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第10話:断罪の白砂神殿、二人が落ちてくる
しおりを挟む砂は白い。
ただ白いだけじゃない。乾いた骨の白、砕けた貝殻の白、太陽に焼かれた塩の白。
そこに風が吹くと、白は舞い上がり、空気の中で刃になる。頬を撫でるというより、薄く削っていく。
崩れた石柱が、砂に半分埋もれている。
かつては荘厳だったはずの神殿。今は、時間に負けた骸骨みたいに立っていた。
壁は欠け、天井は落ち、床の魔法陣だけが不気味に残っている。
その中心が、円形に空いていた。まるで“ここへ落ちてこい”と言わんばかりの穴。
断罪の白砂神殿――。
ここは祝福の場所じゃない。
祈りの場所でもない。
罪を裁く場所。
いや、もっと正確に言えば、罪を「思い出させる」場所だった。
神殿の端に立つのは、白いローブの一団。
神官ではない。祈りの匂いが薄い。
彼らの白は、神殿の白と同じ種類の白――冷たくて、無機質で、感情を拒む白。
先頭に立つのは女だった。
背は高く、黒髪を一本の縄のように結い、瞳は濡れた石みたいに暗い。
彼女はセラフィナの配下――そう名乗る必要すらないほど、役割が顔に書いてある人間だった。
「……時間です」
彼女が呟くと、ローブの者たちが同時に手を上げた。
風が止む。
砂が落ちる。
世界が息を止める。
床の魔法陣が光る。
白い光――ではない。青白い、冷たい光。
光が円を描き、文字が浮かび、空間がねじれる。
そして、落ちてきた。
ひとり目は男。
金髪。整った顔。派手ではないが上質な服。
落下の勢いで膝をつき、砂に手をついた。
咳き込み、息を荒くし、顔を上げる。
「……な、何だここは……!」
エドワード・ルークレイン。
王都の舞踏会で、リリアーナを切り捨てた男。
二人目は女。
淡いピンクのドレス――だが砂にまみれ、裾が裂けている。
髪は乱れ、目元は涙で濡れている。
落ちた瞬間から泣いているのが分かるほど、声が大きい。
「ひっ……! や、やだ……っ! どこ、ここ……!」
マリエッタ・ルークレイン。
勝者の涙を武器にした女。
二人は顔を見合わせた。
同じ疑問が瞳に浮かぶ。
“なぜ私たちが”。
次の瞬間、エドワードの目が光る。
恐怖ではない。期待だ。
自分が“選ばれる側”だと信じる人間の、あの根拠のない輝き。
「……召喚?」
彼は立ち上がろうとして砂に足を取られた。
それでも笑いそうな顔をする。
「そうか、やはり私が……! この世界に必要とされたのだな!」
マリエッタもそれに乗る。
涙を拭き、震える声を演出する。
可哀想な私、けれど強い私、という物語を纏う声。
「きっとそうです……! エドワード様は王都でも評価されていましたし……! 私も、神に選ばれたのかもしれません……!」
その言葉の裏で、彼女の瞳がきらりと動く。
計算。
今はエドワードに縋るのが最善だと判断している目。
白いローブの女は、二人を見ても表情を変えなかった。
砂漠の石みたいに動かない顔で、淡々と言った。
「歓待はありません」
「……は?」
エドワードが間抜けな声を出す。
その瞬間、ローブの者が粗末な布切れを投げた。
次に水袋。
水はぬるく、袋は薄汚れている。
「これが、あなた方に与えるすべてです」
マリエッタが口を押さえる。
「うそ……なんで……? 私たち、選ばれたんじゃ……」
女は首を横に振らない。
ただ、真実を落とす。
「あなた方は“選ばれなかった者”」
言葉が砂の上に落ちる。
乾いた音。
なのに、胸を殴る音。
「……ふざけるな!」
エドワードが怒鳴った。
声が神殿に反響し、崩れた柱の隙間から風が吹き込む。
白い砂が舞い、彼の口元に入り、咳き込ませる。
「誰に向かって言っている! 私はルークレイン家の――」
「ここでは関係ありません」
女の声は変わらない。
エドワードの怒りに、まるで反応しない。
怒りは相手が反応して初めて強くなる。
反応がない怒りは、ただの滑稽だ。
「あなた方に与えられるのは、真実を見る資格だけです」
「真実……?」
マリエッタが震える声で言う。
震えは半分本物、半分演技。
彼女は怖い。でも同時に、怖がる自分を武器にできると知っている。
「待って……! 私たち、何か悪いことをしたって言うの……? 私、ただ……ただ、幸せになりたかっただけなのに……!」
縋る。
泣く。
相手の同情を引き出す。
いつもの手。
しかし、この神殿は同情で動かない。
女はマリエッタを見下ろし、淡々と言った。
「同情は、ここにはありません」
マリエッタの涙が、止まった。
止まったというより、効果がないことに気づいて一瞬固まった。
その隙が、素顔を覗かせる。
冷たい焦り。
“計算が崩れる”焦り。
「あなた方は、選ばれた者を踏みにじりました」
女の言葉が続く。
「選ばれた者……?」
エドワードが眉をひそめた。
「誰のことだ。勇者か? 聖女か? この世界の王か?」
女は答えない。
代わりに、神殿の壁を指先でなぞった。
壁面が、光る。
石の割れ目から光が滲み出し、やがて一枚の“鏡”の形になる。
鏡なのに反射ではない。
映すのは、この場ではない場所。
光の鏡。
「……見なさい」
女が言うと、ローブの者たちが一斉に祈りのような仕草をした。
祈りではない。起動だ。
機械のスイッチみたいな動き。
鏡の中に映像が浮かぶ。
黒い城。
華やかな広間。
そして、花嫁候補として立つひとりの少女。
淡い銀髪。
灰青の瞳。
白に近いドレス。
背筋を伸ばし、周囲の視線を受け止めている。
「……リリアーナ……?」
エドワードの声が掠れた。
信じられない、という響き。
だって彼にとってリリアーナは、もう終わった存在だったはずだ。
切り捨てた。破棄した。罪を着せた。
それで終わるはずだった。
マリエッタの顔が青ざめる。
唇が震え、まつ毛に残った涙が乾ききらない。
「なんで……あの子が……」
鏡の中で、リリアーナの手首が見えた。
淡い紋章。
光る門の形。
「花嫁候補……?」
エドワードが呟く。
その瞬間、脳が現実を繋げる音がした。
花嫁。
召喚。
選ばれた。
――リリアーナが。
「……ばかな」
エドワードの顔から、血の気が引く。
昨日まで確信していた“正しさ”が、崩れていく。
「彼女が、花嫁だと……?」
マリエッタが叫んだ。
「違う! 違う、そんなのおかしい! あの子は無能で、何もできなくて、ただ――」
言葉が途中で止まる。
自分で言った言葉が、いかにも嘘臭いことに気づいてしまったからだ。
無能?
何もできない?
じゃあなぜ、この世界が彼女を選ぶ?
女は、冷たい声で言った。
「彼女は、神器に選ばれた花嫁」
神器。
その単語に、エドワードの喉が鳴る。
「神器……? では私たちは……」
「選ばれなかった」
繰り返される。
残酷なほど、繰り返される。
逃げ道を塞ぐように。
「あなた方に与えられたのは、真実を見る資格だけ。
そしてその真実に耐える義務」
義務。
耐える。
その言葉が、断罪の名前そのものだった。
鏡の中の場面が切り替わる。
玉座に近い高台。
黒曜の髪と金の瞳の男が、冷たく酒を傾けている。
皇帝カイゼル・ヴァルディオス。
リリアーナが踊りに誘われ、腕を掴まれ――
皇帝が立ち上がり、低く言う。
『その手を離せ』
鏡越しでも分かる。
場が凍る。
貴族が息を止める。
皇帝の言葉ひとつで、空気が支配される。
エドワードは、唇を開いたまま固まった。
理解が追いつかない。
でも理解してしまう。
リリアーナは、世界の中心にいる。
「……守られてる……?」
彼の声が震える。
守られる?
あの女が?
自分が捨てた女が?
皇帝に?
マリエッタの爪が掌に食い込む。
彼女は自分の痛みを使って、涙を出そうとした。
でも涙が出ない。
嫉妬が喉を焼いて、涙の水分を奪ってしまう。
「ありえない……! だって、私が……私が選ばれるはずだったのに……!」
その叫びは本音だった。
彼女の世界では、彼女が主役だ。
涙を流せば守られる。
可哀想と言えば正当化される。
そういうルールで生きてきた。
でも、この神殿にはルールが違う。
主役は、選ばれた者だ。
選ばれなかった者は、ただ見せつけられる。
エドワードが女に詰め寄ろうとした。
砂を蹴り、声を荒げる。
「これは罠だ! 私を侮辱するための幻術だろう! こんな――」
しかし、ローブの者たちが一歩前に出る。
槍も剣も見えないのに、動けなくなる圧がある。
神殿そのものが、彼らを拘束するみたいだった。
女は言った。
「あなた方が捨てた者は、捨てられませんでした」
その一言が、刀みたいにエドワードの胸に刺さる。
捨てた。
捨てたのに、世界が拾った。
エドワードの中で、何かが崩れる音がした。
自尊心。正しさ。未来の設計図。
全部、砂の上で崩れていく。
「……リリアーナは……死んだはずだ……」
呟く。
願望が混じった呟き。
死んでいれば、罪悪感が軽くなる。
死んでいれば、“仕方ない”になる。
女は淡々と言った。
「死んでいません。あなた方の世界では事故。こちらでは召喚。
彼女は“門”を越えた」
門。
その単語が、マリエッタの顔色をさらに変えた。
彼女は知っている。
リリアーナがいつも指に嵌めていた、あの古い指輪。
馬鹿みたいに大事にしていた指輪。
母の形見だと言っていた指輪。
「……あの指輪……」
マリエッタが呟く。
一瞬、記憶が繋がる。
舞踏会の前、リリアーナの控室に忍び込んだ侍女。
指輪に触れた報告。
“古いだけで価値はない”。
そう笑った自分。
価値がない?
価値がないはずがない。
だって今、世界を繋いでいる。
マリエッタの喉から、息が漏れる。
「……私、間違えた?」
それは初めて、彼女の計算が崩れた声だった。
でもすぐに、彼女は首を振る。
間違えたと思ったら負ける。
自分の世界が壊れる。
「違う……違う違う。あの子が運が良かっただけ。皇帝が気まぐれなだけ……!」
女は反論しない。
反論しないまま、さらに残酷なものを投げる。
「見続けなさい」
鏡の中で、リリアーナが堂々と立つ姿が映り続ける。
視線に晒されても折れない。
言葉で返す。
泣かない。
立っている。
エドワードは、それを見てしまう。
見てしまうから、気づいてしまう。
――自分が捨てたのは、弱い女じゃなかった。
――自分が作り上げた“無能”という像が、嘘だった。
「……俺は……」
エドワードの声が掠れる。
認めたくない。
でも認めてしまう。
マリエッタは、エドワードの袖を掴んだ。
縋る。
この世界でも、同じ手を使う。
「エドワード様……! 私、怖い……! 助けて……!」
だがその縋りは、今までみたいに効かない。
エドワードの視線は鏡から外れない。
鏡の中のリリアーナから外れない。
白砂が舞う。
崩れた柱が風に鳴る。
神殿の中で、二人は初めて理解する。
自分たちが捨てた相手が、今、世界の中心にいる。
そして自分たちは――その中心から外側へ、投げ捨てられた。
女は淡々と結論を告げた。
「ここであなた方は真実を見ます。
そして、真実がどれほど痛いかを知るでしょう」
断罪の神殿は、裁判をしない。
ただ、鏡を置くだけだ。
自分のしたことが、どういう形で世界に返ってくるか――それを見せるだけ。
エドワードとマリエッタは、白い砂の上で立ち尽くした。
歓待を期待して落ちてきた者の顔から、期待の色が消える。
残るのは、乾いた風と、逃げ場のない現実だけだった。
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