13 / 20
第13話:戻れない世界、リリアーナの決意が固まる
しおりを挟む朝の光は、昨日より少しだけ柔らかかった。
柔らかいだけで、優しいわけじゃない。
でも、光が柔らかいと人はほんの少しだけ息ができる。
リリアーナは花嫁用区画の窓辺に立ち、遠い庭の白い花を見つめていた。
噴水の水音が、昨日までよりも穏やかに聞こえる。
それは景色が変わったわけじゃなくて――彼女の心が、わずかに変わっただけだ。
夜の廊下の血の匂い。
扉の隙間から見た、皇帝の苦しむ姿。
黒い紋。濁りかけた金の瞳。
そして、触れた瞬間に引いた呪い。
あれは夢じゃない。
夢だったらどれだけ楽だろう。
でも手首の紋章は、今日も淡く熱を持っている。
現実は、逃げるほど追いかけてくる。
「……帰れるのかな」
声に出すと、喉が少しだけ痛んだ。
帰りたい。
そう思っていた。
向こうの世界へ戻って、名誉を取り戻して、マリエッタとエドワードに“違う”と突きつけて――。
そこまで考えたところで、リリアーナはふっと息を吐いた。
“名誉”。
その言葉が、昔より軽く感じた。
軽く感じたことに、リリアーナは自分で驚いた。
扉がノックされる。
「リリアーナ様。神殿より使いが参りました。セラフィナ様がお呼びです」
イリスの声。
いつもの丁寧さ。
でも、今日は少しだけ違う。
“何かが決まる日”の声だ。
「……行く」
リリアーナは頷き、上着を羽織った。
手首の紋章が布の下で熱くなる。
呼ばれている。
神殿に。
そして、真実に。
***
白い神殿は、やはり白かった。
白すぎて、嘘がつけない。
花の香りと鉄の匂いが混じる空気は、肺の奥まで冷やしてくる。
冷やされると、人は余計な飾りを捨てる。
言葉が剥き出しになる。
セラフィナは聖壇の前に立っていた。
相変わらず静かで、冷静で、感情の温度が薄い。
でもその薄さが、リリアーナには今ありがたかった。
余計な同情がないぶん、現実をそのまま受け取れる。
「来ましたね」
「呼んだのはあなたでしょ」
リリアーナが軽く返すと、セラフィナは小さく頷いた。
「あなたが“帰りたい”と願う心が、強くなっています」
その言葉に、リリアーナの胸がきゅっと縮む。
見透かされる。
神殿は、心を測る。
逃げ場がない。
「……帰れるの?」
リリアーナは真っ直ぐ聞いた。
遠回しはやめた。
ここでは遠回しは弱さになる。
セラフィナは淡々と答える。
「門は開けられます」
一瞬、心が跳ねた。
帰れる。
屋敷へ。父へ。自分の世界へ。
でもセラフィナは続けた。
「ただし、代償が要ります」
跳ねた心が、空中で止まった。
落ちる前の、嫌な浮遊感。
「代償……?」
「はい」
セラフィナは聖壇の中心を指す。
神器の欠片が眠る場所。
あの指輪の核。
「門を開くには、世界と世界の境界を削る必要があります。削れば、必ず血が出ます」
「……血」
リリアーナの脳裏に、夜の廊下の血の匂いが蘇った。
皇帝の血。
黒い紋。
手首の熱。
セラフィナは、まるで天候を説明するように言う。
「代償はあなたの命とは限りません。ですが“何か”が欠けます。
記憶、寿命、運命、あるいは……誰かの命」
「誰かの命……?」
リリアーナの声が掠れた。
喉が乾く。
冷たい空気が肺に刺さる。
「門が開けば、二つの世界が干渉します」
セラフィナは続ける。
「干渉は、争いを生みます。
こちらの世界の魔力が向こう側へ流れれば、向こう側は“力”を欲しがる。
向こう側の人がこちらへ流れれば、こちらは“資源”として扱う」
言葉が鋭い。
まるで刃物で現実を切り出して並べていくみたいに。
「門は、帰路であると同時に侵略路です」
「……そんな」
リリアーナは息を呑んだ。
帰ることが、誰かの戦争の始まりになる。
自分の“帰りたい”が、火種になる。
頭の中がぐらぐらする。
帰りたい。
帰りたいけど、帰った先に何が起きるのか。
屋敷は無事でも、世界が無事じゃないかもしれない。
リリアーナは唇を噛んだ。
「……私が帰りたいって思ったのは」
言葉が途切れる。
自分で気づくのが怖い。
でも気づかないふりもできない。
「……名誉を取り戻したかったから」
やっと言った。
声が小さい。
恥ずかしい。
帰りたい、という気持ちを美化していた自分がいる。
家族のため、領地のため、使用人のため――もちろんそれもある。
でも一番胸を焼いたのは、“私が悪者で終わるのが嫌だ”という感情だった。
セラフィナは何も言わない。
否定もしない。
その沈黙が、逆に優しい。
リリアーナは続けた。
「舞踏会であんなふうに捨てられて、知らない罪を着せられて……
私は、戻って証明したかった。
私じゃないって。
私、ちゃんとしてたって」
言いながら、胸が痛くなる。
その痛みは、今も消えていない。
でも――。
リリアーナは自分の手首の紋章を見た。
淡い光。門の形。
「でも今、思う」
声に少しだけ芯が入る。
「名誉って、誰かの口から返されるものじゃない」
舞踏会の噂話がすべてだった頃の自分。
誰かに認められることでしか立てなかった自分。
その自分が、少しずつ剥がれていく。
「ここで私、見られて、試されて、笑われて……それでも立ってきた」
夜会の視線。
夫人たちの毒。
皇帝の冷たい言葉。
全部、思い出す。
全部、まだ痛い。
「向こうの世界で失ったものを、こっちで取り戻し始めてる」
その言葉を言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
認めた。
自分で認めた。
それだけで、心が一ミリ癒える。
セラフィナが淡々と聞く。
「では、あなたは帰りたいですか」
問われる。
逃げられない問い。
心を測られる問い。
リリアーナは息を吸った。
帰りたい。
帰りたい気持ちは、まだある。
父の顔が浮かぶ。
屋敷の廊下の匂いが浮かぶ。
母の形見の指輪を嵌めていた自分が浮かぶ。
でも同時に――皇帝の夜の呻き声が浮かぶ。
血の匂いが浮かぶ。
自分の手首が熱く脈打った瞬間が浮かぶ。
リリアーナは、胸の奥で決める。
決めると、言葉が自然に落ちてきた。
「……私は逃げるためにここに来たんじゃない」
声が震える。
でも、震えの中に強さがある。
怖いのに、言える強さ。
「私は、ここで投げ捨てられるのが嫌だって言った。
それは今も同じ。
でも――帰ることが誰かの争いの火種になるなら、私はその火をつけたくない」
セラフィナの目がほんの少しだけ細くなる。
評価でも同情でもない。
“理解”の色。
リリアーナは続けた。
「ここで、自分の人生を選ぶ」
言った瞬間、手首の紋章が微かに熱を持った。
呼応するみたいに。
心に反応するみたいに。
リリアーナは驚いて、自分の手首を押さえた。
熱は痛くない。
むしろ、温かい。
小さな灯みたいな熱。
「……癒えるって、こういうことなのかも」
誰に言うでもなく呟く。
傷は消えない。
でも傷が“意味”に変わると、痛みの質が変わる。
刺さる痛みから、支える痛みに。
セラフィナが淡々と告げた。
「あなたの決意は、紋章を進めます」
「……進むって、どういう」
「花嫁は契約ではない。心から選ぶことで完成する。
あなたが“自分で選ぶ”と決めたことは、条件の一部です」
条件の一部。
まだ完成じゃない。
でも、一歩は進んだ。
リリアーナは息を吐いた。
吐いた息が、少しだけ軽い。
「……門って、便利じゃないね」
リリアーナが苦笑すると、セラフィナは初めて、ほんのわずかに口角を動かした。
笑ったというより、理解を示しただけの微かな動き。
「便利なら、世界は壊れています」
その言葉が妙に胸に落ちた。
便利じゃないから、守られるものがある。
帰れないから、ここで立つ理由が生まれる。
リリアーナは神殿の白い床を見つめた。
白は眩しい。
でも、目を逸らさない。
帰れない世界。
戻れない道。
その現実は、怖い。
だけど同時に――逃げる言い訳が消えたということでもある。
リリアーナは手首の紋章を握りしめ、静かに言った。
「……私、ここで生きる」
それは宣言じゃない。
誓いでもない。
もっと小さな、でも確かな決定。
心の奥の傷が、少しだけ熱を帯びて、痛みが和らいだ。
癒えるって、完治じゃない。
“進める”ことなのだと、リリアーナは思った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】政略婚約された令嬢ですが、記録と魔法で頑張って、現世と違って人生好転させます
なみゆき
ファンタジー
典子、アラフィフ独身女性。 結婚も恋愛も経験せず、気づけば父の介護と職場の理不尽に追われる日々。 兄姉からは、都合よく扱われ、父からは暴言を浴びせられ、職場では責任を押しつけられる。 人生のほとんどを“搾取される側”として生きてきた。
過労で倒れた彼女が目を覚ますと、そこは異世界。 7歳の伯爵令嬢セレナとして転生していた。 前世の記憶を持つ彼女は、今度こそ“誰かの犠牲”ではなく、“誰かの支え”として生きることを決意する。
魔法と貴族社会が息づくこの世界で、セレナは前世の知識を活かし、友人達と交流を深める。
そこに割り込む怪しい聖女ー語彙力もなく、ワンパターンの行動なのに攻略対象ぽい人たちは次々と籠絡されていく。
これはシナリオなのかバグなのか?
その原因を突き止めるため、全ての証拠を記録し始めた。
【☆応援やブクマありがとうございます☆大変励みになりますm(_ _)m】
『皇族を名乗った伯爵家は、帝国に処理されました』 ―天然メイドは、今日も失敗する―
ふわふわ
恋愛
婚約破棄を経て、静かに屋敷を去った令嬢。
その後に残された伯爵家は、焦燥と虚勢を抱えたまま立て直しを図ろうとする。
だが、思惑はことごとく空回りする。
社交界での小さな失態。
資金繰りの綻び。
信用の揺らぎ。
そして、屋敷の中で起こる“ちょっとした”騒動の数々。
決して大事件ではない。
けれど積み重なれば、笑えない。
一方、帝国では新たな時代が静かに始まろうとしている。
血筋とは何か。
名乗るとは何か。
国家が守るものとは何か。
これは、派手な復讐劇ではない。
怒号も陰謀もない。
ただ――
立場を取り違えた家が、ゆっくりと現実に追いつかれていく物語。
そして今日も、屋敷では誰かが小さな失敗をする。
世界は静かに、しかし確実に動いている。
無能と婚約破棄された公爵令嬢ですが、冷徹皇帝は有能より“無害”を選ぶそうです
鷹 綾
恋愛
「君は普通だ。……いや、普通以下だ」
王太子にそう言われ、婚約を破棄された公爵令嬢フォウ。
王国でも屈指の有能一族に生まれながら、彼女だけは“平凡”。
兄は天才、妹は可憐で才色兼備、両親も社交界の頂点――
そんな家の中で「普通」は“無能”と同義だった。
王太子が選んだのは、有能で華やかな妹。
だがその裏で、兄は教会を敵に回し、父は未亡人の名誉を踏みにじり、母は国家機密を売り、妹は不貞を重ね、そして王太子は――王を越えようとした。
越えた者から崩れていく。
やがて王太子は廃嫡、公爵家は解体。
ただ一人、何も奪わず、何も越えなかったフォウだけが切り離される。
そんな彼女に手を差し伸べたのは、隣国の若き冷徹皇帝。
「有能は制御が難しい。無害のほうが使える」
駒として選ばれたはずの“無能な令嬢”。
けれど――
越えなかった彼女こそ、最後まで壊れなかった。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~
紫月 由良
恋愛
辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。
魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。
※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話
タマ マコト
ファンタジー
前世の記憶を持って貴族令嬢として生きるセレフィーナは、感情を見せない“冷たい令嬢”として王都で誤解されていた。
王太子クラウスとの婚約も役割として受け入れていたが、舞踏会の夜、正義を掲げたクラウスの婚約破棄宣言によって彼女は一方的に切り捨てられる。
王都のクラウスに対する拍手と聖女マリアへの祝福に包まれる中、何も求めなかった彼女の沈黙が、王都という冷酷な世界の歪みを静かに揺らし始め、追放先の辺境での運命が動き出す。
婚約破棄されたので、隠していた聖女の力で聖樹を咲かせてみました
Megumi
恋愛
偽聖女と蔑まれ、婚約破棄されたイザベラ。
「お前は地味で、暗くて、何の取り柄もない」
元婚約者である王子はそう言い放った。
十年間、寡黙な令嬢を演じ続けた彼女。
その沈黙には、理由があった。
その夜、王都を照らす奇跡の光。
枯れた聖樹が満開に咲き誇り、人々は囁いた。
「真の聖女が目覚めた」と——
【完結】遺棄令嬢いけしゃあしゃあと幸せになる☆婚約破棄されたけど私は悪くないので侯爵さまに嫁ぎます!
天田れおぽん
ファンタジー
婚約破棄されましたが私は悪くないので反省しません。いけしゃあしゃあと侯爵家に嫁いで幸せになっちゃいます。
魔法省に勤めるトレーシー・ダウジャン伯爵令嬢は、婿養子の父と義母、義妹と暮らしていたが婚約者を義妹に取られた上に家から追い出されてしまう。
でも優秀な彼女は王城に住み、個性的な人たちに囲まれて楽しく仕事に取り組む。
一方、ダウジャン伯爵家にはトレーシーの親戚が乗り込み、父たち家族は追い出されてしまう。
トレーシーは先輩であるアルバス・メイデン侯爵令息と王族から依頼された仕事をしながら仲を深める。
互いの気持ちに気付いた二人は、幸せを手に入れていく。
。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.
他サイトにも連載中
2023/09/06 少し修正したバージョンと入れ替えながら更新を再開します。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる