士分の身では、本分を尽くさなくてはならない。もし続けていて、お上にばれてしまったら、ただじゃ済まないよ。止め時だったと思うね」
蔦屋は神妙な顔つきになって、
「俺のことを何か言ってなかったかい?」
「斎藤さんが蔦屋さんのことを? ああ、『随分と世話になった』とは言っていたよ。『一年足らずのうちに一生分の絵を描いた、もう二度と描けなくとも悔いはない』そう言って笑っていたよ」
「……そうかい。笑っていたかい」
十郎兵衛に売れる絵を描かせたことに悔いはない。何とかなるのではないか、という目算が蔦屋にはあったのだ。
十郎兵衛には粗削りだが、確かに絵師としての資質があった。それこそ、歌麿を超える絵師になるかもしれない、と踏んでいたのだ。その資質を活かすことができなかったのは、己の落ち度。それだけは認めなくてはならない。
「時代が早すぎたのかもな。おっと、いけねぇ。こいつは商人《あきんど》が口にしてはならねぇ戯言《ざれごと》だ」
蔦屋が寂し気な笑みを浮かべたので、又座衛門は彼の猪口に酒を注いでやった。
「来年こそ、良い年にしたいもんだぜ」
「ああ、世間をあっと言わせておくれ」
そんな言葉を交わしてから五ヵ月後、寛政八年〔一七九六〕五月七日、蔦屋重三郎は四八歳で天に召された。死因は脚気衝心《かっけしょうしん》だった。ビタミンB1の欠乏により、心臓麻痺を起こしてしまったのだ。
今際《いまわ》の際《きわ》に「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と笑いながら言った、という話が残っているが、真実は違ったのではないか。いや、まちがいなく、「まだ終われねぇ。このままじゃ終われねぇよ」と思っていたことだろう。
それが蔦屋重三郎という男である。
1
あなたにおすすめの小説
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる