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第8話:レオンハルトの忠告、宮廷の地雷
しおりを挟む眠れない夜は、朝になっても終わらない。
むしろ朝の方が残酷だ。眠れなかった事実が、身体の重さになって残るから。
リリアーナは鏡の前で自分の顔を見つめ、そっと指先で目元を触れた。
クマ。隠せる程度。でも、隠しても中身は隠せない。
腕の痕は薄くなっていた。
けれど触れるとまだ痛い。皮膚の下に、あの男の指の感触が残っているみたいで、気持ち悪い。
そして、もっと気持ち悪いのは――あの瞬間の皇帝の声を、何度も思い出してしまうことだった。
「その手を離せ」
たったそれだけ。
冷たい声。
なのに、胸の奥に残って離れない。
ドアが控えめに叩かれた。
「リリアーナ様。レオンハルト様がお呼びです」
イリスの声。いつも通り冷静。
“お呼び”。
花嫁候補に拒否権はない。
「……分かった」
リリアーナは髪を整え、薄い上着を羽織って部屋を出た。
廊下の空気は相変わらず冷たい。
この城は、温度だけじゃなく感情も冷やす仕組みになっている気がする。
案内されたのは、人気のない回廊だった。
窓から庭が見える。噴水が静かに水を落とし、白い花が風に揺れている。
平和そうなのに、どこか作り物みたいで怖い。
そこにレオンハルトが立っていた。
黒い鎧ではなく、簡素な軍装。剣は腰。手袋を外し、指先を組んでいる。
軍人の“休憩中”の姿に見えるのに、気を抜いている感じはまるでない。
「来たか」
「呼び出したの、あなたでしょ」
リリアーナはわざと刺のある返しをした。
昨日の夜会のことがまだ胸に残っている。
皇帝に助けられて、皇帝に突き放されて。
その矛盾を消化できないまま、ここに立っている。
レオンハルトは気にしない顔で頷いた。
「単刀直入に言う。昨夜の件――余計な目を集めた」
「……私のせいみたいに言うの、やめてくれる?」
「お前が悪いと言っているわけじゃない。だが、事実としてそうなった」
事実。
その言葉の硬さに、リリアーナは苛立つ。
事実という言葉は、いつも人を殴るために使われる。舞踏会もそうだった。
「皇帝が動いた。花嫁候補に声をかけた。――それだけで宮廷は騒ぐ」
「……声をかけたっていうか、命令しただけだけど」
「命令でも同じだ」
レオンハルトの目が、鋭くなる。
リリアーナは息を吸った。
ここは戦場だ。言葉の。
「で? 何が言いたいの」
レオンハルトは少しだけ間を置いた。
そして、冷たく言った。
「皇帝に近づくほど敵が増える。お前が傷つく」
直球。
柔らかい言い方じゃない。
脅しに聞こえるほど、断定的。
リリアーナは笑ってしまいそうになった。笑えないけど。
「私、もう傷ついてるんだけど」
「それ以上だ」
レオンハルトの声が低い。
彼は恐怖を煽っているわけじゃない。
恐怖を“先に見せておく”ことで、怪我を減らそうとしている。
そういう人間の声だ。
でもリリアーナは素直に頷けない。
素直に頷いたら、自分の意思がまた奪われる気がするから。
「じゃあどうしろって言うの。皇帝から距離を取れって? 花嫁候補なのに?」
「そうだ」
「無理でしょ」
「無理でもやれ」
冷酷。
あまりに冷酷で、リリアーナの胸に火がつく。
「あなた、私を守るふりして、結局は皇帝を守りたいだけなんじゃない?」
言ってしまった。
口から出た瞬間、後悔が遅れてくる。
でも撤回はしない。
レオンハルトの目が一瞬だけ揺れた。
怒りではない。
痛み。
心臓の奥を指で押されたような揺れ。
それでも彼は、声を変えない。
「……そうだ」
認めた。
あっさりと。
「俺は陛下の側近だ。陛下を守る。それが仕事だ」
「じゃあ私は?」
「……厄介だ」
レオンハルトの視線が、リリアーナの手首の紋章に落ちる。
薄い布越しでも、そこが熱を持つのが分かる。
「お前は神器に選ばれた。選ばれたこと自体が、政治だ。争いの種だ。
陛下が拒んでも、神殿が推しても、周りは勝手に意味を足す」
「意味を足す……?」
「“皇帝の寵愛”だとか、“新しい権力”だとか、“次の戦争の火種”だとか」
レオンハルトの言葉は具体的で、リアルで、胃に刺さる。
リリアーナは一歩後ずさりたくなった。
でも足は動かない。
「昨夜、陛下がお前を止めたのは――」
レオンハルトはそこで少しだけ言葉を切った。
言い方を選ぶ間。
その間が怖い。
「……あれは“情”ではない」
リリアーナの胸が、きゅっと縮む。
やっぱり。
期待した自分が馬鹿みたいだ。
「体裁か、支配者としての責務か、あるいは別の理由か。だが、少なくとも“甘い救い”ではない」
「分かってる」
リリアーナは即答した。
分かってる。分かってるから苦しい。
「分かってるけど、助けられたのは事実でしょ。あのままなら、私――」
「死ななかった」
レオンハルトは切った。
冷たく切った。
「だが、心は折れていたかもしれない。……だからこそ、余計に危険だ」
「なにそれ……」
「助けられた瞬間、人は縋る。縋った瞬間、相手は弱点になる」
弱点。
その単語が、リリアーナの胸の奥を抉る。
舞踏会で、エドワードに縋りたかった自分。
縋れなくて恥をかいた自分。
縋っていたら、もっとひどい目に遭っていたかもしれない自分。
「宮廷には地雷がある」
レオンハルトは窓の外の庭を見た。
花が揺れている。平和な風景。
その平和な風景を背景に、“地雷”と言うのが、やけに生々しい。
「踏んだ瞬間に爆発する。踏むまで分からない。踏んだ者が悪いことにされる。
昨夜は、陛下が地雷を踏む前に止めた。――それだけだ」
リリアーナは唇を噛んだ。
それだけ。
その言葉が、胸に砂を入れられたみたいに重い。
「私、そんなに邪魔?」
「邪魔じゃない。……危ない」
レオンハルトは少しだけ眉を寄せた。
彼の表情が崩れる瞬間は、いつも“感情を隠しきれなかった時”だ。
「お前の意思が強いのは分かった。だが、意思だけでは守れないものがある」
「守れないもの?」
「命。名誉。……心」
心。
その言葉がやけに痛い。
心はもう、あちこちにひびが入っている。
でも完全に割れてはいない。だから痛い。
リリアーナは腕を組んだ。
怒りを鎧にする。そうしないと泣きそうになる。
「じゃあ、私はどう生きればいいの。ここで、何も期待せず、何も求めず、ただ置物みたいに?」
「そうしろとは言わない」
レオンハルトは否定した。
そして、少しだけ声の温度を落とす。
「生き残れと言っている。――生き残るために、距離を取れと言っている」
リリアーナは、その言い方に引っかかった。
“生き残る”。
まるで戦争だ。
花嫁候補って、そんなに命が軽い役割なの?
「……あなた、本当に冷たいのね」
呟くと、レオンハルトは一瞬だけ目を伏せた。
「冷たくしないと、死ぬ」
短い。
でも、その短さが嘘じゃないと分かる。
リリアーナは、突然気づいた。
この男の冷たさは、自分を守るためだけじゃない。
彼自身が、そういう世界で生きてきた冷たさだ。
優しくしたくても優しくできない、という歪み。
「……私を守る気、あるの?」
問いかけると、レオンハルトは少しだけ眉を上げた。
「ある」
即答。
意外なくらい迷いがない。
「だが、優しくはできない。守り方は選ばせてもらう」
その言葉は、支配的なのに、どこか誠実だった。
リリアーナは、胸の奥の苛立ちが少しだけ形を変えるのを感じた。
反発から、警戒へ。
警戒から、理解へ。
「……私を守るために、冷たくしてるってこと?」
言葉にして確認すると、レオンハルトは少しだけ視線を逸らした。
それが答えだった。
「勘違いするな。俺は陛下のために動く」
「はいはい」
リリアーナは軽く手を振った。
でも、その軽口の裏で、心が少しだけ救われている自分がいた。
誰かが、ちゃんと現実を言ってくれる。
甘やかさずに。
それはある意味、救いだ。
沈黙が落ちる。
回廊の外で風が吹き、噴水の水が揺れる音がする。
リリアーナは息を整え、ぽつりと言った。
「……昨夜、皇帝が助けた理由。あなたは“情じゃない”って言った。
でも、情じゃないなら、何? 皇帝って、そんなに優等生なの?」
皮肉のつもりで言った。
でも質問は本気だった。
あの金の瞳の揺れが、忘れられない。
レオンハルトはしばらく黙った。
迷っている。
言うべきか、言わないべきか。
忠誠心と現実の間で、言葉が詰まっている。
「……答えられない」
「じゃあ、黙ってれば」
リリアーナが強がりで返すと、レオンハルトは深く息を吐いた。
その息は重かった。
剣を抜く前のため息みたいに。
「ひとつだけ言える」
レオンハルトは声を落とした。
周囲に聞かれないように。
それが“禁忌”に触れる気配を持っている。
「皇帝は、誰かを守れなかった過去がある」
その言葉が、空気に刺さった。
リリアーナの胸の奥にも刺さった。
「守れなかった……?」
「詳しくは言えない。だが、陛下はそれを背負っている。
だから、守るべき場面で動くことがある。動いてしまうことがある」
動いてしまう。
まるで、本人の意思とは別のところで。
「……それって、後悔?」
リリアーナが呟くと、レオンハルトは答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
リリアーナは、胸の奥の糸が少しだけほどけるのを感じた。
皇帝は怪物だ。冷酷だ。
そう決めつければ楽だった。
怖がればいい。距離を取ればいい。
でも、“守れなかった過去”があるなら。
その冷たさが、ただの悪意じゃないなら。
その目が揺れた理由があるなら。
――私は、あの人を“怪物”と決めつけ切れない。
それが怖かった。
決めつけられないほど、心が揺れる。
揺れるほど、期待が生まれる。
期待が生まれるほど、傷つく未来が近づく。
「……最悪」
リリアーナは思わず呟いた。
「何がだ」
「皇帝が、ただの悪い人じゃないかもって思っちゃった自分が」
レオンハルトは一瞬だけ目を細めた。
笑ったようにも見えたし、呆れたようにも見えた。
「だから言った。近づくほど敵が増える」
「敵って、宮廷の人たち?」
「宮廷の人間も、神殿も、反対勢力も。……そして陛下自身も」
最後の言葉が、重い。
皇帝自身が敵。
その意味が分からないのに、怖い。
リリアーナは喉を鳴らした。
それでも、逃げる言葉は出てこなかった。
「……忠告、ありがとう。たぶん」
精一杯の礼を言うと、レオンハルトはほんの少しだけ頷いた。
「礼はいらない。生き残れ。それが俺への返事だ」
「命令みたい」
「命令だ」
レオンハルトは背を向けた。
去り際に、ほんの少しだけ声を落とす。
「……昨夜の痕、見せるな。弱点になる」
「分かってる」
リリアーナが返すと、彼は振り返らずに歩き去った。
回廊に一人残され、リリアーナは窓の外を見た。
庭は美しい。
噴水は静か。
花は揺れる。
でも、その美しさの下に地雷が埋まっている。
踏んだ者が悪いことにされる地雷が。
リリアーナは自分の手首をそっと撫でた。
紋章が薄く熱い。
まるで、門の向こうから何かが呼んでいるみたいに。
皇帝は、守れなかった過去がある。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
守れなかった。
だから守ろうとする。
守ろうとするほど、遠ざける。
その矛盾の中心にいる男を、私はどう見ればいい?
怪物?
王?
それとも――ただの、傷ついた人間?
答えはまだない。
でも、決めつけられないという事実だけが、リリアーナの胸を少しだけ熱くした。
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