異世界花嫁物語〜婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜

タマ マコト

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第9話:聖壇の儀、神器が示す“心”の条件

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 宮廷の空気が冷たいのは、石造りだからじゃない。
 人間が冷たいからだ。
 そのことを、リリアーナはここ数日で嫌というほど学んだ。

 でも神殿の冷たさは、少し違う。
 刃物みたいに澄んでいて、肌を刺すのに汚れがない。
 だから余計に、嘘がつけない気がする。

「本日、聖壇の儀を行います」

 セラフィナの声は静かだった。
 花嫁用区画から神殿へ戻る道中、護衛の足音が規則正しく響く。
 リリアーナはその音に合わせて呼吸を整えた。
 夜会の余韻がまだ胸の奥で絡まっている。助けられたこと、悔しかったこと、怖かったこと。全部、ほどけないままここに持ち込んでしまっている。

「聖壇の儀って……何をするの?」

 問いかけると、セラフィナは前を見たまま答えた。

「紋章の進行を確認します。あなたが花嫁として適合しているか。神器が求める条件が満たされているか」

「条件……」

 言葉の響きだけで胃が縮む。
 条件。適合。確認。
 向こうの世界の舞踏会で、証拠もないのに“有罪”と言い切られた自分。
 その記憶が、ここでも影を落とす。

「私、また試験みたいなことするの?」

「試験ではありません。儀式です」

「それって、言い方が違うだけじゃない?」

 リリアーナが少し刺のある口調で言うと、セラフィナは一瞬だけ視線を寄越した。
 感情の揺れじゃない。観察の視線。

「言い方が違うだけ、ということもあります。ですが儀式は、あなたを落とすために行うものではない」

「じゃあ何のため?」

「……完成させるためです」

 完成。
 何が。
 “花嫁”が。
 その単語が、リリアーナの喉を締める。

 神殿の門が開く。
 白い空間が広がった。
 空気に花の香りと鉄の匂いが混じっているのは変わらない。
 それがこの世界の祈りの匂いなんだ、と少しだけ慣れてきた自分が嫌だった。

 聖壇は、白い階段の上にあった。
 円形の台座。中央に浅い皿のような窪み。
 周囲に刻まれた文字は読めないのに、見ているだけで胸がざわつく。

 セラフィナが手を上げると、神官たちが一斉に動き出した。
 白いローブが揺れ、足音はほとんどしない。
 祈りの言葉が小さく重なり、空気が振動する。

 リリアーナは台座の前に立たされた。
 逃げ場のない位置。
 でも、逃げないと決めた位置。

「リリアーナ・アルフェン」

 セラフィナが名前を呼ぶ。
 その呼び方は、宮廷で聞く“花嫁候補”より少しだけ人間的だった。

「あなたの手首を」

 リリアーナはゆっくり袖をまくった。
 淡い紋章が現れる。輪と線。門と矢印。
 見慣れてきたはずなのに、見るたびに心臓が跳ねる。
 自分の身体に、自分じゃない印が刻まれている感覚が、どうしても気持ち悪い。

 セラフィナが指先を空中に滑らせる。
 すると――光が浮かび上がった。

 神器の欠片。
 あの夜、指輪が砕けたときに残った“核”。
 透明で、淡く、冷たい光を抱えている。

 欠片がゆっくりと回転しながら、聖壇の窪みに落ちる。
 落ちる、というより吸い込まれる。
 光が聖壇の刻印をなぞり、文字が一斉に輝き始めた。

 リリアーナの手首が熱い。
 いや、熱いなんて生易しい。
 熱が皮膚の下を走り、骨に触れ、心臓に届くみたいな熱。

「……っ!」

 思わず声が漏れ、リリアーナは手首を押さえた。
 痛いのに、痛みだけじゃない。
 懐かしさにも似ている。
 門が開く前の予感。
 あの“落下する光”の前触れに似ている。

「大丈夫です。拒絶しないで」

 セラフィナの声が、いつもより少しだけ柔らかい。
 その柔らかさが逆に怖い。
 “今、大事なところです”という合図みたいで。

 リリアーナは歯を食いしばり、息を吸った。
 拒絶しない。拒絶しない。
 言い聞かせる。

 神官たちの祈りが強くなる。
 空気が張り詰め、神殿そのものが一つの心臓みたいに脈打つ。
 聖壇の中心の欠片が、さらに眩しく光る。

 そして――セラフィナが淡々と告げた。

「花嫁は契約ではありません」

 リリアーナは目を瞬いた。

「……契約じゃない?」

「はい。政治的な取引でも、形式でも成立しない」

 セラフィナは続ける。
 言葉を選ぶのではなく、真理を読み上げるみたいに。

「心から“皇帝を選ぶ”ことで、初めて完成します」

 ――心から。
 ――皇帝を選ぶ。

 リリアーナの頭の中が真っ白になった。

「……え、待って。無理でしょ」

 声が裏返った。
 今までの試練は、礼儀とか教養とか、努力でどうにかなる余地があった。
 でも“心から選ぶ”って何?
 心って、テストできるものじゃない。

「私、皇帝のこと何も知らないのに」

「知らない状態で完成することは、ほぼありません」

 セラフィナは平然と言う。

「じゃあ……完成しないってこと?」

「可能性はあります」

 可能性。
 セラフィナの口から出る“可能性”は、ほぼ宣告に近い響きがある。

 リリアーナは息を吸った。
 胸が苦しい。
 助けられた夜会の記憶が、勝手に浮かぶ。
 あの低い声。
 あの一言。
 “守る目”のように見えた金の瞳。

 心が、勝手に反応してしまう。
 その事実が怖い。

「……心から選ぶって、好きになるってこと?」

 リリアーナが絞り出すと、セラフィナは首を横に振らなかった。
 でも肯定もしない。
 曖昧な沈黙。

「恋愛感情と一致することは多い。ですが、それだけではない」

「じゃあ何……運命とか?」

「運命という言葉で片付けると、あなたは逃げられます」

 セラフィナの目が、少しだけ鋭くなる。

「逃げないでください。これはあなた自身の意思の問題です」

 意思。
 またその言葉だ。
 この世界は、妙に“意思”を重く扱う。
 でも扱い方が重すぎて、逆に押し潰されそうになる。

「……私、どうしたらいいの」

 リリアーナの声が小さくなる。
 怖い。
 だって、向こうの世界で婚約を破棄されたばかりの自分が、誰かを心から選ぶ?
 そんな余裕、あるわけがない。
 心はまだ血を流しているのに。

 セラフィナは答えず、聖壇の光を見つめた。
 神官たちの祈りが一段深くなる。
 光が脈打つ。
 リリアーナの手首がさらに熱くなる。

 そのとき、神殿の扉の方から足音がした。

 重い。
 でも乱暴ではない。
 足音そのものが命令みたいに響く。

 空気が一段冷える。
 神官たちの祈りが、一瞬だけ揺れた。

 リリアーナは振り向いた。

 黒曜の髪。金の瞳。
 カイゼル・ヴァルディオスが、神殿の白の中に立っていた。

 彼がここにいること自体が異物だった。
 白い空間が、彼のせいで影を濃くする。
 彼の周りだけ、空気が重い。

「……陛下」

 セラフィナが膝をつく。神官たちも一斉に跪く。
 リリアーナは反射で頭を下げそうになって――止めた。
 跪きたくない。
 でも無礼にはなりたくない。
 結局、ぎこちなく礼をするだけに留めた。

 カイゼルは、セラフィナを見ても、神官たちを見てもいない。
 視線は一直線に、リリアーナの手首に向けられていた。

 紋章が、呼応するように光を強める。
 熱が増す。
 リリアーナは息を呑んだ。

「……くだらない」

 カイゼルが吐き捨てる。

「こんなものに、人の人生を縛るな」

 言葉は冷たい。
 でも、その冷たさの下に、妙な焦りが混じっている気がした。
 リリアーナはそれを探るように、彼の手元を見た。

 指先が、微かに震えている。

 ほんの少し。
 呼吸の揺れにも紛れる程度。
 でも確かに震えていた。

 ――怖いの?
 この人が、何を恐れてるの?

 リリアーナの背中に冷たい汗が滲む。
 皇帝が恐れるものがあるなら、それはたぶん、こちらの想像よりずっと危険だ。

 セラフィナが淡々と言う。

「陛下。儀は進行中です。神器が求める条件は――」

「心だろう」

 カイゼルが遮った。
 その声が、神殿の壁にぶつかって低く反響する。

「心から選べ? 笑わせる。そんなもの、測れるか」

「測れます」

 セラフィナは即答した。
 神官の声が強い。
 皇帝にも怯まない。
 神殿の立場の強さが、ここで露骨に見える。

「神器は心を読む。嘘も、逃げも、誤魔化しも」

「……」

 カイゼルの金の瞳が細くなる。
 その瞬間、指先の震えがほんの少しだけ強くなった気がした。
 リリアーナは見逃さない。

 この人は怒っている。
 だけど怒りの根っこは、恐れだ。

「心を読む? だから厄介なんだ」

 カイゼルは吐き捨てるように言い、視線をリリアーナに向けた。

「お前」

 呼ばれただけで、胸が跳ねる。
 悔しいのに、身体が反応してしまう。

「お前は、これを望んでいないと言ったな」

「……言いました」

「なら拒め」

「拒んだら世界が歪むって聞きました」

 リリアーナが言うと、カイゼルの眉が僅かに動いた。
 セラフィナが説明したことが、皇帝の耳に入っていないわけがない。
 でも皇帝自身が“その理屈”を嫌っている。

「歪む、歪むと脅して、人を縛る。それが神殿のやり方か」

「脅しではありません。現実です」

 セラフィナの返しが、氷みたいに硬い。

 リリアーナは二人の会話の間に立ち尽くした。
 皇帝と神殿。
 世界の権力と、世界の理。
 その間に自分が挟まっている。

 心が追いつかない。
 手首の紋章が熱い。
 熱が胸まで上がり、息が苦しくなる。

「……ねえ」

 リリアーナは思わず口を挟んだ。
 神官たちの祈りが一瞬だけ揺れる。
 皇帝と神殿の会話に割り込むなんて、常識ではありえない。
 でも、今のリリアーナは“常識”に守られていない。

「私、聞きたいことがある」

 カイゼルの視線が冷たく刺さる。

「許可はしていない」

「許可がないと、私はずっと何も分からないままです」

 言い返すと、カイゼルの金の瞳が一瞬だけ揺れた。
 あの揺れ。
 夜会の時と同じ。
 怒りじゃない、迷いの揺れ。

 リリアーナは続けた。

「心から選べって言うなら、私はまず知りたい。
 あなたは、何をそんなに恐れてるの?」

 言った瞬間、空気が止まった。
 神官たちの祈りの声が、ほんの少しだけ薄くなる。
 セラフィナの目が細くなる。
 そして――カイゼルの指先の震えが、止まった。

 止まった代わりに、金の瞳が冷えた。
 氷の底みたいに冷えた。

「……くだらない」

 吐き捨てる。
 でもそれは質問への答えじゃない。

「恐れなどない。あるのは、面倒だけだ」

 嘘だ、とリリアーナは思った。
 嘘だと分かる嘘。
 でも、嘘だと言って踏み込んだら、ここで斬られる。
 彼の拒絶は、扉のように固い。

 セラフィナが静かに言った。

「陛下。ここはあなたの城ではありません。儀は続けます」

「勝手にしろ」

 カイゼルはそう言って、視線を逸らした。
 逸らしたのに、彼の気配は残っている。
 見ていないふりをして、見ている気配。

 聖壇の光がさらに強くなる。
 神器の欠片が、まるで脈打つ心臓みたいに眩しくなる。
 リリアーナの手首が燃えるように熱い。
 痛みが涙を誘う。
 でも涙を流したら、ここで“心”を測られる気がして怖い。

「リリアーナ」

 セラフィナが呼ぶ。

「今、あなたが感じているものを否定しないでください」

「感じてるもの……?」

「恐れ。怒り。戸惑い。矛盾。――どれも心です」

 セラフィナの言葉は、意外にも優しい。
 優しいというより、正しい。

「心から選ぶとは、綺麗な感情だけで決めることではない。
 怖くても、嫌でも、それでも“選ぶ”ことです」

 リリアーナは唇を噛んだ。
 怖い。
 嫌だ。
 でも、逃げたくない。
 逃げたら、また誰かに決められる。

 リリアーナは、カイゼルの背中を見た。
 黒い影。
 白い神殿の中で浮く影。

 あの人は「要らない」と言う。
 「くだらない」と言う。
でも、指先が震える。
 恐れている。
 何かを。

 心の条件。
 心から選ぶ。
 そんなの、今の自分には無理だと思った。
 でも――“無理”と決めつけたら、私は永遠に誰も選べない。

 セラフィナの声が静かに落ちる。

「儀はここまで。紋章は進行しています。ですが完成には、まだ遠い」

 聖壇の光が弱まる。
 手首の熱が、少しずつ引いていく。
 火傷のあとみたいに、じんじんと残る痛み。

 リリアーナは息を吐いた。
 吐いた息が、ようやく自分のものに戻る。

 カイゼルが踵を返す。
 去る。
 その背中が、やけに孤独に見える。

 リリアーナは思わず口を開いた。

「……皇帝陛下」

 呼びかける。
 自分でも驚くくらい自然に。

 カイゼルが立ち止まる。
 振り向かない。
 でも止まった。それだけで、心臓が跳ねる。

「私はまだ、あなたを選べない」

 言葉が震える。
 怖い。
 でも言う。

「だって、何も知らないから。
 でも――知ろうとは思う」

 背中が微かに揺れた。
 カイゼルは、振り向かないまま言った。

「勝手にしろ」

 短い。冷たい。
 なのに、その言葉の奥に、ほんの少しだけ“拒みきれない疲れ”が混じっていた。

 カイゼルは去った。
 黒い影が白い空間から消えると、神殿の空気が少しだけ軽くなる。

 リリアーナは自分の手首を見つめた。
 紋章が淡く光り、門の形が確かにそこにある。

 心から選ぶ。
 心なんて、まだ何も分からない。
 でも、分からないままでも、感じてしまったものがある。

 恐れ。
 そして――ほんの小さな、引っかかり。

 皇帝の拒絶は、恐れに似ていた。
 その事実が、リリアーナの中で静かに燃え続ける。

 燃える火は、優しい火じゃない。
 痛い火。
 でも、その痛みが“生きている”証だと、リリアーナは思った。
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