婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜異世界花嫁物語〜

タマ マコト

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第12話:鏡が映す婚約破棄の裏、マリエッタの指先

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 白い砂は、夜でも白かった。
 月明かりを受けて青白く光り、風が吹くたびに舞い上がる。
 その舞い上がり方は雪みたいで――でも、温度はない。祝福の柔らかさもない。
 ただ乾いた粒が、頬を削っていく。

 断罪の白砂神殿の壁面には、光の鏡が浮かび続けていた。
 鏡の光は揺れない。
 心を持たない目みたいに、ただ映す。
 逃げようとしても、目を逸らしても、映るものは消えない。

 エドワードは立ち尽くしていた。
 さっきまでの怒りの熱が、砂漠の夜に冷やされていく。
 怒りが冷えると残るのは、薄い汗と、喉の奥に溜まる苦い味だ。

 隣でマリエッタが小刻みに震えている。
 さっきまで「違う」と叫んでいた喉は、もう声を出すことすら惜しむように詰まっていた。
 涙は乾き、代わりに唇だけが薄く震える。

 白いローブの女――セラフィナの配下は、淡々と告げた。

「次を映します」

 命令でも宣告でもない。
 ただ、天候の説明みたいに淡々と。

「やめろ……」

 エドワードの声が掠れた。
 命令口調で「やめろ」と言えない自分に、彼自身が驚いたようだった。
 ここでは、彼の言葉は重くならない。
 誰も従わない。
 彼の“貴族の重み”は砂の上で簡単に崩れる。

 女は答えない。
 答えずに、鏡の光に指先を滑らせた。

 ぱち、と空気が弾ける音。
 鏡の面が水面みたいに波打ち、景色が変わる。

 ――王都。
 リリアーナの世界。
 舞踏会の前日。

 映像の中は、夕暮れの屋敷だった。
 暖炉の火が赤く揺れ、机の上には紙束と封蝋。
 香水の甘さが、鏡越しでも分かるように漂う。

 そこにいるのは――マリエッタ。

 マリエッタは鏡の中で微笑んでいた。
 いつもの涙の笑顔じゃない。
 薄い膜のような笑顔。
 目が笑っていない笑顔。

 彼女の指先が動く。
 白い手袋を外し、金貨を一枚、指で弾く。
 ちん、と軽い音がして、金貨が机の上で回る。

「これで足りる?」

 甘い声。
 けれど甘さは、蜂蜜じゃない。毒を隠す砂糖の甘さだ。

 机の向こうに、侍女がいた。
 見覚えのない顔。
 下級の侍女。目が泳ぎ、唇が乾いている。
 貧しさと焦りが、姿勢に出ている。

「……い、いえ……その……」

 侍女が言いよどむと、マリエッタは笑った。
 優しく。優しく見えるように。

「大丈夫。怖がらないで。あなたが困らないようにするから」

 そう言いながら、もう一枚金貨を置く。
 ちん。ちん。
 音が、罪のリズムみたいに心地よく響く。

「ねえ。私、悪いことがしたいわけじゃないの」

 マリエッタは囁く。
 まるで自分に言い聞かせるみたいに。
 罪悪感を“先に演出”して、相手の心を緩める。
 いつもの手口。
 でも今は、舞台が違うだけで中身は同じだった。

「ただ……リリアーナ様が、少しだけ……ずるいだけなの」

 侍女が目を見開く。

「ずるい……?」

「ええ。だって、あの方、何も気づいてないのよ。皆がどれだけ困ってるか」

 マリエッタの声は甘い。
 甘いのに、言葉は針だ。

「あなたも知ってるでしょ? アルフェン家の帳簿、最近おかしいって噂」

「……そ、それは……」

「噂は噂。でもね、噂って――誰かが“形”を与えた瞬間に本当になるの」

 マリエッタは笑いながら言う。
 笑いながら、“世界の作り方”を語っている。

「私たちは、ほんの少しだけ形を整えるだけ。そうすれば、皆が安心する」

 侍女の瞳が揺れた。
 “安心”。
 その言葉が、正義の仮面になってしまう。
 人は安心のためなら、罪を握れる。

「……ど、どうすれば……」

 侍女が落ちた。

 マリエッタは指先で紙束を滑らせる。
 白い紙。
 そこに書かれた文字。

 リリアーナの筆跡に似せた手紙。
 あまりに似ていて、見る側が“似ている”と信じたくなる筆跡。
 細い線の癖。文字の跳ね。インクの溜まり方。
 練習の跡が紙の端に薄く残っているのが、逆にリアルだった。

「これ、写して。きれいにね」

 マリエッタは言う。
 命令じゃない顔で命令する。

「リリアーナ様の筆跡は簡単よ。真面目だから、癖が素直だもの」

 その笑みが、鏡越しでも冷たかった。

 次の映像。
 帳簿。
 横領の数字。
 すり替えられる紙。
 封蝋を押す指先。
 偽の印章。

 マリエッタの指先は、仕事をしていた。
 涙を流すための指先じゃない。
 現実を作るための指先。
 罪を形にする指先。

 エドワードは、喉が鳴るのを感じた。
 鏡の中のマリエッタの手が、美しすぎて気持ち悪い。
 汚れがない。
 汚れがないまま、人の人生を汚す手。

「……マリエッタ……?」

 エドワードが掠れた声で呟く。

 隣のマリエッタが叫ぶ。

「違うっ! 違うの! あれは……あれは、ただ……!」

 でも鏡は止まらない。
 容赦なく続く。

 今度は、別の部屋。
 豪奢な客間。
 そこにエドワードがいる。

 エドワードは、鏡の中で自分自身を見た。
 その瞬間、顔が歪んだ。
 自分の“知らない自分”を見るのは、鏡より残酷だ。

 マリエッタがエドワードの隣に座っている。
 肩を寄せすぎない距離。
 近すぎないのに、逃げられない距離。

「エドワード様」

 マリエッタの声が、とろける。
 甘く、柔らかく、包むようで――縛る。

「あなたなら、救えるのに」

 エドワードが眉を上げる。

「救う?」

「ええ。リリアーナ様のこと」

 マリエッタが目を伏せる。
 涙の準備をする顔。
 この涙は“罪悪感”の涙。
 だから相手は責めにくい。

「リリアーナ様、最近……少し変なの。ねえ、気づいてた?」

 エドワードが曖昧に頷く。
 自信たっぷりの男が、曖昧に頷く瞬間。
 そこが弱点だ。
 虚栄心。
 “自分は気づいていた”と思わせたい心。

「私は、たまたま……見てしまったの」

 マリエッタが小さな封筒を差し出す。
 リリアーナの筆跡に似せた手紙。
 罪の形。

「……これは?」

「見て。お願い。あなたが見なきゃ、誰が彼女を止めるの……?」

 この言い方。
 “あなたが救ってあげないと、皆が困るの”。
 救うという言葉で縛り、困るという言葉で正義を作る。

 エドワードは手紙を開いた。
 鏡の中のエドワードの眉が、最初に動く。
 驚き。次に、怒り。
 そして、最後に――悦び。

 悦び。
 自分が“正しい側”に立てる悦び。

「……リリアーナが、こんなことを……?」

 鏡の中のエドワードの声は震えていた。
 悲しみの震えに聞こえるように。
 でも、その震えの奥に、どこか興奮が混じっている。

 マリエッタが囁く。

「エドワード様が救ってあげないと、皆が困るの」

 そして、最後の一押し。

「あなたなら、きっと正しい判断ができる。だってあなたは――皆の希望だもの」

 皆の希望。
 それはただの褒め言葉ではない。
 呪いだ。
 虚栄心に刺さる呪い。

 鏡の中のエドワードの背筋が伸びた。
 彼の顔に“決意”が浮かぶ。
 自分で決めたと信じ込む顔。

「……分かった。私が止める」

 マリエッタは泣いた。
 涙を滲ませて、感動したように。

「ありがとう……! エドワード様……!」

 その涙は、罪悪感の涙ではない。
 勝利の涙だ。

 現実の神殿で、エドワードが息を止めた。
 心臓が凍る音がする。

「……俺は……」

 声が出ない。
 鏡の中の自分が、あまりにも――滑稽だった。
 救うつもりで、壊している。
 正しいつもりで、偽物を正義にしている。

 マリエッタが叫ぶ。

「違うの! 私はあなたのために……!」

 現実の彼女が、エドワードの腕に縋る。
 爪が食い込む。
 痛みで相手をつなぎ止める。
 いつもの癖。

「私、あなたが恥をかくのが嫌だったの……! あなたが弱いって言われるのが嫌だったの……! だから……!」

 鏡は、容赦なく続けた。

 次の場面。
 舞踏会当日。
 エドワードが壇上に立ち、婚約破棄を宣言する直前。

 マリエッタは鏡の中で、エドワードの袖をそっと掴んでいた。
 優しく。
 でも、その指先は鎖みたいに確かだった。

「……大丈夫。あなたは正しいわ」

 囁く。
 その言葉で、エドワードの背筋はさらに伸びる。

 そして――宣言。
 婚約破棄。
 横領。裏切り。証拠。
 あの夜の断罪が、もう一度映し出される。

 違うのは、鏡が“裏側”も映していることだ。

 エドワードの視線が、リリアーナを見ていない瞬間。
 彼の目が会場の反応を確認し、満足する瞬間。
 マリエッタが涙を作り、場の空気を操る瞬間。
 二人の呼吸が合っている瞬間。

 共犯。
 明確な共犯。

 現実の神殿で、エドワードの唇が震えた。

「……俺は……騙された……?」

 その言葉は、逃げだった。
 自分の罪を“被害者”に変えるための言葉。

 しかし鏡は、逃がさない。
 さらに映す。

 舞踏会のあと。
 エドワードがマリエッタに「助かった」と言い、マリエッタが微笑む。
 二人が笑う。
 リリアーナの泣き顔を想像して笑う――そんな露骨な場面はなくても、空気がそう言っている。

 エドワードは、そこでようやく理解した。
 騙されたのではなく、騙されることを選んだ。
 自分の虚栄心が欲しがった正義を、マリエッタが与えただけ。

 マリエッタが叫ぶ。

「違うの、違うの……! 私は……私は、あなたのために……!」

 エドワードは振り向かなかった。
 振り向けなかった。
 振り向いたら、彼女の涙にまた騙されるかもしれないから。
 いや、騙されるふりをしてしまうかもしれないから。

 白いローブの女が淡々と告げる。

「これが真実です」

 真実。
 言い逃れできない像。
 共犯の形。
 罪の設計図。

 エドワードの喉の奥から、かすれた声が漏れた。

「……リリアーナは……俺に……」

 信じていた。
 婚約者として。
 人として。
 信じていたのに。

 その続きを口にする前に、彼は唇を噛み切りそうなほど噛んだ。
 血の味がした。
 けれどその血は、誰かのものではない。
 自分の血だ。
 自分の罪が、自分を傷つける味。

 マリエッタは膝をつき、砂に手をついた。
 白い砂が指に絡む。
 その白が、彼女の手の汚れをやけに目立たせる。

「……ねえ……」

 彼女の声が小さくなる。
 演技の声じゃない。
 初めて、計算が崩れた声。

「私……そんなに悪いこと、したの……?」

 問いかけは自分への嘘だ。
 本当は分かっている。
 分かっているのに、認めたら自分が壊れるから、問いにしてしまう。

 鏡は答えない。
 ただ、答えを映す。
 映し続ける。

 断罪の神殿は裁かない。
 殴らない。
 罵らない。

 ただ、真実を焼き付ける。
 逃げ道を、白い砂の上に一つも残さないまま。
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