婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜異世界花嫁物語〜

タマ マコト

文字の大きさ
16 / 20

第16話:選択の夜、初めての“怒り”

しおりを挟む


 雷鳴が遠のいても、空気は戻らなかった。
 部屋の隅に溜まった影はまだ濃く、鎖の金属臭と血の匂いが混じって、喉の奥に苦い味が残る。
 リリアーナの手首の紋章は、さっきほど眩しくはないけれど――火種みたいに熱を抱いたままだった。

 カイゼルは、鎖の中で肩で息をしていた。
 黒い紋が皮膚の上でゆっくり脈打ち、獣の濁りは引いたり戻ったりを繰り返す。
 理性はある。
 だからこそ、その目が痛いほど冷たい。

「……出て行けと言ったはずだ」

 低い声。
 でも、さっきみたいな吠えではない。
 代わりに、王の声が戻っている。
 王の声は、距離を作る声だ。

 リリアーナは唇を噛んだ。
 怖い。
 でもさっきより怖くない。
 怖さの正体が、少しだけ見えたからだ。

 この人は――自分が壊れるのが怖いんじゃない。
 自分が誰かを壊すのが怖い。

 扉が開き、足音が二つ重なった。
 ひとつは鎧の重い音。
 もうひとつは、白い布が擦れる軽い音。

 レオンハルトと、神殿の使徒らしき神官が部屋に入ってきた。
 レオンハルトの顔色は普段と変わらないはずなのに、目だけが硬い。
 状況が“最悪一歩手前”だと理解している目だ。

「陛下」

 レオンハルトが短く頭を下げる。
 神官も膝をつき、淡々と告げた。

「神殿は花嫁候補の身柄を求めます。
 紋章が強く反応しました。危険域です」

 危険域。
 その言葉で、リリアーナの背筋が冷えた。
 危険域。
 つまり、ここから先は“事故”では済まない領域。

 カイゼルは鎖を引いた。
 金属が鳴り、床の金具がきしむ。
 それだけで部屋の影が揺れた。

「……連れて行け」

 カイゼルが言った。
 短く、冷たく。

「リリアーナを神殿へ戻せ。今すぐだ」

 リリアーナの胸が、どん、と沈んだ。
 分かっていた。
 こう言う。こうする。
 この人は“遠ざける”ことで守る人だ。

 神官が立ち上がる。

「承知しました」

 レオンハルトがリリアーナに視線を向けた。
 “従え”という目。
 “今は逆らうな”という目。
 “生き残れ”という目。

 リリアーナは、一歩後ろへ下がりかけた。
 身体は従う癖がある。
 向こうの世界で染みついた癖。
 貴族社会で生きるための癖。
 上の者の命令には、笑顔で従う癖。

 ――婚約破棄のときも、そうだった。

 壇上で「婚約破棄」を宣言されて、言い返せなかった。
 言い返す権利があるのに、声が出なかった。
 周囲の視線に縫い付けられて、ただ立っていた。
 誰かが決めた“私の価値”を、飲み込むしかなかった。

 そして今。
 また誰かが決めようとしている。

 “戻れ”。
 “離れろ”。
 “近づくな”。

 守るためだと分かっていても――それでも、同じだ。
 私の意思は、また置き去りにされる。

 リリアーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
 涙じゃない。
 泣きそうなのに、涙ではない。

 これは、別の感情だ。

 胸の奥に溜まっていた悔しさ、屈辱、恐怖、意地。
 それが、ようやく一つの形になる。

 怒り。

 リリアーナは足を止めた。
 止めたというより、床に縫い付けた。
 そして、震える息を吸い込んだ。

「……嫌です」

 自分の声が自分の耳に届く。
 小さい。
 でも確かに届く。

 神官が眉を動かす。
 レオンハルトが目を細める。
 カイゼルの金の瞳が、リリアーナを刺した。

「……何だと」

 カイゼルの声が低くなる。
 圧が増す。
 王の声が、命令で殴ってくる。

 リリアーナの膝が震えた。
 怖い。
 怖いのに、足が動かない。
 動かないのは、恐怖で固まったからじゃない。

 ――踏みとどまったからだ。

 リリアーナは拳を握った。
 爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。

「神殿に戻れって……命令ですよね」

「命令だ」

「……じゃあ、なおさら嫌」

 自分でも驚くくらい、声が張れた。
 胸の奥の怒りが、喉を押し上げる。

 レオンハルトの目が見開かれた。
 神官も、一瞬だけ言葉を失う。
 この場で皇帝に逆らう女がいるなんて、想定していない。

 カイゼルの金の瞳が、鋭く光る。
 影が揺れる。
 黒い紋が脈打つ。

「……死にたいのか」

 カイゼルが吐き捨てる。
 脅しに聞こえる。
 でも、リリアーナは知ってしまった。
 この言葉は脅しじゃない。
 恐れだ。
 必死の恐れ。

 だからこそ、リリアーナの怒りは引かなかった。
 むしろ、胸の奥で燃え上がる。

「死にたくない!」

 リリアーナは初めて、声を張り上げた。
 優しさの声じゃない。
 媚びの声でもない。
 必死に自分を守る声。

「死にたくないけど……勝手に決められるのも、もう嫌!」

 言葉が止まらない。
 涙が滲む。
 でも今の涙は、弱さの涙じゃない。
 怒りが熱で溶かした涙だ。

「私の意思を、勝手に決めないで!」

 その瞬間、手首の紋章が熱く脈打った。
 雷の余韻みたいに、光が一瞬走る。
 部屋の影が揺れ、鎖が小さく鳴る。

 レオンハルトが息を呑む音がした。
 彼は軍人だ。
 怒鳴り声には慣れているはずなのに、今のリリアーナの声は別物だった。
 命令に対する反抗ではない。
 人生を取り戻す叫びだった。

 リリアーナは、喉が痛くなるほど息を吸い、続けた。

「婚約破棄のときも、私は何も言えなかった。
 勝手に罪を着せられて、勝手に価値を決められて、勝手に捨てられた。
 ……私、その瞬間の自分をずっと恥じてた」

 言葉が震える。
 震えるけど、止めない。

「だから今、ここで……選ぶ権利を取り戻したい」

 リリアーナは一歩踏み出した。
 鎖の届く範囲には入らない。
 でも、皇帝の前に立つ距離まで。

 自分の足で。
 逃げずに。

「私は神殿に戻るかどうか、あなたに決められたくない」

 カイゼルが、言葉を失っていた。
 彼の金の瞳が、揺れている。
 怒りと驚きと、そして――戸惑い。
 誰かが自分に“意思”をぶつけてくることに慣れていない顔。

 神官が口を開こうとした。

「花嫁候補は――」

「黙って」

 リリアーナが遮った。
 自分でも驚いた。
 神殿の使徒を黙らせるなんて、正気じゃない。
 でも、今は正気じゃないくらいじゃないと守れない。

「私、今、皇帝と話してる」

 言った瞬間、神官が固まった。
 レオンハルトが苦い顔をする。
 止めたい。でも止められない。
 リリアーナの意思が、もう走り出してしまったから。

 カイゼルの喉が鳴る。
 鎖を握る指先が震えている。
 呪いの震えと、心の震えが混じった震え。

「……お前は」

 カイゼルが絞り出す。

「俺を……殺したいのか」

 その言葉で、リリアーナの怒りが一瞬だけ形を変えた。
 怒りの中に、痛みが混じる。
 この人は、本気でそう思っている。
 近づく者を壊す自分を、心底恐れている。

 リリアーナは涙を拭わず、首を振った。

「違う」

 声を落とす。
 怒鳴るだけじゃ届かないところがある。

「私は、あなたを殺したくない。
 ……あなたが一人で壊れるのを見たくない」

 昨日と同じ言葉。
 でも、今日は違う。
 今日は“怒り”の後に言うから、重さが違う。
 逃げないと決めた言葉だから、嘘にならない。

 カイゼルの瞳が、ほんの僅かに弱くなる。
 弱くなるというより、硬さが剥がれる。

「……俺は、お前を守るために命令している」

「分かってる」

「分かってるなら従え」

 カイゼルが言い切る。
 王の論理。
 正しい。
 正しいのに、リリアーナの胸が拒む。

 リリアーナは息を吸い直した。
 胸の奥の怒りを、もう一度燃やす。
 怒りは破壊じゃない。
 自分を守る火だ。

「守るって、何?」

 リリアーナが問う。
 問いは刃。
 でも刃は、相手を傷つけるためじゃなく、鎖を切るために使う。

「私を遠ざけて、私が何も選べないまま生きるのが、守ること?」

 カイゼルの瞳が揺れる。
 答えが出ない揺れ。

「私、守られるだけの人形じゃない」

 リリアーナは胸を張った。
 怖いのに、胸を張る。
 それが今の自分の戦い方。

「私はここで、生きるって決めた。
 帰らないって決めた。
 ……あなたを“怪物”だって決めつけないって決めた」

 言葉を重ねるたび、手首の紋章が熱を帯びる。
 神器が反応しているのが分かる。
 心が“選ぶ”方向に向かっている証拠。

 カイゼルは、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
 まるで痛みを飲み込むみたいに。

 そして、ゆっくり目を開けた。

「……お前は、本当に厄介だ」

「知ってる」

 リリアーナは涙混じりに笑った。
 笑ってしまった。
 怖いのに笑う。
 でもそれは、折れていない笑いだ。

 レオンハルトが小さく息を吐いた。
 呆れなのか、感心なのか分からない。
 でも、その顔から“止めろ”の色が少し消えている。

 神官が硬い声で言う。

「陛下。神殿は――」

「黙れ」

 カイゼルが言った。
 低く、短く。

 その一言で神官の口が閉じる。
 皇帝の声は、やはり世界を止める。

 リリアーナは、その光景を見て思う。
 この人は、命令できる。
 命令で世界を動かせる。
 だからこそ、自分の心を動かすのが怖いのかもしれない。

 リリアーナは一歩、さらに前へ出た。
 鎖の範囲のぎりぎり。
 でも踏み込まない。
 自分の命と、彼の理性の境界線。

「私は、あなたの前に立つことを選ぶ」

 声はもう大きくない。
 でも、揺れない。

「神殿に戻るかどうかも、あなたに決められたくない。
 ……私が決める」

 カイゼルの金の瞳が、リリアーナを見つめたまま止まる。
 怒りでもなく、拒絶でもなく。
 ただ、見ている。
 “人を見る目”で。

 部屋の影が、少しだけ薄くなった気がした。
 雷鳴は遠いまま。
 鎖はまだ鳴る。
 呪いはまだここにある。

 それでも。

 リリアーナは、人生で初めて優しさ以外の感情で声を張った。
 そしてその声で、奪われた“選ぶ権利”を、自分の手に戻した。

 この夜。
 彼女は神殿に戻るのではなく、皇帝の前に立つことを選んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】政略婚約された令嬢ですが、記録と魔法で頑張って、現世と違って人生好転させます

なみゆき
ファンタジー
典子、アラフィフ独身女性。 結婚も恋愛も経験せず、気づけば父の介護と職場の理不尽に追われる日々。 兄姉からは、都合よく扱われ、父からは暴言を浴びせられ、職場では責任を押しつけられる。 人生のほとんどを“搾取される側”として生きてきた。 過労で倒れた彼女が目を覚ますと、そこは異世界。 7歳の伯爵令嬢セレナとして転生していた。 前世の記憶を持つ彼女は、今度こそ“誰かの犠牲”ではなく、“誰かの支え”として生きることを決意する。 魔法と貴族社会が息づくこの世界で、セレナは前世の知識を活かし、友人達と交流を深める。 そこに割り込む怪しい聖女ー語彙力もなく、ワンパターンの行動なのに攻略対象ぽい人たちは次々と籠絡されていく。 これはシナリオなのかバグなのか? その原因を突き止めるため、全ての証拠を記録し始めた。 【☆応援やブクマありがとうございます☆大変励みになりますm(_ _)m】

『皇族を名乗った伯爵家は、帝国に処理されました』 ―天然メイドは、今日も失敗する―

ふわふわ
恋愛
婚約破棄を経て、静かに屋敷を去った令嬢。 その後に残された伯爵家は、焦燥と虚勢を抱えたまま立て直しを図ろうとする。 だが、思惑はことごとく空回りする。 社交界での小さな失態。 資金繰りの綻び。 信用の揺らぎ。 そして、屋敷の中で起こる“ちょっとした”騒動の数々。 決して大事件ではない。 けれど積み重なれば、笑えない。 一方、帝国では新たな時代が静かに始まろうとしている。 血筋とは何か。 名乗るとは何か。 国家が守るものとは何か。 これは、派手な復讐劇ではない。 怒号も陰謀もない。 ただ―― 立場を取り違えた家が、ゆっくりと現実に追いつかれていく物語。 そして今日も、屋敷では誰かが小さな失敗をする。 世界は静かに、しかし確実に動いている。

無能と婚約破棄された公爵令嬢ですが、冷徹皇帝は有能より“無害”を選ぶそうです

鷹 綾
恋愛
「君は普通だ。……いや、普通以下だ」 王太子にそう言われ、婚約を破棄された公爵令嬢フォウ。 王国でも屈指の有能一族に生まれながら、彼女だけは“平凡”。 兄は天才、妹は可憐で才色兼備、両親も社交界の頂点―― そんな家の中で「普通」は“無能”と同義だった。 王太子が選んだのは、有能で華やかな妹。 だがその裏で、兄は教会を敵に回し、父は未亡人の名誉を踏みにじり、母は国家機密を売り、妹は不貞を重ね、そして王太子は――王を越えようとした。 越えた者から崩れていく。 やがて王太子は廃嫡、公爵家は解体。 ただ一人、何も奪わず、何も越えなかったフォウだけが切り離される。 そんな彼女に手を差し伸べたのは、隣国の若き冷徹皇帝。 「有能は制御が難しい。無害のほうが使える」 駒として選ばれたはずの“無能な令嬢”。 けれど―― 越えなかった彼女こそ、最後まで壊れなかった。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~

紫月 由良
恋愛
 辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。  魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。   ※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています

転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト
ファンタジー
前世の記憶を持って貴族令嬢として生きるセレフィーナは、感情を見せない“冷たい令嬢”として王都で誤解されていた。 王太子クラウスとの婚約も役割として受け入れていたが、舞踏会の夜、正義を掲げたクラウスの婚約破棄宣言によって彼女は一方的に切り捨てられる。 王都のクラウスに対する拍手と聖女マリアへの祝福に包まれる中、何も求めなかった彼女の沈黙が、王都という冷酷な世界の歪みを静かに揺らし始め、追放先の辺境での運命が動き出す。

婚約破棄されたので、隠していた聖女の力で聖樹を咲かせてみました

Megumi
恋愛
偽聖女と蔑まれ、婚約破棄されたイザベラ。 「お前は地味で、暗くて、何の取り柄もない」 元婚約者である王子はそう言い放った。 十年間、寡黙な令嬢を演じ続けた彼女。 その沈黙には、理由があった。 その夜、王都を照らす奇跡の光。 枯れた聖樹が満開に咲き誇り、人々は囁いた。 「真の聖女が目覚めた」と——

【完結】遺棄令嬢いけしゃあしゃあと幸せになる☆婚約破棄されたけど私は悪くないので侯爵さまに嫁ぎます!

天田れおぽん
ファンタジー
婚約破棄されましたが私は悪くないので反省しません。いけしゃあしゃあと侯爵家に嫁いで幸せになっちゃいます。  魔法省に勤めるトレーシー・ダウジャン伯爵令嬢は、婿養子の父と義母、義妹と暮らしていたが婚約者を義妹に取られた上に家から追い出されてしまう。  でも優秀な彼女は王城に住み、個性的な人たちに囲まれて楽しく仕事に取り組む。  一方、ダウジャン伯爵家にはトレーシーの親戚が乗り込み、父たち家族は追い出されてしまう。  トレーシーは先輩であるアルバス・メイデン侯爵令息と王族から依頼された仕事をしながら仲を深める。  互いの気持ちに気付いた二人は、幸せを手に入れていく。 。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.  他サイトにも連載中 2023/09/06 少し修正したバージョンと入れ替えながら更新を再開します。  よろしくお願いいたします。m(_ _)m

処理中です...