婚約破棄のその場で転生前の記憶が戻り、悪役令嬢として反撃開始いたします

タマ マコト

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第17話「燃え上がる都と、届いた叫び」

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 その日は、風の匂いが違っていた。

 いつもの冷たい石と煤の匂いに、焦げたパンみたいな、乾いた匂いが混じっている。
 それはやがて、焼けた布と血の匂いに変わった。

 リュミエール王都。

 石畳の上に、最初の叫び声が落ちたのは、まだ太陽が頭の上にある時間だった。



「もう限界だッ!」

 パン屋の店先で、誰かが叫んだ。

 並べられたパンは、信じられないほど小さい。
 値札だけが、去年の二倍。

「これで“家族四人ぶんだ”って? ふざけるな!」

「すまねぇんだ……小麦がもう入らねぇ。
 これ以上デカくしたら、うちが潰れる」

 店主も限界だ。
 頬はこけ、目は落ち窪んでいる。

 それでも、怒りの矛先は彼だけを素通りしない。

「俺たちにどうしろってんだよ!」
「子どもが三日もまともに食ってねぇんだぞ!」

 怒号が重なり、肩がぶつかり、誰かが看板を叩き落とした。

 石畳に、木の割れる音。
 木片が飛び散り、子どもの泣き声が上がる。

 その瞬間。

「落ち着けって! ここで暴れたってパンは増えやしねぇ!」

 群衆の後ろから飛んだ声は、よく通った。

 黒髪を後ろで結んだ青年。
 粗末なコート。
 鋭い瞳。

 ダミアンだった。

「落ち着け、って言って暴動止めるタイプじゃないでしょ、あんた」

 野次を飛ばした男に、ダミアンは笑った。

「そうだな。
 ――だから、“落ち着いて怒れ”って言い直す」

 彼は、一歩前に出た。

「おい、あんた。
 今日のパン代、去年の何倍だ?」

「……二倍だ」

「そのパンの大きさは?」

「半分だ」

「つまり、“四倍の金”を払って、前より“少ないパン”を食うってことだよな」

 周囲がどっと笑い、すぐに怒りに変わる。

「誰がその差額を食ってんだ?」

 その問いに、答えられる者はいない。

 だが、皆、心のどこかで知っている。

 王宮。
 王妃派貴族。
 兵糧を握っている連中。

 ダミアンは、群衆を見渡した。

 顔見知りの顔。
 見知らぬ顔。
 飢えた頬と、血走った目。

(もう、止まらない)

 レティシアがいなくなってから、王都は無茶苦茶にバランスを崩した。
 パンの供給は途切れ、
 燃料は高騰し、
 サロンは締め付けられ、
 怒りは行き場を失って溜まり続けている。

 その蓄積が、今、表に噴き出そうとしている。

「俺たちは、もう十分我慢した」

 ダミアンは、低く言った。

「パンがない夜を何度も越えた。
 子どもの泣き声を聞きながら寝たふりをした。

 “いつかきっと良くなる”って、誰の顔も見えない言葉を信じ続けた」

 握った拳が震える。

「なのに――王宮では、まだ舞踏会をやってる。
 まだ高いワインを飲んでる。
 まだ、飾りみたいな服を新調してる」

 誰かが、唾を吐いた。

「いいか、お前ら」

 ダミアンは、声を張り上げた。

「パンを焼いてるのは誰だ?
 家を立ててるのは誰だ?
 石畳を敷いてるのは誰だ?

 ――俺たちだ」

「俺たちだ……!」

 群衆が、呼応する。

「じゃあ、何で俺たちは、こんなちっぽけなパン一つに怯えてる?」

 空気が、ぴき、と何かを割る音を立てた気がした。

「王も、貴族も、王太子も――“要らない”」

 その言葉は、空へ投げるにはあまりに重い。

 けれど、地面から湧き上がった怒りが、それを軽々と受け止める。

「俺たちの生活を決めるのは、俺たちでいい!

 “見えない王冠”のために腹を減らすのは、もうやめだ!」

 叫びに、誰かが応えた。

 石が宙を飛ぶ。
 店の窓ガラスが割れる。

 たちまち、他の通りでも似たような光景が広がり始めた。

 どこかの武器屋から、斧や棍棒が持ち出される。
 鍛冶屋から鎚が消える。

 怒りは、もう素手では収まりきらない。



「報告!」

 王宮の廊下を、靴音が走り抜けた。

「北区市場周辺で暴動発生!
 住民が店を襲い、兵士と衝突! 負傷者多数!」

 執務室では、アルマンが机の上の書類を乱暴に掴んでいた。

「またか……!」

 思わず吐き捨てる。

 ここ数ヶ月、“小さな騒ぎ”の報告は何度もあった。
 そのたびに兵を出し、適当に鎮圧させてきた。

 だが、今日は違う。

「規模が大きすぎます!
 事前に噂が広まっていたのか、各通りから人が雪崩れ込んでいるようで――!」

「主導者は?」

「名前までは……しかし、“黒髪の青年が先頭で叫んでいる”と」

(ダミアン……)

 シャルルが横で目を細める。

 アルマンは、その名を知らなかった。

「兄上、まずは鎮静のための部隊を――」

「分かっている!」

 苛立ちが先に立つ。

(どうしてこうなった?)

 レティシアがいなくなってから、
 王都の空気は明らかに変わった。

 “謎の食糧供給”が止まり、
 「王族以外の救い」への期待を持つ者は減ったはずだった。

 なのに、その代わりに現れたのは、
 “王族への絶望”だ。

「近衛兵と王立軍を出せ」

 アルマンは、早口で命じる。

「威嚇射撃で構わん。
 “王家は見ている”と分からせれば、すぐに引き下がる」

「しかし、殿下。
 相手は飢えた民です。
 下手に威嚇すれば、逆に――」

「俺の命令だ!」

 叫んでしまった瞬間、自分の声の震えに気づく。

 恐怖。

(俺は――“民衆の怒り”が怖いのか)

 止めどころを知らない怒りの波。
 その中心に自分の顔が掲げられる光景が、嫌でも頭に浮かぶ。

 シャルルが、弟ではなく「王太子」を見る目で口を開いた。

「兄上。
 武力を出すのなら、同時に“退路”も用意すべきです。

 逃げ場のないところで威嚇すれば、
 彼らは戦うしかなくなります」

「戦うなんて愚かだ。
 兵に勝てるわけがない」

「追い詰められた者は、勝てないと分かっていても刃を向けます」

 レティシアなら、きっと同じことを言うだろう。

『逃げ場のない人間を追いつめて、“なぜ反発するんだ”は、ちょっと頭悪いわよ、殿下』

 その声が、シャルルの脳裏に蘇る。

 だが――ここでぶつかり続けることが、
 「兄弟喧嘩」では済まされなくなっているのも分かっていた。

「……兄上。
 せめて“民を守るための鎮圧”という形に――」

「俺に説教をするのか? シャルル」

 アルマンの声は、冷えていた。

「ヴァロワ嬢に毒されたお前の言葉を、
 今この場で採用しろと?」

 その一言が、空気を切り裂く。

 シャルルは、拳を握りしめた。

「…………いいえ」

 噛み殺した言葉が、喉の奥で血の味を伴う。

「……兄上のご判断に従います」

「なら、兵へ伝令だ。

 “暴徒には容赦するな。
 ただし、王宮への突入だけは絶対に許すな”」

 中途半端な命令。

 “容赦するな”と“ここだけは守れ”を並べたその指示は、
 現場では「どこまでやっていいのか」が違う形で解釈されるだろう。

 シャルルには、それが分かっていた。

(止められない……)

 王族でありながら、
 今この瞬間、彼はほとんど何もできない。

 “第二王子”の命令は、“王太子”の命令を上書きできない。

 その構造が、今ほど憎らしいと思ったことはなかった。



 王都の北区は、すでに火の匂いで満ちていた。

 パン屋が一軒、燃えている。
 燃え移った布。
 逃げ惑う人々。

 兵士たちは、楯を構え、列を作っていた。

 最初の一撃は、石だった。

 次が、棒。
 その次が、刃物。

「下がれ! これは王太子殿下の命令による鎮圧である!」

 隊長の声は、怒号にかき消される。

「俺たちを飢えさせたのは、その“殿下”だろうが!」
「だったらまず、あいつの食事を半分にしろよ!」

 誰かが叫んだ。

 兵士たちの顔にも、不安と怒りがあった。

 彼らもまた、民衆の一部だ。

 飢えた家族を抱えながら、
 「秩序のため」と言われて刃を握らされている。

 そこへ――火をまとった声が飛び込んできた。

「武器を捨てろ、兵士共!」

 ダミアンだった。

 人々の中に立ち、
 血の付いたシャツのまま、
 両手を広げて叫ぶ。

「お前らの家族も腹を空かせてるんだろ!
 殿下のために同じ民を斬って、
 お前らは誇りを持てるのか!」

 兵士たちの列が、ほんの少しだけ揺らぐ。

「こっちに来い!
 俺たちは、お前らを敵だなんて思ってない!

 敵は――“俺たちの上に乗ってる連中だ”!」

 その瞬間、誰かが石を投げた。

 兵士の兜に当たり、カンと音がして弾かれ、
 そこから一気に、空気が崩れる。

「前進!」

 隊長の叫び。

 楯が前に出て、棍棒が振り下ろされる。

 悲鳴。

 血が飛ぶ。

 ダミアンは、咄嗟に近くの男を押し倒した。

 自分の肩に、鈍い衝撃。

「ぐっ……!」

 膝をつきながら、彼は歯を食いしばる。

(ここで止まってたまるかよ)

 目の前で、女が倒れる。
 その腕の中から、子どもが引き剥がされる。

 怒りが、視界の端まで真っ赤に染め上げる。

「退くな!
 退いたら、あいつらは“やっぱり力で黙らせられる”って確信する!」

 ダミアンの叫びは、もう扇動なのか祈りなのかわからなかった。

 兵たちの棍棒は、やがて剣に変わる。

 威嚇射撃だったはずの銃声が、
 いつの間にか、人を狙って撃たれるようになる。

 最初の一発が誰かを倒した瞬間、
 「撃ってもいい」という合図が、恐怖で固まっていた兵士たちの中を走り抜けた。

 血が、石畳を濡らす。

 誰かが泣き叫ぶ。
 誰かが笑いながら突っ込んでいく。

 もはや、誰にも止められなかった。



「“王太子の命令で民衆が虐殺された”――」

 その噂が形を取るのに、半日もかからなかった。

 死者の数は、正確には誰にもわからない。

 ただ、道ばたに転がる遺体の数と、
 血の匂いと、
 泣き崩れる家族の数が、
 それを“虐殺”と呼ぶに十分だった。

 王宮の窓から見える煙。

 シャルルは、その灰色の筋を見つめていた。

 手には、報告書の束。

 そこには、“数字”としてだけ死者の数が書かれている。

「……シャルル殿下」

 テオが、恐る恐る声をかけた。

 彼もまた、現場から届いた断片的な情報をかき集めていた。

「北区だけでなく、
 噂を聞いた別の地区でも、
 “王太子の命令で民衆が殺された”と……」

 シャルルは、目を閉じた。

(これは――レティシアの言っていた“最悪のパターン”だ)

 権力が、恐怖で剣を振るう。
 民が、それを“殺された”と感じる。

 その認識が広まった瞬間、
 もう“対話”の余地はほとんどなくなる。

「……俺は、何をしている」

 呟きは、誰にも届かない。

 王族として、
 この国の未来に責任があるはずなのに。

 目の前で、
 国が、自分の体を切り刻むみたいに痛み続けているのを、
 ただ眺めているだけ。

 罪悪感が、胸を抉る。

 レティシアなら、きっとこう言う。

『殿下の罪は、“何もしなかったこと”じゃない。
 “できることを全部計算して、その中で一番マシな手を選び続けた結果、こうなってる”こと。

 それは、“一緒に背負うべき罪”ですわ』

 彼女がいない。

 その不在が、
 今まで以上に重く感じられた。



「――レティシア様に、使者を」

 言われるまでもなかった。

 シャルルは、机の引き出しから、いつもより少し厚い紙を取り出した。

 ペンを握る手が、微かに震える。

 書きたい言葉が多すぎて、
 どこから手をつければいいのかわからない。

 それでも、書かなくてはならない言葉は一つだけだった。

『王都へ戻ってきてほしい』

 それを、最初に書いた。

 インクが滲む。

 震えを誤魔化すように、一気に書き進める。

『今の王都は、
 お前が一番恐れていた形で燃え上がりつつある。

 兄上は恐怖に駆られ、
 民は絶望し、
 “王家の名のもとに殺された”という認識だけが広がっている。

 俺は、王族でありながら、
 この流れを止める術を持たない。

 それでも、
 お前のいないこの国の崩れ方を、ただ見ているだけではいられない。

 レティシア――

 どうか、戻ってきてくれ』

 最後の一文を書き終えたとき、
 ペン先が紙を突き破りそうになった。

「急ぎだ」

 シャルルは、封をしながら言った。

「一番早い馬で――あの辺境まで」

「かしこまりました」

 ギルバートが受け取り、すぐさま部屋を出ていく。

 シャルルは、一人になった部屋で、
 拳を握り、額を机につけた。

「……頼む」

 自分が王族として頼るべきではない相手に、
 それでも祈るような気持ちで。



 その頃、辺境。

 レティシアは、夜の村を歩いていた。

 頭上には、星が少ない空。
 雲の切れ間から、細い月が覗いている。

 昼間、少年が持ってきた噂が、
 まだ頭の中でざわざわと鳴っていた。

『都で暴動が起きたらしい』

 その一言。

 詳しい数字も名前も、まだ何もわからない。
 でも――彼女には、十分だった。

(あの条件で起きる暴動が、“小さいまま終わる”わけない)

 飢え。
 重税。
 王家への不信。

 そこに、武力による鎮圧が重なれば、
 炎は一気に広がる。

 この辺境には、まだ火の粉は届いていない。

 村人たちは、焚き火の周りで噂を半分冗談のように語っている。

「都会は大変だなぁ」「俺たちには関係ねぇよ」「こっちは腹減らすのに慣れてるしな」

 それを聞きながら、レティシアは静かに思っていた。

(いいや。
 この火は、必ずここにも届く)

 革命は、都だけのものじゃない。

 都が燃えれば、
 周辺から兵がかき集められる。

 税はさらに上がる。
 兵糧はさらに減る。

 “王都の火消し”のために、
 辺境の水が全部持っていかれる。

(それまでに、どこまでここを守れるか)

 焚き火の光に照らされた子どもたちの顔を見ながら、
 レティシアは歯を食いしばった。

 夜。

 領主館の自室で、彼女は机に突っ伏したまま、
 何度も何度もタイムラインを書き直していた。

 王都暴動。
 鎮圧。
 噂の拡散。
 地方への影響。

 紙の上に引いた矢印が、
 どうしても「血の色」に見えてしまう。

(本当はさ、“ここで小さな成功例作って、いつか王都に持っていく”って、のんきなこと考えてた)

 辺境のミニ国家運営。

 それは確かに楽しくて、
 やりがいがあって、
 レティシアの心を何度も救ってくれた。

 でも――。

「革命の速度、なめてた」

 自嘲気味に笑う。

 歴史は待ってくれない。

 前世の自分は、「革命前夜」を本で追いながら、
 ページをめくる速度を自分で調整できた。

 今は、現実のほうが先に進む。

 夜が、やけに長く感じられた。

 胸の中で、何度も同じ問いがループする。

(このままここにいて、
 この村だけ守るのか?

 それとも――)

 窓の外を見る。

 遠くに、王都は見えない。

 でも、
 自分の頭の中には、あの城壁も、塔も、
 血で染まり始めた石畳も、
 はっきりと浮かんでいる。

「やっぱり私は――」

 言葉は、自然と口から溢れた。

「――あの場所に戻るしかないんだろうな」

 逃げ場を与えられて、
 そこで一度息を整えて、
 その上で、もう一度戦場に戻る。

 そんな自己満足みたいな選択でも、
 今の自分には、それしか思いつかなかった。

 決意は、まだふわふわしている。

 具体的なルートも、
 王宮までの道筋も、
 全部これから考えなければならない。

 でも、言葉にしてしまったことで、
 心のどこかでスイッチが切り替わった。

 そのタイミングで――

 扉が、強くノックされた。

「お嬢様っ!」

 クロエの声。
 切羽詰まった響き。

「どうぞ」

 レティシアが返事をすると、扉が勢いよく開く。

 クロエの後ろには、見慣れない男が立っていた。

 旅塵にまみれたコート。
 肩で息をしている。

 その胸元には、羽根の紋章。

「第二王子殿下の――緊急の使者です!」

 クロエが叫ぶ。

 男は、膝をつき、
 懐から一通の封筒を取り出した。

 レティシアの目が、その封蝋に釘付けになる。

 小さな羽根の印。

 震える指で封を切る。

 中から出てきた紙には、短い文だけが記されていた。

『王都へ戻ってきてほしい』

 その文字は、いつもの整った筆致ではなかった。

 線が少し乱れ、
 ところどころインクが濃く滲んでいる。

 ――手が、震えていたのだ。

 シャルルの。

 レティシアは、紙を持つ手に力を込めた。

 胸の奥で、何かが音を立てて動き出す。

 革命の炎。
 王都の叫び。
 遠くから届いた、その震え。

「……分かりました、殿下」

 彼女は、誰に向けるともなく呟いた。

「行きます。
 もう一回、“地獄のど真ん中”まで」

 窓の外では、風が強くなっていた。

 辺境の小さな“国づくり”は、
 まだ途中だ。

 でも――物語は、再び燃え上がる都へ向けて、
 ゆっくりと舵を切り始めていた。
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