異世界花嫁物語〜婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜

タマ マコト

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第16話:選択の夜、初めての“怒り”

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 雷鳴が遠のいても、空気は戻らなかった。
 部屋の隅に溜まった影はまだ濃く、鎖の金属臭と血の匂いが混じって、喉の奥に苦い味が残る。
 リリアーナの手首の紋章は、さっきほど眩しくはないけれど――火種みたいに熱を抱いたままだった。

 カイゼルは、鎖の中で肩で息をしていた。
 黒い紋が皮膚の上でゆっくり脈打ち、獣の濁りは引いたり戻ったりを繰り返す。
 理性はある。
 だからこそ、その目が痛いほど冷たい。

「……出て行けと言ったはずだ」

 低い声。
 でも、さっきみたいな吠えではない。
 代わりに、王の声が戻っている。
 王の声は、距離を作る声だ。

 リリアーナは唇を噛んだ。
 怖い。
 でもさっきより怖くない。
 怖さの正体が、少しだけ見えたからだ。

 この人は――自分が壊れるのが怖いんじゃない。
 自分が誰かを壊すのが怖い。

 扉が開き、足音が二つ重なった。
 ひとつは鎧の重い音。
 もうひとつは、白い布が擦れる軽い音。

 レオンハルトと、神殿の使徒らしき神官が部屋に入ってきた。
 レオンハルトの顔色は普段と変わらないはずなのに、目だけが硬い。
 状況が“最悪一歩手前”だと理解している目だ。

「陛下」

 レオンハルトが短く頭を下げる。
 神官も膝をつき、淡々と告げた。

「神殿は花嫁候補の身柄を求めます。
 紋章が強く反応しました。危険域です」

 危険域。
 その言葉で、リリアーナの背筋が冷えた。
 危険域。
 つまり、ここから先は“事故”では済まない領域。

 カイゼルは鎖を引いた。
 金属が鳴り、床の金具がきしむ。
 それだけで部屋の影が揺れた。

「……連れて行け」

 カイゼルが言った。
 短く、冷たく。

「リリアーナを神殿へ戻せ。今すぐだ」

 リリアーナの胸が、どん、と沈んだ。
 分かっていた。
 こう言う。こうする。
 この人は“遠ざける”ことで守る人だ。

 神官が立ち上がる。

「承知しました」

 レオンハルトがリリアーナに視線を向けた。
 “従え”という目。
 “今は逆らうな”という目。
 “生き残れ”という目。

 リリアーナは、一歩後ろへ下がりかけた。
 身体は従う癖がある。
 向こうの世界で染みついた癖。
 貴族社会で生きるための癖。
 上の者の命令には、笑顔で従う癖。

 ――婚約破棄のときも、そうだった。

 壇上で「婚約破棄」を宣言されて、言い返せなかった。
 言い返す権利があるのに、声が出なかった。
 周囲の視線に縫い付けられて、ただ立っていた。
 誰かが決めた“私の価値”を、飲み込むしかなかった。

 そして今。
 また誰かが決めようとしている。

 “戻れ”。
 “離れろ”。
 “近づくな”。

 守るためだと分かっていても――それでも、同じだ。
 私の意思は、また置き去りにされる。

 リリアーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
 涙じゃない。
 泣きそうなのに、涙ではない。

 これは、別の感情だ。

 胸の奥に溜まっていた悔しさ、屈辱、恐怖、意地。
 それが、ようやく一つの形になる。

 怒り。

 リリアーナは足を止めた。
 止めたというより、床に縫い付けた。
 そして、震える息を吸い込んだ。

「……嫌です」

 自分の声が自分の耳に届く。
 小さい。
 でも確かに届く。

 神官が眉を動かす。
 レオンハルトが目を細める。
 カイゼルの金の瞳が、リリアーナを刺した。

「……何だと」

 カイゼルの声が低くなる。
 圧が増す。
 王の声が、命令で殴ってくる。

 リリアーナの膝が震えた。
 怖い。
 怖いのに、足が動かない。
 動かないのは、恐怖で固まったからじゃない。

 ――踏みとどまったからだ。

 リリアーナは拳を握った。
 爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。

「神殿に戻れって……命令ですよね」

「命令だ」

「……じゃあ、なおさら嫌」

 自分でも驚くくらい、声が張れた。
 胸の奥の怒りが、喉を押し上げる。

 レオンハルトの目が見開かれた。
 神官も、一瞬だけ言葉を失う。
 この場で皇帝に逆らう女がいるなんて、想定していない。

 カイゼルの金の瞳が、鋭く光る。
 影が揺れる。
 黒い紋が脈打つ。

「……死にたいのか」

 カイゼルが吐き捨てる。
 脅しに聞こえる。
 でも、リリアーナは知ってしまった。
 この言葉は脅しじゃない。
 恐れだ。
 必死の恐れ。

 だからこそ、リリアーナの怒りは引かなかった。
 むしろ、胸の奥で燃え上がる。

「死にたくない!」

 リリアーナは初めて、声を張り上げた。
 優しさの声じゃない。
 媚びの声でもない。
 必死に自分を守る声。

「死にたくないけど……勝手に決められるのも、もう嫌!」

 言葉が止まらない。
 涙が滲む。
 でも今の涙は、弱さの涙じゃない。
 怒りが熱で溶かした涙だ。

「私の意思を、勝手に決めないで!」

 その瞬間、手首の紋章が熱く脈打った。
 雷の余韻みたいに、光が一瞬走る。
 部屋の影が揺れ、鎖が小さく鳴る。

 レオンハルトが息を呑む音がした。
 彼は軍人だ。
 怒鳴り声には慣れているはずなのに、今のリリアーナの声は別物だった。
 命令に対する反抗ではない。
 人生を取り戻す叫びだった。

 リリアーナは、喉が痛くなるほど息を吸い、続けた。

「婚約破棄のときも、私は何も言えなかった。
 勝手に罪を着せられて、勝手に価値を決められて、勝手に捨てられた。
 ……私、その瞬間の自分をずっと恥じてた」

 言葉が震える。
 震えるけど、止めない。

「だから今、ここで……選ぶ権利を取り戻したい」

 リリアーナは一歩踏み出した。
 鎖の届く範囲には入らない。
 でも、皇帝の前に立つ距離まで。

 自分の足で。
 逃げずに。

「私は神殿に戻るかどうか、あなたに決められたくない」

 カイゼルが、言葉を失っていた。
 彼の金の瞳が、揺れている。
 怒りと驚きと、そして――戸惑い。
 誰かが自分に“意思”をぶつけてくることに慣れていない顔。

 神官が口を開こうとした。

「花嫁候補は――」

「黙って」

 リリアーナが遮った。
 自分でも驚いた。
 神殿の使徒を黙らせるなんて、正気じゃない。
 でも、今は正気じゃないくらいじゃないと守れない。

「私、今、皇帝と話してる」

 言った瞬間、神官が固まった。
 レオンハルトが苦い顔をする。
 止めたい。でも止められない。
 リリアーナの意思が、もう走り出してしまったから。

 カイゼルの喉が鳴る。
 鎖を握る指先が震えている。
 呪いの震えと、心の震えが混じった震え。

「……お前は」

 カイゼルが絞り出す。

「俺を……殺したいのか」

 その言葉で、リリアーナの怒りが一瞬だけ形を変えた。
 怒りの中に、痛みが混じる。
 この人は、本気でそう思っている。
 近づく者を壊す自分を、心底恐れている。

 リリアーナは涙を拭わず、首を振った。

「違う」

 声を落とす。
 怒鳴るだけじゃ届かないところがある。

「私は、あなたを殺したくない。
 ……あなたが一人で壊れるのを見たくない」

 昨日と同じ言葉。
 でも、今日は違う。
 今日は“怒り”の後に言うから、重さが違う。
 逃げないと決めた言葉だから、嘘にならない。

 カイゼルの瞳が、ほんの僅かに弱くなる。
 弱くなるというより、硬さが剥がれる。

「……俺は、お前を守るために命令している」

「分かってる」

「分かってるなら従え」

 カイゼルが言い切る。
 王の論理。
 正しい。
 正しいのに、リリアーナの胸が拒む。

 リリアーナは息を吸い直した。
 胸の奥の怒りを、もう一度燃やす。
 怒りは破壊じゃない。
 自分を守る火だ。

「守るって、何?」

 リリアーナが問う。
 問いは刃。
 でも刃は、相手を傷つけるためじゃなく、鎖を切るために使う。

「私を遠ざけて、私が何も選べないまま生きるのが、守ること?」

 カイゼルの瞳が揺れる。
 答えが出ない揺れ。

「私、守られるだけの人形じゃない」

 リリアーナは胸を張った。
 怖いのに、胸を張る。
 それが今の自分の戦い方。

「私はここで、生きるって決めた。
 帰らないって決めた。
 ……あなたを“怪物”だって決めつけないって決めた」

 言葉を重ねるたび、手首の紋章が熱を帯びる。
 神器が反応しているのが分かる。
 心が“選ぶ”方向に向かっている証拠。

 カイゼルは、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
 まるで痛みを飲み込むみたいに。

 そして、ゆっくり目を開けた。

「……お前は、本当に厄介だ」

「知ってる」

 リリアーナは涙混じりに笑った。
 笑ってしまった。
 怖いのに笑う。
 でもそれは、折れていない笑いだ。

 レオンハルトが小さく息を吐いた。
 呆れなのか、感心なのか分からない。
 でも、その顔から“止めろ”の色が少し消えている。

 神官が硬い声で言う。

「陛下。神殿は――」

「黙れ」

 カイゼルが言った。
 低く、短く。

 その一言で神官の口が閉じる。
 皇帝の声は、やはり世界を止める。

 リリアーナは、その光景を見て思う。
 この人は、命令できる。
 命令で世界を動かせる。
 だからこそ、自分の心を動かすのが怖いのかもしれない。

 リリアーナは一歩、さらに前へ出た。
 鎖の範囲のぎりぎり。
 でも踏み込まない。
 自分の命と、彼の理性の境界線。

「私は、あなたの前に立つことを選ぶ」

 声はもう大きくない。
 でも、揺れない。

「神殿に戻るかどうかも、あなたに決められたくない。
 ……私が決める」

 カイゼルの金の瞳が、リリアーナを見つめたまま止まる。
 怒りでもなく、拒絶でもなく。
 ただ、見ている。
 “人を見る目”で。

 部屋の影が、少しだけ薄くなった気がした。
 雷鳴は遠いまま。
 鎖はまだ鳴る。
 呪いはまだここにある。

 それでも。

 リリアーナは、人生で初めて優しさ以外の感情で声を張った。
 そしてその声で、奪われた“選ぶ権利”を、自分の手に戻した。

 この夜。
 彼女は神殿に戻るのではなく、皇帝の前に立つことを選んだ。
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