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第10話「公開裁きと、最初の“失脚”」
しおりを挟む王宮の大広間は、朝からきっちりと「茶番の準備」が整えられていた。
高い天井には王家の紋章が描かれたタペストリーがずらりと並び、赤い絨毯がまっすぐ玉座へと延びている。
壁際には、これ見よがしに「忠誠」「秩序」「正義」と金糸で刺繍された旗。
――今日は、「中堅貴族による国家への忠誠再宣誓式」。
表向きは、王太子アルマン主導の「王権の権威を確認するセレモニー」だ。
実際は、もっとべたついた意図が張り付いている。
(つまり、“見せしめと吊し上げの場”ってことね)
レティシア・ド・ヴァロワは、大広間の端からその光景を眺めていた。
深いワインレッドのドレス。
装飾は控えめだが、生地の質とシルエットだけで「ヴァロワ公爵令嬢」の存在感を主張している。
視線が刺さる。
「よく来たわね、あの女」
「王太子殿下のご慈悲で招いていただいたくせに、まだ顔を出すとは」
「今日で完全に終わりね」
扇子の陰で囁かれる声。
レティシアは、耳に入れながら、あえて表情一つ変えなかった。
(うんうん、そう思っててくれたほうがやりやすい)
彼女は、今日の「台本」をだいたい把握している。
アルマンは、忠誠式の場を使って、「国庫を私物化している疑いのある令嬢」を公開で非難するつもりだ。
ロジェ商会を通じた“不可解な食糧供給”。
貧民街への匿名支援。
それを全部、「ヴァロワ嬢が勝手にやっている危険な行為」として吊るし上げる。
同時に、「王太子は国の秩序を守る側だ」とアピールする。
――そのための仕掛け人が、今日の忠誠の主役。
王妃派の中堅貴族、モンテール伯爵。
「お嬢様、本当に大丈夫なんですか……?」
少し離れた場所に控えているクロエが、そわそわと袖を握りしめている。
レティシアは、ちらりと彼女に視線を向けた。
「大丈夫じゃないわよ。どう考えてもギリギリの綱渡り」
「な、なら――」
「でも、ここで逃げたら、本当に“悪役のまま終わる”」
レティシアは、微笑んで見せた。
「せっかく用意した“舞台”だもの。
――使い倒さないと、もったいないじゃない?」
クロエの不安そうな瞳の奥に、少しだけ期待の光が混じる。
彼女自身、この数日、レティシアと一緒に動き回っていた。
兵糧が消えた先を追って。
荷車の御者に話を聞いて。
倉庫番から「とある伯爵家の紋章がついた箱」の噂を聞き出して。
その結果が、今、レティシアの手元にある。
――テオの整えた帳簿。
――クロエの集めた証言のメモ。
――ギルバートが裏で確認した“本物の動き”。
全部が、「今日を狙え」と揃っていた。
◆
やがて、開式を告げるラッパが鳴り響く。
大広間の奥の扉が開き、王太子アルマンが姿を現した。
白と金の礼服、青いマント。
「未来の王」が似合う格好だ。
その隣には、王妃。
そして少し離れた位置に、第二王子シャルルが控えている。
シャルルと目が合う。
仮面のない彼の瞳は、相変わらず静かだった。
ほんの一瞬だけ、心配と、「好きにやれ」という諦めの光が混じる。
(見てて、殿下。
“無茶”はちゃんと計算ずくでやってるって証明してみせるから)
レティシアは、内心でそう呟いた。
「これより、モンテール伯爵による国家への忠誠再宣誓を執り行う」
侍従の声が響き、モンテール伯爵が前に進み出る。
金と深緑の礼服。
丸い腹。
自信満々の笑み。
――その目が、一瞬だけレティシアを舐めるように見た。
(はいはい、“お前はここで終わりだ”って顔ね)
レティシアは、むしろその視線に背筋を伸ばした。
モンテール伯爵は、玉座の前で膝を折り、胸に手を当てて声を張る。
「モンテール伯爵家は、代々このリュミエール王国と陛下、そして王太子殿下に忠誠を尽くして参りました。
今後も変わることなく、国庫と兵糧の管理を通じて――」
(国庫と兵糧ね)とレティシアは心の中で繰り返す。
今日のメインテーマ。
宣誓が終わると、アルマンが立ち上がった。
「モンテール伯。
その忠誠、心強く思う」
聴衆から、ささやかな拍手。
「――しかし、忠誠を疑われる者もいる」
アルマンの声色がわずかに変わった。
大広間の空気が、きゅっと締まる。
「最近、国庫からの金の流れが不自然だという報告を受けている。
王の命を受け、私はそれを正す義務がある」
その言葉に合わせるように、モンテール伯爵が一歩前に出た。
「殿下のおっしゃる通りです。
――私の耳にも、“国庫の一部が、得体の知れぬ目的に使われている”との噂が届いております」
ざわ、と人々が騒めく。
王妃が、わざとらしく眉をひそめる。
「まあ、なんてこと……」
「それは真か、モンテール伯」
アルマンが促すと、伯爵はゆっくりと振り返り。
――レティシアを、真っ直ぐに指さした。
「ヴァロワ公爵令嬢、レティシア・ド・ヴァロワ殿」
空気が凍る。
数十の視線が、一斉にレティシアへ向いた。
内心、「来たわね」と呟きながら、レティシアはドレスの裾をつまんで一歩前へ出た。
「はい。
……呼ばれて飛び出てくる悪役令嬢でございます」
皮肉をまぶした一礼に、何人かの令嬢が息を呑む。
「モンテール伯。
あなたの“告発”とやら、詳しく伺いましょうか」
伯爵は、満足げに口元を吊り上げた。
「ここ数ヶ月、公爵家の金庫から不自然な支出があると聞く。
ロジェ商会を経由し、貧民街へと大量の食糧や薬品が流れている。
――それは、本来、王太子殿下の許可なく行われてはならぬ“国政への介入”ではありませんかな?」
ざわめきが広がる。
「まあ……貧民街に?」
「慈善のつもりかしら」
「勝手な真似を……」
アルマンの青い瞳が、じっとレティシアを見ている。
「レティシア。
弁明はあるか」
その声には、「ここで謝罪して、素直に頭を垂れれば、“情け”くらいはくれてやる」という響きがあった。
レティシアは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
――そして、すぐに開いた。
「弁明、ですか」
彼女は、ゆっくりと微笑んだ。
「もちろんございますわ。
殿下、そして皆様にとって、とても“聞きごたえのあるやつ”が」
モンテール伯爵の笑みが、微かに揺れる。
レティシアは、袖に仕込んでいた細い封筒を取り出した。
テオが何度も確認し、クロエとギルバートが裏付けを取った資料。
これを出すタイミングを、ずっと見計らっていた。
「まず、事実確認からさせてくださいませ」
レティシアは、淡々とした声で続けた。
「私が公爵家の財力を用い、ロジェ商会を通して、“一部の貧民街に食糧と薬品を流していた”というのは――事実ですわ」
そのあっさりした肯定に、場がざわつく。
「認めた……!」
「まさか開き直るつもり?」
アルマンの目が、驚きと怒りで揺れる。
「レティシア、お前は――」
「落ち着いてお聞きください、殿下」
レティシアは、手を軽く上げて制した。
王太子に向かってそんな仕草をする令嬢など、普通はいない。
でも今は、「普通」では何も変わらない。
「私は、国庫を“私物化”したつもりはございません。
公爵家の私財の範囲で、“飢えて死ぬ者の数を少しでも減らすための支出”を行っただけです」
王妃派のひとりが鼻で笑った。
「人聞きの良い“慈善”ですこと。
だが、勝手な支援は、民衆を扇動する危険がありますわ。
“王太子殿下ではなく、公爵令嬢が救ってくれた”と」
「そうですわね」
レティシアは、その指摘を否定しなかった。
「だからこそ、私は“匿名の善意”として動きました。
――名乗らず、ただ必要なものだけが届くように」
事実、その通りだ。
誰が助けたかはできるだけ隠し、ただ「パンが来た」「薬が届いた」という結果だけを残した。
モンテール伯爵が、声を荒げる。
「しかし、その金の一部が、“本来王家に納めるべき税”から捻出されていたとしたらどうですかな!」
それは――予定通りの台詞だった。
レティシアは、ほんの僅かだけ目を細める。
「“本来王家に納めるべき税”」
ゆっくりと繰り返す。
「いい言葉ですわ。
では、ついでに、その“本来納めるべき税”を、長年に渡って誤魔化していた方のお話も、ここで一緒にしてしまいましょうか」
ざわっ、と今度は別の質の騒めきが広がった。
モンテール伯爵の顔色が、目に見えて変わる。
「な、何を……」
「侍従」
レティシアは、玉座の下に控えていた侍従に視線を送った。
「ヴァロワ家より王太子殿下に提出するよう預けていた帳簿、今ここにお持ちいただける?」
侍従は、一瞬王太子を見る。
アルマンは、混乱しつつも「持ってこい」と顎をしゃくった。
ほどなくして、几帳面に束ねられた数冊の冊子が、レティシアの前に差し出される。
テオの丁寧な字で書かれた小さな注釈付きの写しだ。
レティシアは、それを一冊手に取り、ページを開いた。
「ここ数年のモンテール伯爵領の納税記録です。
公爵家にある写しと、文書局にある原本の写しを照合しました」
静かな声。
数字の列を、指先でなぞる。
「領地の規模、平均収穫量、他領との比較。
それらを踏まえると、伯爵領からの納税額は、明らかに不自然に少ない。
――さらに」
別の冊子をめくる。
「王家の兵站記録。
王妃様のご主催になる舞踏会や軍隊への供給として、“中継支出”という形で支払われた兵糧が、何度もモンテール伯爵家の倉庫を経由して“消えて”います」
空気が、一気に重くなった。
王妃の表情も、さすがに固まる。
「……どういうことかしら、モンテール伯爵」
冷たい声。
伯爵は、激しく首を振った。
「お、お待ちください、陛下、殿下!
その帳簿が本物だという証拠はどこに!」
「証拠?」
レティシアは、わざとゆっくりと言葉を選んだ。
「では、証言もセットで用意しておりますわ」
クロエが、一歩前に出る。
普段は控えめな侍女が、震えながらも声を張った。
「わ、わたくし、ヴァロワ家の侍女クロエと申します……!
最近、貧民街の倉庫で働く者たちから話を聞きました。
“モンテール伯爵家の紋章が押された箱”が、兵糧として運び込まれてくるはずだった品とすり替わっていた、と……!」
クロエの声は拙い。
でも、「本当に怖がっている人間の声」は、妙に真実味を帯びる。
「御者の一人は、“王都に運ぶはずだった小麦が途中で消え、代わりに安物の雑穀に入れ替わっていた”と言っていました……!」
「ば、馬鹿な!」
モンテール伯爵が怒鳴る。
「そんな下賤の者の証言など――」
「“下賤の者”の証言を切り捨てるのは簡単ですわ」
レティシアは、容赦なく言葉を重ねた。
「でも、数字はどうかしら? 伯爵」
彼女は、帳簿を高く掲げた。
「税収の減少と、兵糧の不自然な減り方。
その両方に、何度も何度も、モンテール伯爵家の名が重なっている。
――これを、“偶然”と言い張るには、少しばかり偶然が多すぎませんこと?」
静寂。
誰もが、モンテール伯爵を見ていた。
王妃派の仲間でさえ、露骨に距離を取り始める。
王妃が、ゆっくりと立ち上がった。
「モンテール伯爵」
その声は、甘さを失っていた。
「あなたは、王家に忠誠を誓い、兵糧を預かる立場にある。
そのあなたに、このような疑いが向けられた以上――王家として、“調査”を行わないわけには参りませんわね」
「王妃様! 私がそんなことをするはずが――」
「“するはずがない”では、もはや足りませんの」
王妃の瞳は冷たい。
外聞。
体面。
“忠誠式の場で汚職が暴かれかけた”という事実。
ここでモンテール伯爵を庇えば、「王妃派は腐敗を擁護している」と見なされる。
それだけは避けたい。
「王太子殿下」
王妃は、アルマンに視線を向けた。
「この件、王太子としてのご判断を」
アルマンは、明らかに戸惑っていた。
本来、この場で吊るされる予定だったのはレティシアだ。
なのに、いつの間にかモンテール伯爵が断罪台の位置に立っている。
“何がどうなった”のか、理解が追いついていない。
それでも、王太子としての顔で、口を開く。
「……モンテール伯爵」
声が少し掠れている。
「この場では、結論を出さない。
しかし、今挙げられた疑いは重大だ。
――正式に、調査対象とする」
「殿下!?」
伯爵が悲鳴のような声を上げる。
だが、もはや遅い。
近衛兵が二人、静かに近づき、伯爵の両脇に立った。
「逃げようとしたり、証拠を隠滅しようとしたりすれば――そのときは、その場で罪に問う」
アルマンの言葉は、まだどこか揺れている。
それでも、「王太子としての権限」を確かに使っていた。
誰も、拍手はしない。
ただ、空気だけがざらりと変わる。
一部の王妃派が、目に見えて青ざめていた。
(……ひとつ、崩した)
レティシアは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、心の中だけで呟いた。
モンテール伯爵は、暴れている。
「罠だ! これは罠だぞ!
ヴァロワの小娘が、数字を弄んで私を――」
「帳簿の写しは、文書局から正式な手続きを経て取り寄せましたわ」
レティシアは、静かに告げた。
「あなたが兵糧を横流ししていたかどうかは、調べればすぐにわかること。
――私が“罠”を仕掛けたというのなら、それは“数字に対する罠”ですのね」
皮肉をまとった一礼。
伯爵は、なおも叫び続けていた。
でも、その声は誰にも届いていない。
王妃は怒りを隠し、アルマンは困惑し、貴族たちは距離を取る。
シャルルだけが、レティシアを静かに見ていた。
◆
式典が事実上の中断となり、人々が三々五々大広間から離れていく。
レティシアは、少し離れた回廊で、壁にもたれかかって深く息を吐いていた。
「……疲れた」
体の芯から、どっと力が抜ける。
クロエが慌てて近づいてくる。
「お、お嬢様! 大丈夫ですか!? 顔色が……」
「平気。倒れたら負けのタイミングだったから、ギリギリまで気張ってただけ」
冗談めかして言いながらも、指先は震えている。
モンテール伯爵の顔が、目に焼き付いて離れなかった。
怒りに満ちた顔。
裏切られたと叫ぶ口。
自分の人生が崩れかけていることに、ようやく気づいた男の目。
(……私が、引き金を引いた)
たった一人の人生を、今、確かに潰した。
もちろん、彼がしてきたことは許されない。
税を誤魔化し、兵糧を抜き、飢える人々を増やしてきた。
彼の利得の裏で、何人もの子どもが空腹で眠り、何人もの病人が薬を飲めずに死んだかもしれない。
(それでも――)
人ひとりの「破滅」には、重さがある。
前世、歴史の本で読んだ「失脚」という二文字の裏に、こういう重さをちゃんと感じていただろうか。
多分、感じていなかった。
「お前は、炎を広げるのではなく、別の場所へ移した」
不意に、低い声がした。
振り向くと、シャルルがそこに立っていた。
「殿下」
「市場で起きかけた暴動の火種を、今日は――モンテール伯爵一人に集中させた。
民の怒りではなく、“貴族の腐敗”として」
シャルルの言葉は、淡々としていた。
責めるでも、褒めるでもなく。
「結果として、飢えで死ぬ者は少し減るだろう。
伯爵の倉庫から、兵糧が正しく流通するようになれば、数字上も改善される」
「“数字上も”ですか」
レティシアは、唇を噛んだ。
「……殿下、私、正しいことしました?」
自分でも情けない質問だと思った。
でも、口から出てしまったものは引っ込められない。
シャルルは、少しだけ目を見開き、それからゆっくりと近づいてきた。
「お前が今日したことは、“誰かがやらなければならなかったこと”だ」
彼は、はっきりと言った。
「モンテール伯爵は、いずれ誰かに暴かれたはずだ。
そのとき、もっと多くの兵糧が消えていたかもしれない。
もっと多くの人間が飢えていたかもしれない」
「……たった一人を犠牲にして、ですか」
「“たった一人”かどうかは、見方次第だ」
シャルルの視線が、王都のほうへ向く。
「お前のせいで救われる命もあれば、お前のせいで失われる未来もある。
そんなことは、王族も貴族も、平民も、誰だって同じだ」
レティシアは、黙ってその言葉を噛みしめる。
「私が選んだ結果が、後で歴史にどう書かれるか。
“悪役令嬢の横やりで一人の貴族が冤罪で潰された”なんて認定されたら、笑えませんわね」
「安心しろ」
シャルルの返事は、なぜか少しだけ早かった。
「テオ・ランベールがいる限り、数字はお前の味方だ。
あいつは、そういう男だ」
「あ、殿下、テオのこと、もうそんな信頼しちゃってます?」
「“君の周りには優秀な男が多くて嫉妬する”と言うと思ったか?」
さらりと返されて、レティシアは思わず吹き出した。
「……いえ、そんな少女漫画みたいな展開は、まだ期待してません」
笑いながらも、胸の重さは完全には消えない。
たった一人の失脚で、飢える民が少しでも減るなら安いもの――
そう自分に言い聞かせている。
それでも、心のどこかで震えが止まらない。
人の人生に、刃を向けてしまった。
それを“正義”の一言で片づけてしまったら、いつか本当に“悪役”になってしまいそうで怖い。
シャルルが、ふと手を伸ばした。
レティシアの手の甲に、指がそっと触れる。
「……何を」
「震えていたからだ」
それだけ。
彼はすぐに手を離した。
でも、その一瞬の温度が、レティシアの指先に焼き付いて離れなかった。
「お前が、“ただの残酷な女”になったら――そのときは、俺が止める」
シャルルは、静かに言った。
「だから、それまでは好きにやれ」
「……殿下、そういうところですよ。
人を勘違いさせるようなことをさらっと言うの」
レティシアは、わざと軽口で返した。
それでしか、自分の揺れを隠せなかった。
◆
その夜。
王城の地下の牢は、冷たく湿っていた。
鉄格子の向こう。
粗末な藁の上に、モンテール伯爵が座り込んでいる。
昼間の威勢は、もうない。
礼服は汚れ、髪は乱れ、目の下には濃い隈。
牢番が一人、無言で見張っている。
「……なあ、聞いたか」
伯爵が、にじり寄るように鉄格子に顔を寄せた。
「聞いたかよ。
あの小娘のことだ。
“悪役令嬢”だそうじゃないか」
牢番は、答えない。
ただ、冷ややかな目で伯爵を見下ろしている。
「私をこんな場所に落としたくせに――
民の前では、“匿名の善意”を気取ってパンをばらまいているらしいな」
伯爵の口元が、歪んだ笑みに引きつる。
「いいだろう。
今は私が地獄に落とされた番だ。
だったら次は――」
彼の声は、低く、粘っこく、暗い怒りに満ちていた。
「次は、お前が地獄を見る番だ、レティシア・ド・ヴァロワ」
牢番が、眉をひそめる。
「聞いているか? 悪役令嬢どの」
伯爵は、鉄格子に額を押し当てて笑った。
「私の人脈を甘く見るな。
私一人が潰れたからって、終わりだと思うな。
――この国には、“お前の失敗を待っている連中”が山ほどいる」
その呪詛のような言葉は、冷たい石壁に吸い込まれていく。
やがて、牢番が短く告げた。
「黙れ。
命が惜しいなら」
伯爵は、それでも笑い続けた。
その笑いの奥で。
崩れかけた王妃派の残党たちが、静かに新しい陰謀の種を拾い上げ始めていることを、
――レティシアはまだ知らない。
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