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第7話:皇帝の夜会、視線が追ってくる
しおりを挟む試練のあと、時間は意地悪なくらい何事もなかったように流れた。
吐き気は引いても、身体の奥の震えはなかなか消えない。
それでも侍女たちは淡々と動き、淡々と告げる。
「今夜は皇帝主催の夜会がございます。花嫁候補として出席を」
イリスの声は変わらない。
その変わらなさが、逆に怖い。
「……夜会って、舞踏会みたいなやつ?」
「はい。形式は近いでしょう」
近い、という言葉が胸に刺さった。
舞踏会。
婚約破棄。
笑い声。
あの瞬間の空気の冷たさが、皮膚の裏に蘇る。
リリアーナは、鏡の前で深く息を吸った。
逃げたい。
でも逃げたら、ここで“消える”側に回る。
噂話の通りになる。
「……行く」
声に出すと、自分の背中が少しだけ硬くなる。
硬くなることが、今は必要だった。
夜会用のドレスは、試練の時よりもさらに“花嫁候補”らしいものだった。
白に近い淡い色。光を受けると薄い金が混ざって見える。
胸元は控えめなのに、首筋と肩のラインがやけに強調される。
“見せるため”の衣装。
「……私、飾られてる」
「花嫁候補は飾りではありません」
イリスは否定した。
でも、その否定が逆に形式的で、リリアーナは笑ってしまいそうになった。
「じゃあ何? 武器?」
冗談のつもりで言うと、イリスは少しだけ目を伏せた。
「……その可能性もございます」
冗談が冗談でなくなる。
リリアーナは喉の奥が冷えるのを感じた。
廊下を歩く。
護衛がつく。
扉が開く。
そして、光。
夜会の広間は、玉座の間とは違って明るかった。
シャンデリアに似た巨大な魔導灯が天井からぶら下がり、淡い金の光が降り注ぐ。
音楽が流れている。弦と管の混ざった、少し異国の香りがする旋律。
香水と酒と料理の匂いが混じり合い、空気が甘く重い。
なのに、リリアーナの背中は冷たかった。
視線が、刺さる。
試練の時より露骨で、試練の時より多い。
男の視線、女の視線、好奇の視線、敵意の視線、嘲笑の視線。
そして――値踏み。
まるで自分が“商品”になったみたいな感覚に、胃がきゅっと縮む。
「花嫁候補、リリアーナ・アルフェン様のご入場です」
侍従の声が響き、広間のざわめきが一瞬だけ薄くなる。
その一瞬の静けさが、舞踏会の悪夢を呼び起こした。
壇上。
乾杯。
婚約破棄。
視線の針。
マリエッタの涙。
リリアーナは瞬きをして、呼吸を整えた。
ここは違う。
違う世界。
違う自分。
逃げない。
今日は逃げない。
彼女は背筋を伸ばし、ゆっくりと歩いた。
足音が絨毯に吸われても、心臓はうるさいくらい鳴っている。
広間の奥、玉座に近い高台に、皇帝がいた。
カイゼル・ヴァルディオス。
黒曜の髪。金の瞳。
豪奢な服装をしていても、飾りに見えない。
彼自身が武器みたいだった。
周囲の貴族がどれだけ笑っていても、彼の近くだけ空気が凍っている。
カイゼルは酒杯を傾けていた。
誰とも踊らない。
誰とも楽しそうに話さない。
ただ、そこにいるだけで場の温度を変える。
――あの人、本当に夜会が嫌いなんだ。
リリアーナは苦笑しそうになった。
嫌いなのに主催する。
主催しなければならない立場。
それだけで疲れそうだ。
紹介が終わると、リリアーナは広間の端に通された。
花嫁候補の立ち位置は、誰とも近すぎず、でも逃げられない場所。
中央に近いのに、孤立しやすい場所。
すぐに、貴族たちが寄ってくる。
酒の匂いと、上品な笑い声。
「リリアーナ様、ようこそ我が国へ」
「異世界からの花嫁とは、まさに伝説ですね」
「どんな魔力をお持ちで?」
質問の形をした刃。
笑顔の形をした毒。
リリアーナはそれを一つ一つ受け流した。
「光栄です」
「まだ何も分かりません」
「私の魔力は強くないようです」
正直に言いつつ、言い過ぎない。
嘘をつかない範囲で、相手の欲しい情報を与えない。
言葉のバランスは、息をするのと同じくらい神経を使う。
その中で、何度も背中に感じる視線があった。
重い。鋭い。
振り向かなくても分かる。
皇帝の視線。
カイゼルは酒杯を傾けたまま、こちらを見ている。
見ているというより――監視している。
その視線が、手首の紋章をひりつかせる。
助けてほしいわけじゃない。
見張られたいわけでもない。
なのに視線が追ってくる。
それが妙に腹立たしくて、妙に心臓が落ち着かなくて。
リリアーナはわざと視線を逸らした。
皇帝を意識している自分を認めたくなかった。
音楽が一曲終わり、次の曲が始まる。
踊りの時間だ。
貴族たちがペアを作って、広間の中央へ向かう。
リリアーナは立ち位置を変えなかった。
目立ちたくない。
でも、目立たないことが許されない立場でもある。
イリスが囁く。
「リリアーナ様。礼として、一度は踊りを受けるのが望ましいかと」
「……礼、ね」
礼。
この世界の礼は、いつだって他人の顔色でできている。
「誰でもいいの?」
「選べるなら、無難な方を」
無難。
安全。
でも安全の中には、いつもつまらない罠がある。
その時、男が近づいてきた。
三十前後。上質な衣装。笑顔。目の奥が笑っていない。
香水が強い。甘くて、鼻の奥が痛い。
「花嫁候補殿。今宵、私と一曲いかがでしょう」
誘いは丁寧。
でも断ったら、噂が増える。
“無礼”。
“調子に乗ってる”。
“選ばれたつもり”。
リリアーナは笑顔を作った。
作れる笑顔の中で、一番薄いもの。
「……一曲だけなら」
「光栄です」
男は手を差し出した。
リリアーナが手を乗せようとした瞬間――腕を掴まれた。
強い。
丁寧にエスコートする握り方じゃない。
逃げないように捕まえる握り方。
「っ……!」
痛みが走り、リリアーナの笑顔が一瞬だけ割れた。
男は耳元に、低い声で囁いた。
笑顔のまま、毒だけを落とす声。
「異世界の娘にしては、随分と気が強いそうですね」
「……」
「皇帝が要らないと言った女を、誰が欲しがると思います?」
言葉が、氷水みたいに胸に注ぎ込まれた。
周囲は音楽で賑やかなのに、ここだけ音が遠い。
「放っておけば、あなたはすぐ消える。だから――」
男の指が、さらに強く腕を締めた。
骨が軋むような痛み。
「せめて今夜くらい、誰かに縋ったらどうです?」
ふざけるな、と思った。
怒りが喉まで来た。
でも声が出ない。
出したら“無礼”で潰される。
舞踏会の悪夢が、また喉元に触れる。
あの時、声が出なかった自分。
また同じになるのか。
リリアーナは歯を食いしばり、男を睨んだ。
腕の痛みが涙を誘う。
でも涙は見せない。
「離して……ください」
「離す? 誰が? 誰があなたを守るんです?」
男の笑みが深くなる。
周囲の貴族は踊り始めていて、この小さな暴力に気づかない。
気づいても、見ないふりをする。
面倒だから。
その瞬間だった。
空気が、動いた。
広間の温度が一段落ちる。
音楽が止まったわけじゃないのに、耳が音を拾えなくなる。
誰かが息を呑む気配が連鎖する。
リリアーナは本能で分かった。
――皇帝が動いた。
カイゼルが、高台から一歩降りていた。
たったそれだけ。
たった一歩なのに、広間の全員の背筋が伸びる。
黒曜の髪が揺れ、金の瞳が真っ直ぐこちらを射抜く。
その目は、獣のそれだった。
獲物を見つけた目じゃない。
“許せないもの”を見つけた目。
男の腕を掴む手が、ほんの少しだけ緩んだ。
緩んだのは、緩めたからじゃない。
恐怖で力が抜けたからだ。
カイゼルの声が低く落ちる。
「その手を離せ」
たったそれだけ。
怒鳴っていない。
脅している言葉でもない。
なのに、場が凍った。
男の顔色が変わる。
さっきまで余裕の笑みを貼り付けていた口元が、ひくりと引きつる。
「へ、陛下……これは、ただ踊りの――」
「離せ」
二度目。
言葉が短くなるほど、圧が増す。
男の指が、ぱっと離れた。
まるで火傷したみたいに。
リリアーナの腕が解放され、血が戻ってくる。
じんじん痛い。
痕が残る。
触れられたところが、異様に生々しい。
男は膝を折りそうになりながら、必死に笑顔を作る。
さっきまでの毒の笑顔ではなく、媚びの笑顔。
「失礼いたしました。つい、力が――」
カイゼルは男を見ていない。
視線は、リリアーナに向いている。
リリアーナは、息が止まった。
助けられた。
皇帝に。
あの「要らない」と言った男に。
嬉しい――はずなのに。
胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
助けられたことが悔しい。
自分で跳ね返せなかったことが悔しい。
でも、助けが来たことは確かに救いで。
救いだと感じた自分が、怖い。
期待してしまう。
そうすると、また捨てられた時に死ぬ。
リリアーナは笑顔を作ろうとした。
でも、うまくできない。
「……陛下」
言葉が震える。
感謝を言うべきだ。
礼を言うべきだ。
でも、感謝の言葉は“縋り”に似ていて、喉が詰まる。
カイゼルは一瞬だけ、リリアーナの腕の痕に視線を落とした。
金の瞳が、ほんのわずかに暗くなる。
「……無様だな」
吐き捨てるように言われた。
胸が痛む。
でも、それは侮辱じゃなかった。
自分自身に言っているような、苛立ちに似ている。
「……私だって、好きで無様になってません」
思わず返すと、周囲がざわっとした。
皇帝に言い返した。
まただ。
また私はやる。
でも、止まらなかった。
カイゼルの視線がリリアーナを捉えたまま、低く言う。
「踊りは終わりだ。下がれ」
「……はい」
命令形。
優しさではない。
それでも、守られた。
リリアーナは腕を押さえながら、広間の端へ下がった。
周囲の視線がさっきより重い。
“皇帝が動いた”。
それだけで噂が生まれる。
イリスが小声で言う。
「……お怪我は」
「大丈夫。……大丈夫じゃないけど、大丈夫」
自分でも意味が分からない答えをして、リリアーナは笑いそうになった。
笑ったら泣く。
泣いたら崩れる。
だから笑わない。
夜会は続く。
音楽も続く。
貴族たちの笑い声も戻る。
でも、リリアーナの中では何かが止まったままだった。
腕の痛みが残り、胸の奥で感情が絡まり続ける。
助けられた。
悔しい。
嬉しい。
怖い。
その四つが糸みたいに絡まって、ほどけない。
夜会が終わり、部屋へ戻る。
侍女たちが黙々と髪を解き、ドレスを外す。
腕の痕に軟膏を塗る指が、やけに優しくて、逆に痛い。
「……皇帝陛下が、あなたを庇うとは」
ミアがぽつりと漏らし、イリスが鋭く睨んだ。
「口を慎みなさい」
でもその一言で、噂はもう始まっているのだと分かった。
壁の向こうで、誰かが囁く未来が見える。
夜。
ベッドに入っても眠れない。
暗闇の中で、リリアーナは腕の痕をそっと撫でた。
あの声。
「その手を離せ」。
たったそれだけで世界が凍った。
どうして。
どうして助けたの。
「要らない」って言ったのに。
もしかして、ただの気まぐれ?
皇帝の機嫌?
支配者としての体裁?
理由を探しても、答えは出ない。
答えが出ないまま、胸の奥で期待だけが小さく育ちそうになる。
それが怖い。
「……ダメ。期待しない」
呟いても、言葉は自分に効かない。
期待は意志で止められない。
リリアーナは目を閉じた。
閉じても、金の瞳が浮かぶ。
冷たい瞳。
でも、あの瞬間だけ、確かに“守る目”だった。
その矛盾が、眠りを遠ざける。
逃げないと決めた夜。
逃げない代わりに、感情が眠らせてくれない夜。
リリアーナは、暗闇の中で何度も息を整えながら、朝を待った。
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