異世界花嫁物語〜婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜

タマ マコト

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第15話:暴走の前兆、皇帝が“拒む理由”が崩れる

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 その日の夕方、空は変だった。
 青いはずの空が薄く割れて見える。雲がないのに、遠くで雷鳴だけが鳴る。
 空が“鳴る”というより、空が“裂ける”。
 裂け目から、音が漏れてくるみたいに。

 花嫁用区画の窓から見える庭の噴水が、途中で途切れた。
 水が落ちるはずの場所で、何かが引っ張っている。
 水の筋が歪んで、空中で一瞬止まり、次の瞬間に落ちる。
 物理が一拍遅れて世界に追いつく、変な揺れ。

「……なに、これ」

 リリアーナが呟くと、イリスが顔色を変えた。

「窓から離れてください」

「今さら?」

「今は、危険です」

 危険。
 その単語は、この城で日常になりつつある。
 慣れてはいけないのに、慣れてしまう自分が怖い。

 廊下の方から、ばたばたと足音が響いた。
 普段は音を立てない侍女たちが、抑えきれない焦りで走っている。

「魔導灯が……!」
「南の回廊が暗く……影が……」
「神官を呼べ、急いで……!」

 影?
 リリアーナは背筋が冷えた。

 夜でもないのに、影が濃くなる。
 それは光が弱まるのではなく、影が強くなる。
 影が“意思”を持つように、床を這う。

 そして、雷鳴。
 どん、と腹に響く音が、城を揺らす。
 窓が小さく震え、ガラスが悲鳴を上げる。

 リリアーナの手首の紋章が熱を持った。
 じわり、ではない。
 刺すように、脈打つように、熱が走る。

「……来る」

 口に出た言葉は、予感というより確信だった。
 何が来るのか、もう分かっている。

 皇帝の呪い。
 あの黒い紋。
 血の匂い。
 獣の目。

 イリスが震える声で言う。

「リリアーナ様、どうか、部屋から出ないでください。今、陛下の……」

「陛下の、なに」

 リリアーナが詰めると、イリスは唇を噛んだ。
 答えられない。
 答えることが禁忌だからじゃない。
 答えた瞬間、“現実”になってしまうから。

 遠くで、また雷鳴が裂ける。
 その音に混じって、金属の擦れる音がした。

 鎖。
 鎖の音。

 リリアーナは息を呑む。

 ――自分を縛ってる。

 誰が?
 答えは一つしかない。

「……行く」

「だめです!」

 イリスが腕を掴もうとする。
 でもリリアーナは、振りほどいた。
 強い力じゃない。意志の力。

「止めないで。私……知ってる。あれ、放っておいたら」

 言葉が途切れる。
 十年前の話が頭をよぎる。
 守れなかった花嫁候補。
 暴走した半神の力。
 多くの犠牲。

「……みんなが死ぬ」

 呟いた瞬間、イリスの顔が青ざめた。
 知ってしまったのだと悟った顔。

 リリアーナは廊下へ飛び出した。
 冷たい空気が頬を叩く。
 魔導灯が揺れ、光が不規則に瞬く。
 影が濃い。濃すぎる。
 影が壁を登り、天井に張り付き、呼吸しているみたいに揺れる。

 通路の先で兵士が叫んでいた。

「立ち入り禁止だ! 戻れ!」

「どいて!」

 リリアーナは叫び返した。
 自分でも驚くほど声が大きい。
 恐怖が声を押し出している。

「花嫁候補でも例外では――」

「例外にするんじゃない、例外だから行くの!」

 意味が分からない言い返しなのに、身体は止まらない。
 兵士が一瞬怯んだ。
 手首の紋章が光を漏らし、影が避けるように揺れたからだ。

 リリアーナはその隙に走った。
 廊下が長い。
 空気が重い。
 雷鳴が近い。

 やがて、あの黒い扉の前に辿り着く。
 夜に血の匂いを嗅いだ場所。
 今は匂いがもっと濃い。
 鉄と焦げた匂い。
 皮膚が焼けるような匂い。

 扉の隙間から、光が漏れていた。
 白い光ではない。
 紫がかった暗い光。
 雷の光みたいに、瞬いている。

 リリアーナは扉に手をかけた。
 震える。
 指が言うことを聞かない。
 でも押す。

 開いた瞬間、風が吹き込んだ。
 室内なのに、暴風みたいに。
 髪が舞い、ドレスの裾が跳ねる。
 影が渦を巻いている。

 部屋の中央に、カイゼルがいた。

 上半身の衣が裂け、肩から胸にかけて黒い紋が広がっている。
 黒い紋は線ではない。
 裂け目だ。
 皮膚の上に、夜が這っている。

 そして――鎖。

 太い鎖が、彼の手首と足首を縛り、床の金具に繋がれている。
 自分で巻いたのだろう。
 鎖の端が、彼の指の跡で血に染まっている。

 金の瞳が濁っていた。
 獣の光。
 でもまだ理性が残っている。
 理性が残っているからこそ、鎖で縛っている。

「……来るな」

 カイゼルの声が低く響いた。
 吠えるような声。
 でもその吠えは、怒りだけじゃない。
 必死な拒絶だ。

「出て行け……!」

 影が膨らみ、雷鳴が部屋の中で鳴った。
 天井が揺れ、魔導灯が一瞬消えかける。
 闇が濃くなる。
 夜なのに影が濃い――そんな異常が、今ここで起きている。

 リリアーナは一歩踏み出した。
 足が震える。
 膝が笑う。
 でも踏み出した。

「一人で背負わないで」

 声が掠れる。
 怖い。
 心臓が暴れる。
 逃げたい。
 でも逃げない。

 カイゼルの金の瞳が、リリアーナを射抜く。

「……お前が何をできる」

「分からない。でも、放っておけない」

「放っておけ。――それが、お前のためだ」

 鎖が鳴る。
 彼が動くたびに、金属が悲鳴を上げる。
 その音が、心を削る。

「近づけば、お前が死ぬ」

 言葉が、刃みたいに落ちた。
 警告。
 いや、懇願に近い。
 死なせたくない。
 だから近づくな。
 その必死さが、声の底にある。

 リリアーナの目に涙が滲んだ。
 怖い。
 死ぬと言われるのは怖い。
 死ぬのは怖い。
 でも――。

 リリアーナは、泣きながら笑うように言った。

「死ぬほど怖いよ」

 涙が頬を伝う。
 冷たい風が涙を乾かし、塩の痛みが残る。

「でも、あなたが一人で壊れるほうが嫌」

 言った瞬間、部屋の空気が止まった。
 影が一瞬だけ揺れを止める。
 雷鳴が遠のく。
 鎖の音さえ、静まった。

 カイゼルの瞳が揺れた。
 濁りかけた金の中に、ほんの少しだけ人間の光が戻る。

「……愚かだ」

 カイゼルが絞り出すように言う。
 怒りの言葉なのに、怒りの温度が弱い。
 それは拒絶が崩れ始めている証拠だった。

 リリアーナは、さらに一歩近づいた。
 鎖の範囲の外側。
 手を伸ばせば届く距離。
 でも触れない。
 触れたら何が起きるか分からないから。
 怖い。
 でも、目は逸らさない。

「あなた、ずっと拒んでたよね。誰も近づけないって」

 リリアーナは震える声で続けた。

「でも今、私が近づいてる。
 拒んでも、もう崩れてる。
 ……それって、あなたのせいじゃない。私の意思だよ」

 カイゼルの喉が鳴る。
 息が荒い。
 黒い紋が脈打ち、影が再びうごめく。
 暴走が戻ってくる気配。

「……やめろ」

 カイゼルが低く言う。
 その声は、拒絶というより恐れだった。

「お前の意思で、お前が死ぬのは……!」

 言葉が途中で途切れた。
 言い切れない。
 言い切ったら、守りたい気持ちを認めることになるから。

 その瞬間だった。

 リリアーナの手首の紋章が、強く光った。

 布越しでも分かる眩しさ。
 熱が走る。
 脈打つ。
 聖壇の儀の比じゃない。
 身体の中に、もう一つの心臓が生まれたみたいに。

「っ……!」

 リリアーナが手首を押さえると、部屋の中央――床に刻まれた紋が呼応した。
 神器の欠片がここにあるわけじゃないのに、空気そのものが光を含む。
 白い火花が影を裂き、闇に線を引く。

 セラフィナの声が、どこからともなく聞こえた気がした。
 実際に声が聞こえたのか、神器が心に言葉を落としたのか分からない。

 ――花嫁が、心から選ぶ時が近い。

 その“示し”が、空気に刻まれる。
 言葉じゃなく、感覚で。

 カイゼルが息を呑んだ。

「……やめろ……!」

 彼の声が震える。
 怒りではない。
 恐れだ。
 十年前の記憶の恐れ。
 守れなかった花嫁の影。
 暴走の恐れ。

 黒い紋が一瞬だけ膨らむ。
 影が牙を剥く。
 雷鳴が裂ける。
 窓が震える。
 世界が揺れる。

 それでも、リリアーナは逃げなかった。

 涙を拭かず、震えるまま、言った。

「あなたが怖いなら、私も怖い」

 声が掠れる。
 でも、言葉は落とさない。

「でも、怖いって言える相手がいるなら、少しだけ生きられるでしょ」

 カイゼルの金の瞳が揺れ続ける。
 獣の濁りと、人間の光がせめぎ合う。
 彼は鎖を握りしめ、歯を食いしばった。

「……俺は」

 言葉が出ない。
 出せない。
 出したら、拒む理由が崩れる。
 誰も近づけないことで世界を守ってきた、その理屈が崩れる。

 でも、もう崩れている。
 リリアーナがここにいる時点で。

 紋章の光がさらに強くなる。
 熱が胸に届く。
 心臓が痛い。
 痛いのに、あたたかい。

 リリアーナは、泣きながら笑った。
 笑うしかなかった。
 怖くて、痛くて、でも逃げたくなくて。

「ねえ、カイゼル」

 初めて名前を呼んだ。
 皇帝陛下じゃなく。
 カイゼル、と。

 その呼び方だけで、空気が震えた。
 鎖が鳴る。
 彼の瞳が、わずかに見開かれる。

「……呼ぶな」

 拒絶の声。
 でも弱い。
 崩れていく声。

 外で雷鳴が裂ける。
 夜なのに影が濃くなる。
 世界が歪む。
 暴走の前兆が、城全体を包む。

 その中心で、二人は向かい合っていた。
 鎖で縛られた王と、震えながら立つ花嫁候補。
 拒む理由が崩れ始める瞬間。
 心が条件を満たし始める瞬間。

 リリアーナの手首の光が、闇を押し返した。
 ほんの少し。
 でも確かに。

 ――選ぶ時が近い。

 それは祝福じゃない。
 戦場の合図みたいな、冷たい光だった。
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