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第13話:戻れない世界、リリアーナの決意が固まる
しおりを挟む朝の光は、昨日より少しだけ柔らかかった。
柔らかいだけで、優しいわけじゃない。
でも、光が柔らかいと人はほんの少しだけ息ができる。
リリアーナは花嫁用区画の窓辺に立ち、遠い庭の白い花を見つめていた。
噴水の水音が、昨日までよりも穏やかに聞こえる。
それは景色が変わったわけじゃなくて――彼女の心が、わずかに変わっただけだ。
夜の廊下の血の匂い。
扉の隙間から見た、皇帝の苦しむ姿。
黒い紋。濁りかけた金の瞳。
そして、触れた瞬間に引いた呪い。
あれは夢じゃない。
夢だったらどれだけ楽だろう。
でも手首の紋章は、今日も淡く熱を持っている。
現実は、逃げるほど追いかけてくる。
「……帰れるのかな」
声に出すと、喉が少しだけ痛んだ。
帰りたい。
そう思っていた。
向こうの世界へ戻って、名誉を取り戻して、マリエッタとエドワードに“違う”と突きつけて――。
そこまで考えたところで、リリアーナはふっと息を吐いた。
“名誉”。
その言葉が、昔より軽く感じた。
軽く感じたことに、リリアーナは自分で驚いた。
扉がノックされる。
「リリアーナ様。神殿より使いが参りました。セラフィナ様がお呼びです」
イリスの声。
いつもの丁寧さ。
でも、今日は少しだけ違う。
“何かが決まる日”の声だ。
「……行く」
リリアーナは頷き、上着を羽織った。
手首の紋章が布の下で熱くなる。
呼ばれている。
神殿に。
そして、真実に。
***
白い神殿は、やはり白かった。
白すぎて、嘘がつけない。
花の香りと鉄の匂いが混じる空気は、肺の奥まで冷やしてくる。
冷やされると、人は余計な飾りを捨てる。
言葉が剥き出しになる。
セラフィナは聖壇の前に立っていた。
相変わらず静かで、冷静で、感情の温度が薄い。
でもその薄さが、リリアーナには今ありがたかった。
余計な同情がないぶん、現実をそのまま受け取れる。
「来ましたね」
「呼んだのはあなたでしょ」
リリアーナが軽く返すと、セラフィナは小さく頷いた。
「あなたが“帰りたい”と願う心が、強くなっています」
その言葉に、リリアーナの胸がきゅっと縮む。
見透かされる。
神殿は、心を測る。
逃げ場がない。
「……帰れるの?」
リリアーナは真っ直ぐ聞いた。
遠回しはやめた。
ここでは遠回しは弱さになる。
セラフィナは淡々と答える。
「門は開けられます」
一瞬、心が跳ねた。
帰れる。
屋敷へ。父へ。自分の世界へ。
でもセラフィナは続けた。
「ただし、代償が要ります」
跳ねた心が、空中で止まった。
落ちる前の、嫌な浮遊感。
「代償……?」
「はい」
セラフィナは聖壇の中心を指す。
神器の欠片が眠る場所。
あの指輪の核。
「門を開くには、世界と世界の境界を削る必要があります。削れば、必ず血が出ます」
「……血」
リリアーナの脳裏に、夜の廊下の血の匂いが蘇った。
皇帝の血。
黒い紋。
手首の熱。
セラフィナは、まるで天候を説明するように言う。
「代償はあなたの命とは限りません。ですが“何か”が欠けます。
記憶、寿命、運命、あるいは……誰かの命」
「誰かの命……?」
リリアーナの声が掠れた。
喉が乾く。
冷たい空気が肺に刺さる。
「門が開けば、二つの世界が干渉します」
セラフィナは続ける。
「干渉は、争いを生みます。
こちらの世界の魔力が向こう側へ流れれば、向こう側は“力”を欲しがる。
向こう側の人がこちらへ流れれば、こちらは“資源”として扱う」
言葉が鋭い。
まるで刃物で現実を切り出して並べていくみたいに。
「門は、帰路であると同時に侵略路です」
「……そんな」
リリアーナは息を呑んだ。
帰ることが、誰かの戦争の始まりになる。
自分の“帰りたい”が、火種になる。
頭の中がぐらぐらする。
帰りたい。
帰りたいけど、帰った先に何が起きるのか。
屋敷は無事でも、世界が無事じゃないかもしれない。
リリアーナは唇を噛んだ。
「……私が帰りたいって思ったのは」
言葉が途切れる。
自分で気づくのが怖い。
でも気づかないふりもできない。
「……名誉を取り戻したかったから」
やっと言った。
声が小さい。
恥ずかしい。
帰りたい、という気持ちを美化していた自分がいる。
家族のため、領地のため、使用人のため――もちろんそれもある。
でも一番胸を焼いたのは、“私が悪者で終わるのが嫌だ”という感情だった。
セラフィナは何も言わない。
否定もしない。
その沈黙が、逆に優しい。
リリアーナは続けた。
「舞踏会であんなふうに捨てられて、知らない罪を着せられて……
私は、戻って証明したかった。
私じゃないって。
私、ちゃんとしてたって」
言いながら、胸が痛くなる。
その痛みは、今も消えていない。
でも――。
リリアーナは自分の手首の紋章を見た。
淡い光。門の形。
「でも今、思う」
声に少しだけ芯が入る。
「名誉って、誰かの口から返されるものじゃない」
舞踏会の噂話がすべてだった頃の自分。
誰かに認められることでしか立てなかった自分。
その自分が、少しずつ剥がれていく。
「ここで私、見られて、試されて、笑われて……それでも立ってきた」
夜会の視線。
夫人たちの毒。
皇帝の冷たい言葉。
全部、思い出す。
全部、まだ痛い。
「向こうの世界で失ったものを、こっちで取り戻し始めてる」
その言葉を言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
認めた。
自分で認めた。
それだけで、心が一ミリ癒える。
セラフィナが淡々と聞く。
「では、あなたは帰りたいですか」
問われる。
逃げられない問い。
心を測られる問い。
リリアーナは息を吸った。
帰りたい。
帰りたい気持ちは、まだある。
父の顔が浮かぶ。
屋敷の廊下の匂いが浮かぶ。
母の形見の指輪を嵌めていた自分が浮かぶ。
でも同時に――皇帝の夜の呻き声が浮かぶ。
血の匂いが浮かぶ。
自分の手首が熱く脈打った瞬間が浮かぶ。
リリアーナは、胸の奥で決める。
決めると、言葉が自然に落ちてきた。
「……私は逃げるためにここに来たんじゃない」
声が震える。
でも、震えの中に強さがある。
怖いのに、言える強さ。
「私は、ここで投げ捨てられるのが嫌だって言った。
それは今も同じ。
でも――帰ることが誰かの争いの火種になるなら、私はその火をつけたくない」
セラフィナの目がほんの少しだけ細くなる。
評価でも同情でもない。
“理解”の色。
リリアーナは続けた。
「ここで、自分の人生を選ぶ」
言った瞬間、手首の紋章が微かに熱を持った。
呼応するみたいに。
心に反応するみたいに。
リリアーナは驚いて、自分の手首を押さえた。
熱は痛くない。
むしろ、温かい。
小さな灯みたいな熱。
「……癒えるって、こういうことなのかも」
誰に言うでもなく呟く。
傷は消えない。
でも傷が“意味”に変わると、痛みの質が変わる。
刺さる痛みから、支える痛みに。
セラフィナが淡々と告げた。
「あなたの決意は、紋章を進めます」
「……進むって、どういう」
「花嫁は契約ではない。心から選ぶことで完成する。
あなたが“自分で選ぶ”と決めたことは、条件の一部です」
条件の一部。
まだ完成じゃない。
でも、一歩は進んだ。
リリアーナは息を吐いた。
吐いた息が、少しだけ軽い。
「……門って、便利じゃないね」
リリアーナが苦笑すると、セラフィナは初めて、ほんのわずかに口角を動かした。
笑ったというより、理解を示しただけの微かな動き。
「便利なら、世界は壊れています」
その言葉が妙に胸に落ちた。
便利じゃないから、守られるものがある。
帰れないから、ここで立つ理由が生まれる。
リリアーナは神殿の白い床を見つめた。
白は眩しい。
でも、目を逸らさない。
帰れない世界。
戻れない道。
その現実は、怖い。
だけど同時に――逃げる言い訳が消えたということでもある。
リリアーナは手首の紋章を握りしめ、静かに言った。
「……私、ここで生きる」
それは宣言じゃない。
誓いでもない。
もっと小さな、でも確かな決定。
心の奥の傷が、少しだけ熱を帯びて、痛みが和らいだ。
癒えるって、完治じゃない。
“進める”ことなのだと、リリアーナは思った。
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