婚約破棄のその場で転生前の記憶が戻り、悪役令嬢として反撃開始いたします

タマ マコト

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第6話「汚れた帳簿と、文官青年のスカウト」

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 ヴァロワ公爵邸の書斎は、朝から紙の匂いでむせ返りそうだった。

 分厚い帳簿が机の上に山になっている。
 革表紙が擦り切れ、角は丸くなり、何人もの手を渡ってきた歴史を物語っている。

 その一番上の一冊を、レティシアはぱたりと開いた。

「……今日も“数字の海”とデートね」

 軽口を叩きながらも、瞳は真剣だ。
 窓から差し込む光が、インクで書かれた数字の列を照らしている。

 公爵家が保管している、各地の貴族の納税記録。
 本来なら父や財務官が確認するべきものだが、今この部屋で一番それを読みたがっているのは、十八歳の公爵令嬢だった。

 羽ペンを指先でくるくると回しながら、レティシアはさらさらとメモを取っていく。

「この伯爵家、領地の規模のわりに税が少なすぎ。
 こっちは、去年突然“収穫量が激減した”ことになってる。
 ――でも、その隣の領地は普通に収穫が出てるのよね。不思議」

 皮肉っぽく呟きながら、帳簿の同じ年の別ページをめくる。

 前世、数字を睨んで卒論を書いていた時間は、無駄じゃなかった。
 不自然な数字は、むしろ浮き上がって見える。

「ここもアウト。ここも。ここも……」

 羽ペンが紙の上を滑るたび、小さく×印が増えていく。
 税逃れ。
 水増し報告。
 妙にタイミングのよい「飢饉」。

 ざらついたインクの線を追うたび、レティシアの笑みはどんどん冷たくなっていった。

(この数字の“差分”が、そのまま下の階層の血と汗になってる)

 重税で苦しむ農民たちの顔。
 パンを小さくせざるを得なかったピエールの姿。
 薬代を盗みで賄おうとしていたルネの手の震え。

 全部が、この帳簿と繋がっている。

 ルナルド伯爵家――納税額、周辺の同規模領地の半分。
 クロイツ侯爵家――ここ三年で急に“収穫不作”を理由に減税申請。
 どの家も、王妃派の重鎮として名前が挙がる顔ぶればかりだ。

「ほんと、“わかりやすすぎて逆に頭痛い”レベルね」

 レティシアはこめかみを指で押さえた。
 数字だけ見ていればいいなら、話は早い。
 不自然な家の名前をまとめて、シャルルや改革派に渡せばいい。

 でも、それで簡単に潰せるなら、誰かがとっくにやっている。

(問題は、“この帳簿が完全じゃない”ってこと)

 公爵家にある税記録は、“正式に提出されたものの写し”だ。
 つまり、最初から細工された数字しか載っていない。

 必要なのは、“裏側”――王宮文書局に保管されている、もっと生々しい数値や、訂正前の記録。

 そこにアクセスできる人間が、一人必要だ。
 数字に強くて、手が早くて、口が固くて。
 あとできれば、多少は良心が残っているほうがありがたい。

「……さて、誰を引っこ抜く?」

 レティシアは、机の端に置いてあった薄いファイルを開いた。

 王宮文書局所属、下級文官リスト。
 出身、学歴、勤務年数、家族構成。
 父の仕事の関係で、こういう資料も手に入る。

(前世では完全に個人情報保護法アウトなやつだけど……今はありがたく使わせてもらうわ)

 ぱらぱらとページをめくっていくと、一つの名前で指が止まった。

 ――テオ・ランベール。

 平民出身。
 奨学生として王立学院に入り、成績優秀で文官に登用された青年。
 部署は文書局。
 担当は税記録の整理と、予算案の下書き。

「ふむ……」

 レティシアは、そこに書かれている、ごく簡素なプロフィールを読みながら、記憶を手繰った。

 王宮の廊下ですれ違ったことが、一度あった気がする。
 山のような書類を抱え、眉間に皺を寄せたまま歩いていた青年。
 貴族にしては背筋が綺麗すぎて、“庶民出身”だとすぐわかる。

 そのくせ、書類の束を持つ手つきはやけに慣れていて、視線は常に“数字の向こう側”を見ている感じだった。

(平民出身で、数字に強くて、王宮文書局。
 ――はい、当たり候補)

 問題は、どう口説くかだ。

 平民出身の文官にとって、王宮での地位は貴重な“安定”だ。
 公爵令嬢の怪しい話になんて、首を突っ込みたくないのが普通。

 けれど、彼にはもう一つ、“弱点”がある。

 備考欄の端に、小さく書かれていた一行。

『母、持病あり。療養中』

 その一文だけで、レティシアの頭の中にざっくりした構図が浮かぶ。

 平民出身。
 奨学金。
 病気の母。
 安定収入を手放せない事情。

(……うん。交渉材料としては、悪くない)

 自分で自分の腹黒さに苦笑しながら、レティシアは羽ペンを置いた。

「ギルバート」

 声をかけると、扉の向こうからすぐに返事がくる。

「はい、お嬢様」
「今夜、王宮に行くわ。父には“書類の確認”とでも言っておいて。
 文書局に用事があるの」

「文書局、でございますか」

 ギルバートの声が、ほんの少しだけ慎重になる。

「ええ。……ひとり、スカウトしたい子がいるのよ」

 ◆

 王宮の文書局は、表向きは地味な部署だ。

 分厚い帳簿と公文書の山に埋もれ、ひたすら数字と文字を整理し、記録し、保管する。
 華やかな舞踏会とは無縁の、紙とインクの世界。

 けれど、レティシアから見れば――ここはある意味、王国の“内臓”だった。

 税の流れも、予算の配分も、戦費の記録も。
 すべてがここを通る。
 血液のように流れる金の巡りを、最初に知るのは、ここにいる文官たちなのだ。

 だからこそ、昼間は貴族の出入りが多すぎる。
 視察という名の監視や、顔つなぎのための訪問。

 レティシアが足を運んだのは、日が傾き始めた頃だった。
 窓から差し込む光が琥珀色に変わり、廊下を行き交う人の数も減っている時間帯。

「お嬢様、ここから先は私が先に――」

「大丈夫。襲われても、紙束で殴り返すくらいはできるわ」

 ギルバートの忠告を軽く受け流しながら、レティシアは文書局の扉をノックした。

 中から聞こえるのは、紙をめくる音と、ペンが走る乾いた音。
 扉を開けると、インクの匂いが一気に押し寄せてきた。

 棚にはぎっしりと並んだ帳簿。
 机には書類の山。
 数人の文官が、それぞれの持ち場で黙々と作業している。

 その中で――レティシアの目は、すぐに“それっぽい背中”を見つけた。

 窓際の机。
 山積みの帳簿の合間から見える、茶色がかった髪。
 少し猫背だが、視線は鋭く紙の上を追っている。

 近づく前に、一人の年配の文官が気づいて慌てて立ち上がった。

「こ、これはヴァロワ公爵令嬢……! 本日は、どのようなご用件で……」

「お邪魔してます。父の代理で、少し帳簿を拝見したくて。
 ……それと」

 レティシアは、わざとらしく部屋をぐるりと見渡した。

「“数字に強い方”と、お話がしたいのですけれど」

 その瞬間、茶色の髪の青年の肩がぴくりと動いた。

 年配の文官が頭を下げながら、ちらりと窓際に視線を送る。

「数字に……となると、そうですな。
 テオ、ちょっと来なさい」

 呼ばれた青年は、書類の束を揃えると、慌てた様子もなく立ち上がった。
 灰色の瞳。
 簡素なベスト。
 どこにでもいそうな青年なのに、その細い眼差しは、確かに“数字の裏側”を見ている気配があった。

「テオ・ランベールと申します、公爵令嬢」

 きびきびとした礼。
 貴族に対して慣れているようでいて、どこか「距離を保とう」としている慎重さが見える。

(……これだ)

 一瞬で、レティシアの中でピースがはまった。

「レティシア・ド・ヴァロワよ。
 ――少し、あなたの時間をもらえるかしら?」

「私、ですか?」

 テオはほんの少しだけ目を見開き、それからすぐに表情を消した。

「構いませんが……勤務時間中ですので、手短にお願いします」

 王宮での立場を守る意識の高さ。
 悪くない。

 レティシアは、年配の文官に向き直った。

「文書局長。
 この方を、少しの間だけお借りしてもよろしいかしら? 父への報告のことで」

 “公爵令嬢の頼み”は、簡単には断れない。
 局長は、すぐに深々と頭を下げた。

「も、もちろんでございます。テオ、失礼のないように」

「承知しました」

 ◆

 文書局の隣にある、簡素な応接室。

 テオはレティシアと向かい合って座り、緊張を隠そうともせず、背筋を伸ばした。

 ギルバートが部屋の隅に控えている。
 外には、念のため護衛が一人。

 レティシアは、机の上に一冊の帳簿を置いた。

「さっきまで、これを見てたんだけど」

 それは、ルナルド伯爵家の納税記録の写しだった。

「数字、見てみてくれる?」

「はい……」

 テオは受け取ると、慣れた手つきでページをめくり始める。
 目が行を追い、時折、眉がわずかに動く。

「……収穫量と税率の割に、納税額が少ないですね」
「そう思うわよね」

 レティシアは、ニヤリと笑った。

「なんでだと思う?」
「単純に考えれば、どこかで“抜かれている”。
 報告の段階で収穫量を偽っているか、途中で税務官が一部を懐に入れているか……あるいは、その両方か」

 迷いのない答え。

「それを裏付ける記録は、文書局にある?」

 テオの動きがぴたりと止まった。

 灰色の瞳が、ゆっくりとレティシアを見上げる。
 その視線には、警戒と驚きが入り混じっていた。

「……公爵令嬢。それは、“ある”と言ってほしい質問でしょうか」

「正直ね」

 レティシアは、楽しそうに笑った。

「でも、答えは“ある”でしょ?」

 テオは、しばらく沈黙した。
 やがて、小さく息を吐く。

「……提出前の草案や、訂正前の数字なら、一部は残っています。
 ただ、それを見せることは――」

「王宮規則違反、とか?」

 テオは頷いた。

「文書局の文官は、中立であるべきです。
 特定の貴族や派閥に肩入れするような真似は、許されません」

「理想論としては、素晴らしいわね」

 言いながらも、レティシアは机に肘を乗せた。

「でも現実には、王妃派の貴族たちが平気で数字を塗り替えさせてる。
 ――違う?」

 テオの瞳に、一瞬だけ感情の色が混じる。
 悔しさのような、諦めのような。

「わかりやすいところからいくと、クロイツ侯爵家。
 ここ三年の“収穫不作”の理由、あなたならどう評価する?」

 テオは口元を引き結んだ。

「……あまり良い状態ではないとは思います」
「オブラートが上手ね」

 レティシアは、指先で机をとんとんと叩いた。

「テオ・ランベール」
「はい」

「あなた、数字は好き?」

 唐突な質問に、テオは一瞬きょとんとした。

「……嫌いではありません」
「出世は?」
「正直に言えば、そこまで興味はありません」

 即答。
 そこに嘘は感じられなかった。

「ただ、“国の仕組み”には興味があります」

 テオは僅かに視線を上げた。

「数字の積み重ねが、この国の動きにどう繋がっているのか。
 誰がどこで何を決めて、それが税としてどう流れていくのか。
 ――そういうものを、少しでもクリアにしたくて、この仕事を選びました」

 その言葉は、レティシアの胸にすとんと落ちた。

(わかる。
 前世の私も、そうやって数字の海に潜ってた)

 どこの誰かも知らない農民の生活を、グラフの線でしか知らなかった前世の自分。
 今、その延長線上にいるこの青年は、数字の向こうの現実に、ちゃんと興味を持っている。

「ならちょうどいいわね」

 レティシアは、身を乗り出した。

「“国の仕組み”を、もう少しマシな形に変えたいと思ったことは?」

 テオの喉が、ごくりと鳴った。

「……それは、文官が口にしていいことでは」
「質問を変えるわ。

 このまま行けば、この国がどうなるか――
 あなた、薄々感じてるでしょう?」

 文書局の窓からは、王都の屋根は見えない。
 けれど、数字の流れだけで、国の歪みはわかる。

 テオは視線を落とした。

「……税の偏り。
 王妃派の浪費。
 軍備への不自然な支出。

 ここ数年の数字を追っていけば、“このままではまずい”ことくらいは、誰でもわかります」

 小さな声だったが、その中に確かな怒りがあった。

「でも、私はただの下級文官です。
 上に意見しても、“黙って数字を写していろ”と言われるだけでしょう」

「そうね。間違ってないわ」

 レティシアは、淡々と頷いた。

「じゃあ、“黙って数字を写しているだけの文官”から、もう半歩だけ踏み出してみる気はない?」

 テオの目が、ぱちりと瞬く。

「……どういう意味でしょうか」

「簡単な話よ。

 ――私の側で働きなさい、テオ・ランベール」

 空気が、きゅっと締まった。

 ギルバートが微動だにせず様子を見守る中、テオだけが露骨に動揺を見せる。

「わ、私が……公爵令嬢の、お側で……?」

 その反応に、レティシアは少しだけ笑った。

「安心して。
 “寵愛が欲しいから側付きの男になれ”なんて話じゃないわよ」

「っ……そんなこと、思ってません」

 耳がわずかに赤くなるテオ。
 純粋か。

「私が欲しいのは、“数字を読める参謀”よ。
 王宮の金の流れを把握して、“どこを切れば一番効率よく腐敗を削れるか”一緒に考えてくれる人」

 テオは、息を呑んだ。

 レティシアは、そこで一度言葉を切り、テオをじっと見つめる。

「……あなたには、お母様がいらっしゃるわね」

 テオの表情が、一瞬で凍り付いた。

「どこまで……ご存知なんですか」

「“病気だ”ということだけ。
 詳しい病名までは知らないわ。
 ただ、医者代と薬代が安くないことは想像できる」

 テオの手が、ぎゅっと膝の上で握られる。

「出世欲は薄い。
 でも、“今の俸給だけは絶対に手放したくない”という顔をしている。

 ――なら、その“絶対に手放したくない理由”が、お母様でしょう?」

 図星だった。

 テオは口を閉ざし、目を伏せた。
 悔しさと、情けなさと、露呈してしまった弱さへの戸惑いが入り混じった、複雑な沈黙。

「安心して。
 私は“弱み”を握って脅す趣味はないの」

 レティシアは、ふっと微笑みながら続けた。

「ただ、ちゃんと理解しておきたかっただけ。
 ――あなたが、何を捨てられて、何を捨てられない人なのか」

 テオは顔を上げた。
 灰色の瞳と、アメジストの瞳が交差する。

「私の側で働けば、今より収入は増やせる。
 母君の治療費くらいなら、簡単に賄えるでしょう。
 その代わり――王宮文書局の“裏側”の数字を、私に提供してほしい」

「それは……」

「ええ。
 規則違反。
 最悪、罪に問われるリスクもある」

 そこを曖昧にするつもりはなかった。

「でも、何もしなければ、この国はゆっくりと、でも確実に壊れる。
 そのとき、あなたのお母様も、あなた自身も、安全でいられる保証はどこにもない」

 テオの喉がまた鳴る。

 レティシアは、そこであえて少し淡々とした声に戻した。

「これは“取引”よ。
 あなたのスキルと、あなたの時間と、あなたの勇気。
 それと引き換えに、母君の薬代と、少しだけマシな未来を提供する」

 文官青年は、長い沈黙に沈んだ。

 部屋の時計の針の音が、やけに大きく響く。
 窓の外で、夕暮れの光が少しずつ赤くなっていく。

 やがて、テオは小さく息を吐いた。

「……お嬢様は、なぜそこまで」

「なぜ?」

「なぜ、そこまでして、この国の“数字”を変えようとなさるんですか」

 その問いは、レティシア自身にも刺さった。

 どうして――こんなにも必死になっているのか。

 前世の記憶。
 血に染まった革命の年表。
 処刑台。
 飢え。
 暴徒。

 それらを全部抱えたまま、今、この世界に立っているから。

「……“知っているから”かしらね」

 レティシアは、窓の外を見た。

「何もしないでいたら、この国がどう壊れるか。
 誰がどの順番で不幸になっていくか。
 “何も知らないまま死ぬ人”が、どれだけいるか」

 テオは、黙って聞いている。

「私は悪役令嬢よ。
 歴史書の中だったら、真っ先に断罪されて、ざまぁされて、終わってたタイプ」

 自嘲気味に笑い、続ける。

「でも、現実の私は――まだ生きてる。
 なら、“歴史の外側”に出てやろうと思ってるだけ」

 テオは、しばらくレティシアを見つめていた。
 やがて、小さく笑った。

「……変わった方だ」
「よく言われるわ」

「ですが――」

 テオは、ゆっくりと背筋を伸ばした。

「お嬢様の目は、“誰かを踏みにじって笑う”目ではありません。
 数字の向こうにいる人間を、見ようとしている目だ」

 その言葉に、レティシアは逆にたじろぎそうになった。

(……やば。
 この子、観察力もあるじゃない)

 テオは深く息を吸い込み、静かに告げる。

「条件付きで、お引き受けします、公爵令嬢」

「条件?」

「はい」

 灰色の瞳に、固い意志が宿った。

「私は、国を滅ぼすような企みには加担しません。
 たとえどれだけの報酬を積まれても、“ただ政敵を潰して自分の権力を肥やすだけ”の計画なら、即座に手を引きます」

 レティシアは、不意を突かれたように目を瞬いた。

 その条件は、あまりにもまっすぐで、愚直で、――そして、頼もしかった。

「……いいわね、それ」

 思わず、口元が緩む。

「じゃあ、私も条件をひとつ」
「なんでしょう」
「もし、私が“国を滅ぼす側”に傾き始めたら――遠慮なく止めて」

 テオの目が、驚きに見開かれる。

「それも、あなたの“仕事”として」

 数秒の沈黙。

 やがて、テオはふっと笑った。
 それは、初めて見せる、年相応の青年の笑顔だった。

「……了解しました。
 お嬢様が“本物の悪役”になりそうになったら、そのときは全力で反対します」

「頼もしいわ、私の新しい参謀さん」

 レティシアが手を差し出すと、テオは少し戸惑いながらも、その手を握り返した。
 固く、節だらけの手。
 ペンだこが、努力の跡を物語っている。

 その夜。

 文書局から戻る途中、テオはひとつの封筒をレティシアに渡した。

「お嬢様。
 “これは見ないほうがいい”と言われた帳簿が、いくつかあります」

 封筒の中には、小ぶりの鍵と、簡単なメモが入っていた。

『文書局地下保管庫 棚C-7 王妃派関連特別帳簿』

 その文字を見ただけで、レティシアの口元が冷たく吊り上がる。

「今夜は……寝られそうにないわね」

 ◆

 邸の自室の机の上。

 ランプの光の下で、レティシアは一冊の帳簿を開いた。

 表紙には、王妃の紋章。
 中には、宝飾品の購入記録――に見せかけた、異常な金額の支出。

 ジュエリーひとつに、農村ひとつ分の一年の収穫が消えている。
 舞踏会一晩で、貧民街の子どもたち百人分の薬代が飛んでいる。

 ページをめくればめくるほど、吐き気が込み上げてきた。

「……やっぱり、笑えない国だわ」

 かすれた声で呟き、レティシアはページの端に小さく印をつけた。

 この帳簿を、どこで、どう使うか。
 誰をどのタイミングで引きずり下ろせば、一番効果的か。

 数字の海の中で、ひとつの名前が浮かび上がる。

 ――王妃派の中堅貴族、モンテール伯爵。

 彼の名前の横に、異常な額の“中継支出”が何度も記されていた。

「……見つけた」

 レティシアの唇が、ゆっくりと上がる。
 それは、氷みたいに冷たい笑みだった。

「これで、一人――引きずり下ろせる」

 革命の火種は、まだ燃え盛ってはいない。
 けれど、その燃料を少しずつ削っていく作業は、もう始まっている。

 悪役令嬢の指先がめくる1ページ1ページが、
 ゆっくりと、しかし確実に、未来の炎の形を変えていくのだった。
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