婚約破棄のその場で転生前の記憶が戻り、悪役令嬢として反撃開始いたします

タマ マコト

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第7話「王妃派サロンの仮面舞踏会」

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 王城の一角――普段は王妃の私的なサロンとして使われている大広間が、その夜だけは別世界みたいに姿を変えていた。

 天井から吊るされたシャンデリアには、無数のクリスタルが絡みつき、ろうそくの光を砕いては床へと降らせている。
 壁には金糸で刺繍されたタペストリー、床には真紅の絨毯。
 そして、あちこちに配置された大きな鏡が、仮面とドレスと笑い声を何倍にも増幅していた。

 仮面舞踏会――。

 王妃派の重鎮たちが主催し、政治と娯楽と噂話が入り混じる夜。
 顔を隠す仮面は、「本音が漏れても責任を減らしてくれる便利な小道具」として、貴族たちに愛されている。

(まあ、顔隠れてても声も身長も仕草もそのままなんだけどね。
 “誰かわからないふり”っていうゲームなんだよ、これは)

 レティシア・ド・ヴァロワは、鏡の前で自分の姿を確認した。

 深い群青色のドレス。
 胸元と腰にだけ控えめに銀の刺繍が入っていて、動くたびに微かに光を返す。
 仮面は目元だけを覆うタイプで、黒と銀のレースが重なり合い、片側にだけ小さな羽根があしらわれている。

 派手すぎず、地味すぎず。
 「私は私である」と主張しながらも、「わざわざ目立とうとしている」とは思われない絶妙なライン。

「お嬢様、とてもお綺麗です……」

 クロエが、うっとりした目でレティシアを見つめている。
 その横で、ギルバートが淡々と確認する。

「仮面の紐はしっかり結んでおります。踊っている最中に外れる心配はありません」
「ありがと。途中で素顔が丸見えになったら、それこそ“悪役令嬢の醜態”って明日の朝刊行きだものね」

 冗談めかして言いながらも、胸の鼓動はいつもより少し早い。

 今日の目的は、ただ踊ることじゃない。

 ――モンテール伯爵を含む王妃派の連中から、“余計なこと”を喋らせること。

 テオが昨日渡してくれた帳簿には、とんでもない数字が並んでいた。
 王家の兵糧として買い上げた麦や干し肉が、途中で謎の「中継支出」として姿を消している。
 その名前のひとつが、モンテール伯爵。

(兵糧をどこかに横流ししてる。
 用途はまだわからないけど、“私腹を肥やすため”か、“何か別の勢力を肥えさせるため”か)

 どちらにしても、放っておけない。
 革命前夜の国で兵糧が消えるのは、火薬庫に火を投げ込むのと同じだ。

「お嬢様、本当にお一人で……?」

 クロエが不安げに袖を掴む。
 レティシアは、その手をそっと握り返した。

「ギルバートも一緒よ。
 それに、今日は“仮面”があるもの。ちょっとくらい悪役ムーブしても、言い訳ききやすいでしょう?」

 クロエはまだ納得しきれない顔をしていたが、最後には「お気をつけて」と頭を下げた。

 レティシアはマントを翻し、ギルバートとともに馬車に乗り込む。
 夜の王城へ向かう道は、いつもより静かで、街灯がやけに冷たく光っていた。



 王城の仮面舞踏会用の大広間は、普段の舞踏会よりもさらに幻想的だった。

 全員が仮面をつけている。
 羽根付き、宝石付き、顔全体を覆うもの、目元だけを隠すもの――形は様々だが、それでも誰が誰かはだいたいわかる。

 歩き方、背丈、いつも好んでいる色、連れの顔ぶれ。
 それらの情報を合わせれば、「正体当てクイズ」は簡単だった。

「……いるわね、モンテール伯爵」

 レティシアは、シャンデリアの光の隙間から、部屋の中央付近をそっと見渡した。

 金縁のマスク。
 腹の出た中年の男。
 笑い声が妙に大きく、手の動きがやたらと芝居じみている。

(あの笑い声と腹回り、隠しようがないのよね……)

 彼の周りには、王妃派の取り巻きが数人。
 みんな似たような金の飾りをつけた仮面で、酒を片手に盛大に自分たちの話だけをしている。

 レティシアが姿を現した瞬間、その輪の外側から、いくつもの視線が刺さった。

「あら……あれ、ヴァロワ嬢じゃない?」
「本当に来たんだ……てっきり、もう王妃派の場には顔を出さないかと思っていたのに」
「恥知らずもここまでくるとすごいわね。婚約破棄されたくせに」

 ひそひそ声。
 仮面の奥の目が、愉快そうに細められている。

 レティシアは、あえて堂々とした足取りで会場の中心へ向かった。

 視線を受け止めるのは、慣れている。
 昔から、「あいつは生意気だ」「生意気な女は嫌いだ」と言われ続けてきた。

 今さら、何を足されようと、ラベルはもう変わらない。

「レティシア・ド・ヴァロワ嬢。お見事ね」

 仮面越しに声をかけてきたのは、王妃付きの伯爵夫人だ。
 紅い羽根の仮面に、唇だけを真っ赤に染めている。

「何がお見事かしら?」

 レティシアが首を傾げると、夫人はくすくす笑った。

「“婚約破棄された元婚約者”として、これだけの場に出てこられるその根性よ。
 ほら、普通の令嬢なら、恥ずかしくて部屋に引きこもっている頃でしょう?」

「まあ。
 ――私、普通じゃなくてよかったわ」

 即答。

「引きこもるくらいなら、こうして美味しいワインと面白い噂話を取りに来たほうが、ずっと生産的ですもの」

 その返しに、周囲から小さな笑い声が漏れる。
 表向きは「おどけた冗談」、裏では「まだ負けを認めてない女」の扱い。

 モンテール伯爵も、こちらを見てにやりと笑った。

「おお、これはこれは。
 王太子殿下にふられたのに、まだ王宮に顔を出すとは――さすがヴァロワ嬢。面の皮が厚い」

 仮面に隠れていなくてもわかるくらいのニヤニヤ顔。
 レティシアは、ゆっくりとグラスを揺らした。

「ありがとうございます、伯爵。
 “面の皮が厚くなければ、生き残れない場所”って、ここで学んだものですから」

 さらっと返すと、伯爵は「はっ」と笑い声を上げた。

「言うじゃないか。
 だが、もう少し“ご自分の立場”をわきまえたほうがいいぞ? ヴァロワ公爵家が、いつまでも今の地位にいられるとは限らない」

「そうですわね」

 レティシアは、あっさり頷いた。

「だからこそ、“今のうちにやれること”をやっておこうと思いまして」
「やれること?」

「例えば――」

 レティシアは、グラスを傾けながら、わざと何気ないふうを装って呟いた。

「“最近、税務官たちも仕事熱心ですわね”とか」

 その一言で。

 モンテール伯爵の手が、わずかに止まった。

 ほんの一瞬。
 本当に、刹那の“間”だった。

 普通の人間なら見逃すようなその微細な変化を、レティシアは逃さない。

「税務官、だと?」

 伯爵の声がわずかに硬い。
 周囲の取り巻きが、「何の話だ?」と目を見合わせる。

 レティシアは、わざととぼけた。

「ええ。最近、王都のほうでも“麦の動き”に目を光らせているとか。
 ほら、あまりに在庫の数字が合わないと、帳簿の神様が怒りますでしょう?」

 モンテール伯爵の喉が、ごくりと鳴ったのが聞こえた。

 取り巻きの一人が、慌てて笑い声を被せる。

「はは、帳簿の神様とは面白いことを仰る」

「冗談よ。
 ――でも、“数字は嘘をつきにくい”っていうのは、本当ですわ」

 レティシアは、笑顔のまま続けた。

「人は平気で嘘をつきますけれど。
 数字は、不自然なところでちゃんと『ここに何かある』って顔を出しますもの」

 テオと一緒に夜な夜な眺めていた帳簿の列が、頭に浮かぶ。
 王妃派の名前と、怪しい支出の線。

 モンテール伯爵は、無理やり笑い声を作り出した。

「ま、まあ、ヴァロワ嬢は昔から数字がお得意だったな。
 だが、数字ばかり見ていると、人の温かさを忘れるぞ?」

「そうですね。
 ……だから、“人の冷たさ”も忘れないように気をつけていますの」

 さらっと刺す。

 伯爵は、「ふん」と鼻を鳴らしてワインをあおった。
 わかりやすすぎる。

(ビンゴ。
 税務官と兵糧の話が、ちゃんと神経に触った)

 これで確信が持てた。
 モンテール伯爵は、兵糧の横流しに関わっている。

 問題は、その兵糧がどこに消えているかだ。
 単なる私腹肥やしならまだマシだが、もし反王家勢力に流れていたら――革命の火薬庫に直通の導線だ。

「レティシア嬢」

 別の男の声がした。
 少し高めで、芝居がかった響き。

 仮面の向こうで、レティシアは目を細める。

 この声は――王妃の愛人として噂されている侯爵。
 彼もまた、帳簿上では怪しい出入りが多い人物だ。

 彼女は、あえて傲慢そうに顎を上げた。

「夜会の主役が揃ってきましたわね。
 ――“この国の金の流れを握っている皆様”が」

 わざと意味深な言い方をすると、数人の眉間に皺が寄る。
 それを見ながら、レティシアはひそやかに満足した。

(はいはい、びびって。
 “悪役令嬢が何か知ってる”って思ってくれたほうが、いろいろ楽だから)

 噂は、時に武器になる。
 「冷酷で傲慢で、何をしでかすかわからない女」という印象は、こういう場では実に便利だ。



 やがて、楽団の音が少しだけ柔らかくなった。

 舞踏会の定番――ワルツのリズム。
 仮面越しに、幾つもの手が差し出され、ドレスの裾がふわりと舞い始める。

 レティシアは、壁際でグラスを傾けながら、その光景を眺めていた。

(踊りたくないわけじゃないけど……
 ここで変に相手を選ぶと、また変な意味付けされそうなのよね)

 王太子アルマンと踊る気は、一ミリもない。
 かといって、王妃派の中堅貴族と踊れば、「まだ権力にすがっている」と言われるだろう。

 そんなことを考えていたとき。

「お一人で壁の花、というのも珍しいな」

 聞き慣れた、低い声。
 レティシアは振り向いた。

 そこに立っていたのは、黒いシンプルなマスクをつけた男。
 深い青の礼服。
 姿勢は真っ直ぐで、所作のひとつひとつが無駄なく美しい。

(……仮にこの人が誰だかわからなくても、多分一瞬で“王族だ”って察すると思う)

 シャルル・ド・リュミエール。
 氷の第二王子。

 もちろん、お互いに正体はわかっている。
 だが、形式上は“仮面をつけた匿名の紳士淑女”として、会話をしなければならない。

「まあ。
 “こんなところにいて大丈夫なんですか、殿下”と聞くべきかしら」

 レティシアが肩をすくめると、シャルルは微かに目を細めた。

「仮面の下で、普通に身分を呼ぶのはルール違反では?」
「仮面舞踏会のルールって、“破るために存在してる”みたいなところありますし」

 さらっと返すと、シャルルは小さく息を吐いた。

「……本当に、君と話していると、油断すると笑いそうになる」
「笑ってくださって構いませんわよ。
 どうせここ、誰がどんな顔して笑ってるかなんて、誰もちゃんと見てませんから」

 小さく皮肉を混ぜる。

 周囲では、仮面をつけた貴族たちが踊り、笑い、噂話をばらまいている。
 そのどれもが、この国の未来から見れば取るに足らない「今の快楽」の延長線上にある。

「一曲、どうだ?」

 シャルルが手を差し出した。

 予想していなかった誘いに、レティシアは一瞬だけ目を丸くした。

「殿下、私と踊ると“第二王子は悪役令嬢と手を組んでいる”って噂が立ちますよ?」
「もう半分くらいは立っているだろう。今さらだ」

 あっさり。

 レティシアは、少しだけ迷った。
 けれど――この場で、第二王子と公然と一曲踊ることは、「自分が完全に捨てられた駒ではない」という示威にもなる。

「……では、喜んで」

 レティシアは、その手を取った。

 手袋越しに伝わる体温。
 シャルルの手は、武人のそれではないが、無駄に柔らかくもない。

 彼に導かれ、ダンスフロアの中央へ進む。

 周囲の視線が、一瞬だけこちらに集中するのを肌で感じた。

(さあ、見てなさいな)

 レティシアは、仮面の奥で笑った。

 ワルツのリズムに合わせて、一歩、二歩、三歩。
 シャルルのリードは、驚くほど滑らかで、安心感がある。

「殿下、意外とお上手なんですのね」
「“意外と”は余計だ」

 口ではそう言いながらも、口調はどこか柔らかい。

「宮廷にいると、嫌でも踊りを覚えさせられる。
 ただ――君ほど“足を揃えるのが上手い相手”とは、あまり踊ったことがないが」

「それ、褒め言葉として受け取っておきます」

 レティシアはくすりと笑った。

「私、何かと“場を乱す女”だと思われてますから。
 “ちゃんとリズムに乗れる”って思ってくれる人がいるなら、それだけで救われますわ」

 シャルルの視線が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「君は、わざとリズムを外すときがあるだろう」
「バレてました?」

「周囲があまりに愚かだと、合わせる気が失せるのは――よくわかる」

 その言葉に、レティシアは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

 この人は、本当に見ている。
 自分の「ずらし」も、「合わせ方」も、その理由も。

「しかし」

 シャルルは、少しだけ視線を落とした。

「君のように頭の切れる女は――宮廷には向かない」

 不意の一言に、レティシアは目を瞬く。

「それ、遠回しに“早く出ていけ”って言ってません?」
「違う。
 ここでは、“余計に見える者”は真っ先に排除される」

 シャルルの声は、氷のように静かだった。

「考える女。
 数字を見る女。
 現実を直視する女。

 ――そういう者は、王妃派にとっても、兄上にとっても、都合が悪い」

 その言葉の一つ一つが、レティシアの胸に刺さる。

 前世でも、そうだった。
 数字を直視する歴史家や、警鐘を鳴らす思想家は、たいてい最初に嘲笑され、次に無視され、最後に消される。

「でも、国にとっては?」

 レティシアが問い返すと、シャルルは、ほんの少しだけ苦い笑みを浮かべた。

「――国には、必要だ」

 その一言は、胸の内側をじんわりと熱くした。

 仮面の下で、頬が少しだけ熱くなるのを自覚する。
 それをごまかすように、レティシアは視線を横に流した。

「殿下、そんなこと言ってると、“私が勘違いして惚れちゃったらどうするんです?”」
「それは困るな」

 即答。

「私は、恋愛沙汰で足元をすくわれる趣味はない。
 君も同じだろう?」

「まあ、そうですけど」

 言い切られて、レティシアは思わず笑ってしまった。

(本当にこの人、容赦ない)

 その“容赦のなさ”が、妙に心地いい。
 甘い言葉で誤魔化されるより、ずっと信頼できる。

「ただ――」

 シャルルは、ほんの少しだけ声を落とした。

「君がこの国に残る限り、私は君の存在を“利用したい”と思っている」

「こわ」

 反射的にそう返しながらも、心のどこかで、レティシアは安堵していた。

(“利用したい”って明言してくれるほうが、私は楽)

 利用し、利用される。
 その関係のほうが、よっぽど健全だ。

 ワルツが終わりに近づき、最後の一回転。
 シャルルがレティシアの腰を支え、ふわりとスカートが広がる。

 仮面越しに目が合った。

 初めて会ったときよりも、少しだけ距離が近い。
 そう感じたのは、踊っているからだけ――だと、自分に言い聞かせた。

「ありがとう、殿下」

 音楽が終わり、礼を交わして離れる。

 シャルルが一歩下がり、軽く頭を下げた。

「こちらこそ。
 ――“危険な悪役”とのダンスは、なかなか刺激的だった」

「褒め言葉としていただいておきます」

 別のペアに視線をそらしながらも、レティシアの耳には、さっきの一言が何度も反芻されていた。

『君のように頭の切れる女は、宮廷には向かない。
 だが、国には必要だ』

 宮廷に向いていない。
 けれど、国には必要。

(……じゃあ私は、どこに立てばいいの?)

 悪役令嬢として?
 改革派のブレーンとして?
 それとも――歴史の外側の「異物」として?

 答えはまだ出ない。
 ただ、胸の奥に、小さな熱とざらっとした痛みだけが残った。



 シャルルと別れたあと、レティシアは再びサロンの中を歩き始めた。

 テオから渡されたメモには、モンテール伯爵以外にも、いくつか怪しい名前が書かれている。
 今日の目標は、「彼らがどんなネットワークで繋がっているか」を掴むこと。

 仮面の奥で、レティシアの目は獲物を探す猛禽みたいに鋭くなっていた。

 ちょうどその時。

「……ヴァロワ嬢」

 背後から、粘っこい声が聞こえた。
 振り返ると、そこには金と深紅のマスクをつけた男――噂の侯爵が立っていた。

 王妃の愛人。
 兵站関係の予算にも口を出していると言われる男。

「先ほどは、お話をゆっくりできず残念でしたな」
「私も残念ですわ。
 ――“兵糧の話”は、じっくり聞いてみたかったのに」

 あえてストレートに言うと、侯爵の肩が僅かに揺れた。

「ふふ……本当に、あなたは危険な女だ。
 仮面をつけているのに、まるで裸にされているような気分になりますよ」

「褒められている気がしないんですけれど」

 侯爵は、レティシアの耳元に顔を寄せてきた。
 アルコールと香水の濃い匂い。

 ギルバートが視界の端で身構えるのがわかるが、レティシアはあえてその場に留まった。

「王妃様のサロンでは、時々“面白い話”が飛び交うのです」

 侯爵が囁く。

「例えば――“王妃派の中に、兵糧を横流しして私腹を肥やしている者がいる”とか」

 心臓が、どくんと鳴った。

 わざと、グラスを静かに揺らす。

「あら怖いお話。
 そんなことをしたら、“そのうち首が飛ぶ”って、歴史書に書いてありましたわ」

 侯爵は、くつくつと笑った。

「ええ、私もそう思います。
 ですが――“誰が”“どこへ”“どれくらい”流しているかは、なかなか表には出てこない」

 その言い回しに、レティシアは確信した。

(こいつ、知ってる)

 帳簿の線の先。
 兵糧の行き先。
 モンテール伯爵一人の仕業じゃない。

「ヴァロワ嬢ほど頭の切れる方なら、すぐに突き止めてしまうかもしれませんがね」

 挑発。
 そして、ほんの少しの期待。

 侯爵は、レティシアの耳元から離れ、仮面越しに笑った。

「――私としては、あなたのような人材が、“どちらに転ぶか”を眺めるのが楽しみでならない」

「転ばないように気をつけますわ」

 レティシアは、ふっと笑ってみせた。

 その笑みの奥に、「すでにあなたの足元、掘ってますけどね?」という含みを込めながら。

 侯爵が去っていくのを見送り、レティシアは深く息を吸った。

(兵糧横流しの噂、王妃派の中でも認識されてる。
 “誰かひとりの秘密”じゃない。ネットワークそのものが腐ってる)

 仮面舞踏会の喧騒の中で、ただひとり、違う温度で世界を見ている女がいた。

 悪役令嬢の仮面。
 その下で、レティシアは静かに笑う。

「……いいわ。
 兵糧を弄ぶ連中の首、ひとつひとつ、丁寧に絞ってあげましょう」

 シャンデリアの光が、彼女の銀の仮面に反射する。
 その瞬きは、まるで刃の光のように鋭く、冷たかった。

 この夜、王妃派サロンの仮面舞踏会で交わされた幾つもの言葉が、
 数年後――“革命の炎”の形を変える、小さな伏線として積み重なっていくことを、
 この場にいる誰も、まだ知らない。
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