君は煙のように消えない

七星恋

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2章

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 十月の終わりに恋の神様に見捨てられ、いつの間にかもう十二月に差し掛かろうとしていた。僕たち一般の学生に師と仰ぐものはいない(自分の場合は山川先生ならそれにあたるかもしれないが)。この時期はその師の代わりに僕たちが慌ただしく動き出す。師走ならぬ自走。
 とにかく十一月の半ばから末にかけて学生、特に僕の通う学部にいる学生は大忙しだ。学生アルバイターを苦しめる社会保障制度に付随して建てられたあの壁にぶつかって一休みつきたいものにとっても、この喧騒からは逃れられない。僕たちを襲うのは中間課題だ。
 紗綾と食堂で話したあの日くらいからじわじわと課題が教授陣によって投入され出した。それの締め切りがもうそろそろやってくる。もう尻は見えている。そんな忙しい日々のお陰というのか、怪我の巧妙というのか、最近の僕は落ち着いていた。没頭とは本当に素晴らしいものだ。その没頭する先が、がんばった分だけ結果がついてくるものであればあるほど。
 そう思っていたのは一時間程前のことで、今僕は興味本位で受講している歴史学の講義を上の空で眺めている。目そのものは資料を写したスライドの方を向いているが、いったいそこにどんな歴史的史料が描かれているのか全く識別できていない。ピントが全く合わない。会わす気もない。
 講義開始前の休憩時間の事だった。僕は紗綾といっしょに居た。居たというより、たまたま学内のコンビニで遭遇した。
「おっすぅ。」
そう言って紗綾が話しかけて来なければきっと気付かなかっただろう。その右手でよく分からない飲み物を持っていた。
「また変なの買うの?」
「だって気になるんだもん。」
そう言って無邪気な笑顔を向けてきた。飲みきれなかったらあげるね。いらねえよ。僕は普通にボトル入りのホットコーヒーを買った。
 レジの会計を済ませ、二人でコンビニを出る。師走前だからとか、課題がたくさんでてるからだとか関係なく、この周辺はいつも慌ただしい。前後左右を行き来する潮の流れを二人で掻き分ける。二人とも同じ授業を取っているので向かう先は同じだ。
 コンビニの周辺を抜けるとかなり開ける。人の温もりは消え、今度は初冬の冷気が頬を撫でる。
「ほんとにこの時間混むよね。」
「みんなもうちょっとずらせないのかな。」
自分勝手な冗談を嗜みながら僕たちの進行方向を見たときに、僕は背筋が振るえるのを感じた。それは外の寒さから来るものではなかった。目の前ほんの十数メートルから彼女が一人で向かって来るのが見えたのだ。
 最後に会ったのは別れを告げられたとき。一ヶ月ぶりの再会だ。それも突然すぎる。僕はどんな顔をすればいい。いや、今どんな顔をしている。頭がパニックに陥った。それでも紗綾の足並みに合わせて、僕の歩みも進んでいる。彼女もまたこちらに向かってくる。一歩歩けば二歩分距離が縮まる。相手の表情も徐々にはっきり映るようになってくる。
 さあどんな風に声をかけるべきか。久しぶり、と上げる手は右手か、左手か。よし右手を上げよう。左側にも紗綾がいるし、当たらないように。そう決めたのはすれ違う五メートル前。しかし、四メートル前で僕は何もしないことを決心した。そのまんま僕たちの右隣を彼女が通過する。それはどんな冬の風邪よりも冷たく感じた。
 彼女は僕に何の反応も示さないかった。まさに他意なく無反応。そんな彼女の顔は両眉を寄せ、下を向いていた。いつも自分に自信をなくして泣き出しそうになるのを堪えるときの顔と同じだった。彼女が僕に気づいていたのか否かはわからない。目すら合わなかったのだから。
 そこから教室まで紗綾とどんな話をしたのか、どんな内容の授業が展開されたのかまったく覚えていない。僕の脳裏にはベットリと彼女のあの顔が塗りたくられていた。
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