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オリジナル「初嵐」 更新停滞or打切り 2017年7月~(現段階25話)
初嵐 7
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ココナッツの香りが鼻から離れない。無意識に鼻を鳴らしている。いい匂いがする、白石はそう言った。だが白石の目には怯えの色が見えた。バレている?まさか。茅原は熱いシャワーを浴びながらタイルに手をつく。確信はなさそうに思えた。思えただけだろうか。佐渡島が香水を零したのがいけなかった?それに触れたから?
抱きたいんだろ、知ってるぜ。的場の暴走を止めたはずみで痛めた手首の詫びと言って的場は白石を差し出した。浮かべられた嫌味な笑みに身体だけならくれてやるという牽制が含まれているような気がした。そして惚れてるんだろ、とも。結局的場が思うようなところまでは発展しなかった。ただ真っ暗な自宅で掌に己の白濁を撒き散らした光景だけは鮮明に覚えていて、後のことはまるで夢。
的場に気に入られているわけでも、仲が良いという関係性でもないのは十分お互い理解した上で、いつの間にか一緒にいて、そして暗黙の了解で的場が頂点という妙なヒエラルキーが出来上がり、自身は的場を取り巻く集団のひとりとして身を置いている。
抱きたいんだろ?知ってるぜ。的場の感情の伴わない笑みに茅原はヘビに呑み込まれているカエルの映像を思い出した。長身な的場でも茅原よりわずかに背が低いがそれでも圧がある。
抱きたいんだろ?的場の声が。それから震えていた白石の声。混ざっていく。混ざって、どうしていいのか分からない。抱けなかった。抱きたいんだろ?抱きたいんだろ?抱きたいんだろ?的場の声と嫌な笑みがまとわりついて、ココナッツの香りは鼻に沁みついて、目隠しされて強張った白石の感触は指先に残ったまま。
どうだった。求められた感想に返すことはできなかった。恋人だと言った。白石が的場をそう言ったから。言えるはずも抱けるはずもない。全部流さなければ。全部を掻き消さなければ。排水口に吸い込まれていく僅かな泡とともに。人工的なココナッツの甘ったるい香りも、的場の言葉も、白石の声も。
―――抱きたい。
逆らった本音も。
見透かしたような的場の嘲笑がリアルに脳内で再現されて、茅原はタイルを殴った。
窓を雨が叩く。扇風機の風だけではまだ暑い。空調を使うタイミングを見極めるのが苦手だった。まだ大丈夫まだ大丈夫を繰り返し気付けば夏が終わっているということが今までに何度もある。今年は雨が少ないらしい。今朝見たニュースを思い出す。アンダー下着と上は素肌にシャツを着て暗い外を見つめる。伝う雨水が鳥の汚物がついた窓ガラスを洗っている。扇風機の音とそれにそよぐビニール袋の音だけがしていた空間で聞き慣れた端末の音が鳴る。
“佐渡島さん”
いつもそれから始まるメッセージ。どういうつもりなのかは不明だ。日報なのか、今日あったことが綴られて、数度に分けて端末が鳴る。ホーム画面に表示されるバッヂの数字が大きくなっていくのが気持ち悪く、受信したらすぐ開くようにしている。
“今日は雨でしたね”
今も雨降ってるんだけどな、返信することもなく、メッセージの受信が落ち着くのを待つ。
“帰りに白石先輩にお会いしました”
“佐渡島さんの言いつけを破ってまた話し掛けてしまいました”
画面を指で滑らせ、おそらく相手にも佐渡島がメッセージを読んだことを知らせる通知がいっているだろう。返信はしない。読んだだの了解だの承知だの返信する必要がない。便利な機能だ。
“白石先輩の顔の傷って殴られた痕ですよね?”
殴られた痕?今日殴られた痕なんてあった?嫌な予感がした。結局あの後、的場を探し出してワガママ混じりに一緒に帰ったのだが、その間だろうか。読むたびに増えていく文章。疑問符が付いた文末。けれど答える気にはならない。端末の画面を消してテーブルの上に置く。人を日記代わりにして楽しいのだろうか。それとも本題は別のところにあるとでもいうのか。佐渡島はまた窓の外へ視線を投げる。何も面白いことはない。雨に打たれた家々や、合羽を着て自転車を漕ぐ人々が横切るだけ。それでも目を放さずにはいられない。雨の白い線が見えては消えていく。限定的でつまらない趣味。趣味というよりは癖だろうか。
ポーン、とまたテーブルの上から呼ばれ、画面に表示された“すみません、変なことお訊きしました”というバナー。“おやすみなさい、佐渡島さん”バナーが並ぶ。返信を期待しているのだろうか。それにしては粘る。外面がいい彼は誰にでもそうしているのではないだろうか。善人も大変だな、と思う反面で、善人はそれすら大変だと思わないのかも知れない、とも思う。遺伝子、本能レベルで折り合いもつかず関わらず、混じり合わないタイプの人間だ。構う必要はない。柊が自分の中にいる容量がすでにない。端末から目を逸らして、これからのことを考える。
白石が茅原に差し出されると分かった時、茅原に香水を吹いた。香水の瓶をこぼしたのも故意。白石は気付いただろうか。…気付かせてどうする?今までまるで思い浮かばなかった疑問が湧く。的場は白石を大事にしない。おそらく誰よりも。だから。それで?白石の顔が思い浮かぶ。思い出の写真1枚1枚を捲るみたいに。的場につけられた傷も補整されて、美しい顔が笑いかけている。的場が初めて彼女を連れてきた時も、彼女は笑っていた。表面上は。綺麗な顔に傷を付けて。2人は恋人、なはずだ。2人のことだ。自分には関係ない。遠目でずっと彼女を見つめていた。そうして何年になる?的場とはそういう関係ではないけれど、男と女でずっと一緒にいれば世間はそういうような関係に見る。だから彼女の前では的場とは赤の他人。何の|
柵《しがらみ》もない。知り合いですらない関係でいられる。1人の地味な女でいられる。柊の前で、ではない。だから応えはもう決まっている。
そんな彼女のために、と思っていたのに。鼻の粘膜に沁み込んでいるのではないかとすら思うココナッツの香りにうんざりした。
抱きたいんだろ、知ってるぜ。的場の暴走を止めたはずみで痛めた手首の詫びと言って的場は白石を差し出した。浮かべられた嫌味な笑みに身体だけならくれてやるという牽制が含まれているような気がした。そして惚れてるんだろ、とも。結局的場が思うようなところまでは発展しなかった。ただ真っ暗な自宅で掌に己の白濁を撒き散らした光景だけは鮮明に覚えていて、後のことはまるで夢。
的場に気に入られているわけでも、仲が良いという関係性でもないのは十分お互い理解した上で、いつの間にか一緒にいて、そして暗黙の了解で的場が頂点という妙なヒエラルキーが出来上がり、自身は的場を取り巻く集団のひとりとして身を置いている。
抱きたいんだろ?知ってるぜ。的場の感情の伴わない笑みに茅原はヘビに呑み込まれているカエルの映像を思い出した。長身な的場でも茅原よりわずかに背が低いがそれでも圧がある。
抱きたいんだろ?的場の声が。それから震えていた白石の声。混ざっていく。混ざって、どうしていいのか分からない。抱けなかった。抱きたいんだろ?抱きたいんだろ?抱きたいんだろ?的場の声と嫌な笑みがまとわりついて、ココナッツの香りは鼻に沁みついて、目隠しされて強張った白石の感触は指先に残ったまま。
どうだった。求められた感想に返すことはできなかった。恋人だと言った。白石が的場をそう言ったから。言えるはずも抱けるはずもない。全部流さなければ。全部を掻き消さなければ。排水口に吸い込まれていく僅かな泡とともに。人工的なココナッツの甘ったるい香りも、的場の言葉も、白石の声も。
―――抱きたい。
逆らった本音も。
見透かしたような的場の嘲笑がリアルに脳内で再現されて、茅原はタイルを殴った。
窓を雨が叩く。扇風機の風だけではまだ暑い。空調を使うタイミングを見極めるのが苦手だった。まだ大丈夫まだ大丈夫を繰り返し気付けば夏が終わっているということが今までに何度もある。今年は雨が少ないらしい。今朝見たニュースを思い出す。アンダー下着と上は素肌にシャツを着て暗い外を見つめる。伝う雨水が鳥の汚物がついた窓ガラスを洗っている。扇風機の音とそれにそよぐビニール袋の音だけがしていた空間で聞き慣れた端末の音が鳴る。
“佐渡島さん”
いつもそれから始まるメッセージ。どういうつもりなのかは不明だ。日報なのか、今日あったことが綴られて、数度に分けて端末が鳴る。ホーム画面に表示されるバッヂの数字が大きくなっていくのが気持ち悪く、受信したらすぐ開くようにしている。
“今日は雨でしたね”
今も雨降ってるんだけどな、返信することもなく、メッセージの受信が落ち着くのを待つ。
“帰りに白石先輩にお会いしました”
“佐渡島さんの言いつけを破ってまた話し掛けてしまいました”
画面を指で滑らせ、おそらく相手にも佐渡島がメッセージを読んだことを知らせる通知がいっているだろう。返信はしない。読んだだの了解だの承知だの返信する必要がない。便利な機能だ。
“白石先輩の顔の傷って殴られた痕ですよね?”
殴られた痕?今日殴られた痕なんてあった?嫌な予感がした。結局あの後、的場を探し出してワガママ混じりに一緒に帰ったのだが、その間だろうか。読むたびに増えていく文章。疑問符が付いた文末。けれど答える気にはならない。端末の画面を消してテーブルの上に置く。人を日記代わりにして楽しいのだろうか。それとも本題は別のところにあるとでもいうのか。佐渡島はまた窓の外へ視線を投げる。何も面白いことはない。雨に打たれた家々や、合羽を着て自転車を漕ぐ人々が横切るだけ。それでも目を放さずにはいられない。雨の白い線が見えては消えていく。限定的でつまらない趣味。趣味というよりは癖だろうか。
ポーン、とまたテーブルの上から呼ばれ、画面に表示された“すみません、変なことお訊きしました”というバナー。“おやすみなさい、佐渡島さん”バナーが並ぶ。返信を期待しているのだろうか。それにしては粘る。外面がいい彼は誰にでもそうしているのではないだろうか。善人も大変だな、と思う反面で、善人はそれすら大変だと思わないのかも知れない、とも思う。遺伝子、本能レベルで折り合いもつかず関わらず、混じり合わないタイプの人間だ。構う必要はない。柊が自分の中にいる容量がすでにない。端末から目を逸らして、これからのことを考える。
白石が茅原に差し出されると分かった時、茅原に香水を吹いた。香水の瓶をこぼしたのも故意。白石は気付いただろうか。…気付かせてどうする?今までまるで思い浮かばなかった疑問が湧く。的場は白石を大事にしない。おそらく誰よりも。だから。それで?白石の顔が思い浮かぶ。思い出の写真1枚1枚を捲るみたいに。的場につけられた傷も補整されて、美しい顔が笑いかけている。的場が初めて彼女を連れてきた時も、彼女は笑っていた。表面上は。綺麗な顔に傷を付けて。2人は恋人、なはずだ。2人のことだ。自分には関係ない。遠目でずっと彼女を見つめていた。そうして何年になる?的場とはそういう関係ではないけれど、男と女でずっと一緒にいれば世間はそういうような関係に見る。だから彼女の前では的場とは赤の他人。何の|
柵《しがらみ》もない。知り合いですらない関係でいられる。1人の地味な女でいられる。柊の前で、ではない。だから応えはもう決まっている。
そんな彼女のために、と思っていたのに。鼻の粘膜に沁み込んでいるのではないかとすら思うココナッツの香りにうんざりした。
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