16 / 20
第16話:選択の夜、初めての“怒り”
しおりを挟む雷鳴が遠のいても、空気は戻らなかった。
部屋の隅に溜まった影はまだ濃く、鎖の金属臭と血の匂いが混じって、喉の奥に苦い味が残る。
リリアーナの手首の紋章は、さっきほど眩しくはないけれど――火種みたいに熱を抱いたままだった。
カイゼルは、鎖の中で肩で息をしていた。
黒い紋が皮膚の上でゆっくり脈打ち、獣の濁りは引いたり戻ったりを繰り返す。
理性はある。
だからこそ、その目が痛いほど冷たい。
「……出て行けと言ったはずだ」
低い声。
でも、さっきみたいな吠えではない。
代わりに、王の声が戻っている。
王の声は、距離を作る声だ。
リリアーナは唇を噛んだ。
怖い。
でもさっきより怖くない。
怖さの正体が、少しだけ見えたからだ。
この人は――自分が壊れるのが怖いんじゃない。
自分が誰かを壊すのが怖い。
扉が開き、足音が二つ重なった。
ひとつは鎧の重い音。
もうひとつは、白い布が擦れる軽い音。
レオンハルトと、神殿の使徒らしき神官が部屋に入ってきた。
レオンハルトの顔色は普段と変わらないはずなのに、目だけが硬い。
状況が“最悪一歩手前”だと理解している目だ。
「陛下」
レオンハルトが短く頭を下げる。
神官も膝をつき、淡々と告げた。
「神殿は花嫁候補の身柄を求めます。
紋章が強く反応しました。危険域です」
危険域。
その言葉で、リリアーナの背筋が冷えた。
危険域。
つまり、ここから先は“事故”では済まない領域。
カイゼルは鎖を引いた。
金属が鳴り、床の金具がきしむ。
それだけで部屋の影が揺れた。
「……連れて行け」
カイゼルが言った。
短く、冷たく。
「リリアーナを神殿へ戻せ。今すぐだ」
リリアーナの胸が、どん、と沈んだ。
分かっていた。
こう言う。こうする。
この人は“遠ざける”ことで守る人だ。
神官が立ち上がる。
「承知しました」
レオンハルトがリリアーナに視線を向けた。
“従え”という目。
“今は逆らうな”という目。
“生き残れ”という目。
リリアーナは、一歩後ろへ下がりかけた。
身体は従う癖がある。
向こうの世界で染みついた癖。
貴族社会で生きるための癖。
上の者の命令には、笑顔で従う癖。
――婚約破棄のときも、そうだった。
壇上で「婚約破棄」を宣言されて、言い返せなかった。
言い返す権利があるのに、声が出なかった。
周囲の視線に縫い付けられて、ただ立っていた。
誰かが決めた“私の価値”を、飲み込むしかなかった。
そして今。
また誰かが決めようとしている。
“戻れ”。
“離れろ”。
“近づくな”。
守るためだと分かっていても――それでも、同じだ。
私の意思は、また置き去りにされる。
リリアーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
涙じゃない。
泣きそうなのに、涙ではない。
これは、別の感情だ。
胸の奥に溜まっていた悔しさ、屈辱、恐怖、意地。
それが、ようやく一つの形になる。
怒り。
リリアーナは足を止めた。
止めたというより、床に縫い付けた。
そして、震える息を吸い込んだ。
「……嫌です」
自分の声が自分の耳に届く。
小さい。
でも確かに届く。
神官が眉を動かす。
レオンハルトが目を細める。
カイゼルの金の瞳が、リリアーナを刺した。
「……何だと」
カイゼルの声が低くなる。
圧が増す。
王の声が、命令で殴ってくる。
リリアーナの膝が震えた。
怖い。
怖いのに、足が動かない。
動かないのは、恐怖で固まったからじゃない。
――踏みとどまったからだ。
リリアーナは拳を握った。
爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。
「神殿に戻れって……命令ですよね」
「命令だ」
「……じゃあ、なおさら嫌」
自分でも驚くくらい、声が張れた。
胸の奥の怒りが、喉を押し上げる。
レオンハルトの目が見開かれた。
神官も、一瞬だけ言葉を失う。
この場で皇帝に逆らう女がいるなんて、想定していない。
カイゼルの金の瞳が、鋭く光る。
影が揺れる。
黒い紋が脈打つ。
「……死にたいのか」
カイゼルが吐き捨てる。
脅しに聞こえる。
でも、リリアーナは知ってしまった。
この言葉は脅しじゃない。
恐れだ。
必死の恐れ。
だからこそ、リリアーナの怒りは引かなかった。
むしろ、胸の奥で燃え上がる。
「死にたくない!」
リリアーナは初めて、声を張り上げた。
優しさの声じゃない。
媚びの声でもない。
必死に自分を守る声。
「死にたくないけど……勝手に決められるのも、もう嫌!」
言葉が止まらない。
涙が滲む。
でも今の涙は、弱さの涙じゃない。
怒りが熱で溶かした涙だ。
「私の意思を、勝手に決めないで!」
その瞬間、手首の紋章が熱く脈打った。
雷の余韻みたいに、光が一瞬走る。
部屋の影が揺れ、鎖が小さく鳴る。
レオンハルトが息を呑む音がした。
彼は軍人だ。
怒鳴り声には慣れているはずなのに、今のリリアーナの声は別物だった。
命令に対する反抗ではない。
人生を取り戻す叫びだった。
リリアーナは、喉が痛くなるほど息を吸い、続けた。
「婚約破棄のときも、私は何も言えなかった。
勝手に罪を着せられて、勝手に価値を決められて、勝手に捨てられた。
……私、その瞬間の自分をずっと恥じてた」
言葉が震える。
震えるけど、止めない。
「だから今、ここで……選ぶ権利を取り戻したい」
リリアーナは一歩踏み出した。
鎖の届く範囲には入らない。
でも、皇帝の前に立つ距離まで。
自分の足で。
逃げずに。
「私は神殿に戻るかどうか、あなたに決められたくない」
カイゼルが、言葉を失っていた。
彼の金の瞳が、揺れている。
怒りと驚きと、そして――戸惑い。
誰かが自分に“意思”をぶつけてくることに慣れていない顔。
神官が口を開こうとした。
「花嫁候補は――」
「黙って」
リリアーナが遮った。
自分でも驚いた。
神殿の使徒を黙らせるなんて、正気じゃない。
でも、今は正気じゃないくらいじゃないと守れない。
「私、今、皇帝と話してる」
言った瞬間、神官が固まった。
レオンハルトが苦い顔をする。
止めたい。でも止められない。
リリアーナの意思が、もう走り出してしまったから。
カイゼルの喉が鳴る。
鎖を握る指先が震えている。
呪いの震えと、心の震えが混じった震え。
「……お前は」
カイゼルが絞り出す。
「俺を……殺したいのか」
その言葉で、リリアーナの怒りが一瞬だけ形を変えた。
怒りの中に、痛みが混じる。
この人は、本気でそう思っている。
近づく者を壊す自分を、心底恐れている。
リリアーナは涙を拭わず、首を振った。
「違う」
声を落とす。
怒鳴るだけじゃ届かないところがある。
「私は、あなたを殺したくない。
……あなたが一人で壊れるのを見たくない」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は違う。
今日は“怒り”の後に言うから、重さが違う。
逃げないと決めた言葉だから、嘘にならない。
カイゼルの瞳が、ほんの僅かに弱くなる。
弱くなるというより、硬さが剥がれる。
「……俺は、お前を守るために命令している」
「分かってる」
「分かってるなら従え」
カイゼルが言い切る。
王の論理。
正しい。
正しいのに、リリアーナの胸が拒む。
リリアーナは息を吸い直した。
胸の奥の怒りを、もう一度燃やす。
怒りは破壊じゃない。
自分を守る火だ。
「守るって、何?」
リリアーナが問う。
問いは刃。
でも刃は、相手を傷つけるためじゃなく、鎖を切るために使う。
「私を遠ざけて、私が何も選べないまま生きるのが、守ること?」
カイゼルの瞳が揺れる。
答えが出ない揺れ。
「私、守られるだけの人形じゃない」
リリアーナは胸を張った。
怖いのに、胸を張る。
それが今の自分の戦い方。
「私はここで、生きるって決めた。
帰らないって決めた。
……あなたを“怪物”だって決めつけないって決めた」
言葉を重ねるたび、手首の紋章が熱を帯びる。
神器が反応しているのが分かる。
心が“選ぶ”方向に向かっている証拠。
カイゼルは、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
まるで痛みを飲み込むみたいに。
そして、ゆっくり目を開けた。
「……お前は、本当に厄介だ」
「知ってる」
リリアーナは涙混じりに笑った。
笑ってしまった。
怖いのに笑う。
でもそれは、折れていない笑いだ。
レオンハルトが小さく息を吐いた。
呆れなのか、感心なのか分からない。
でも、その顔から“止めろ”の色が少し消えている。
神官が硬い声で言う。
「陛下。神殿は――」
「黙れ」
カイゼルが言った。
低く、短く。
その一言で神官の口が閉じる。
皇帝の声は、やはり世界を止める。
リリアーナは、その光景を見て思う。
この人は、命令できる。
命令で世界を動かせる。
だからこそ、自分の心を動かすのが怖いのかもしれない。
リリアーナは一歩、さらに前へ出た。
鎖の範囲のぎりぎり。
でも踏み込まない。
自分の命と、彼の理性の境界線。
「私は、あなたの前に立つことを選ぶ」
声はもう大きくない。
でも、揺れない。
「神殿に戻るかどうかも、あなたに決められたくない。
……私が決める」
カイゼルの金の瞳が、リリアーナを見つめたまま止まる。
怒りでもなく、拒絶でもなく。
ただ、見ている。
“人を見る目”で。
部屋の影が、少しだけ薄くなった気がした。
雷鳴は遠いまま。
鎖はまだ鳴る。
呪いはまだここにある。
それでも。
リリアーナは、人生で初めて優しさ以外の感情で声を張った。
そしてその声で、奪われた“選ぶ権利”を、自分の手に戻した。
この夜。
彼女は神殿に戻るのではなく、皇帝の前に立つことを選んだ。
1
あなたにおすすめの小説
〈完結〉妹に婚約者を獲られた私は実家に居ても何なので、帝都でドレスを作ります。
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」テンダー・ウッドマンズ伯爵令嬢は両親から婚約者を妹に渡せ、と言われる。
了承した彼女は帝都でドレスメーカーの独立工房をやっている叔母のもとに行くことにする。
テンダーがあっさりと了承し、家を離れるのには理由があった。
それは三つ下の妹が生まれて以来の両親の扱いの差だった。
やがてテンダーは叔母のもとで服飾を学び、ついには?
100話まではヒロインのテンダー視点、幕間と101話以降は俯瞰視点となります。
200話で完結しました。
今回はあとがきは無しです。
私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜
AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。
そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。
さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。
しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。
それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。
だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。
そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
婚約破棄されましたが、帝国皇女なので元婚約者は投獄します
けんゆう
ファンタジー
「お前のような下級貴族の養女など、もう不要だ!」
婚約者として五年間尽くしたフィリップに、冷たく告げられたソフィア。
他の貴族たちからも嘲笑と罵倒を浴び、社交界から追放されかける。
だが、彼らは知らなかった――。
ソフィアは、ただの下級貴族の養女ではない。
そんな彼女の元に届いたのは、隣国からお兄様が、貿易利権を手土産にやってくる知らせ。
「フィリップ様、あなたが何を捨てたのかーー思い知らせて差し上げますわ!」
逆襲を決意し、華麗に着飾ってパーティーに乗り込んだソフィア。
「妹を侮辱しただと? 極刑にすべきはお前たちだ!」
ブチギレるお兄様。
貴族たちは青ざめ、王国は崩壊寸前!?
「ざまぁ」どころか 国家存亡の危機 に!?
果たしてソフィアはお兄様の暴走を止め、自由な未来を手に入れられるか?
「私の未来は、私が決めます!」
皇女の誇りをかけた逆転劇、ここに開幕!
聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~
白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。
王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。
彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。
#表紙絵は、もふ様に描いていただきました。
#エブリスタにて連載しました。
何年も相手にしてくれなかったのに…今更迫られても困ります
Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のアンジュは、子供の頃から大好きだった幼馴染のデイビッドに5度目の婚約を申し込むものの、断られてしまう。さすがに5度目という事もあり、父親からも諦める様言われてしまった。
自分でも分かっている、もう潮時なのだと。そんな中父親から、留学の話を持ち掛けられた。環境を変えれば、気持ちも落ち着くのではないかと。
彼のいない場所に行けば、彼を忘れられるかもしれない。でも、王都から出た事のない自分が、誰も知らない異国でうまくやっていけるのか…そんな不安から、返事をする事が出来なかった。
そんな中、侯爵令嬢のラミネスから、自分とデイビッドは愛し合っている。彼が騎士団長になる事が決まった暁には、自分と婚約をする事が決まっていると聞かされたのだ。
大きなショックを受けたアンジュは、ついに留学をする事を決意。専属メイドのカリアを連れ、1人留学の先のミラージュ王国に向かったのだが…
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
政略結婚の意味、理解してますか。
章槻雅希
ファンタジー
エスタファドル伯爵家の令嬢マグノリアは王命でオルガサン侯爵家嫡男ペルデルと結婚する。ダメな貴族の見本のようなオルガサン侯爵家立て直しが表向きの理由である。しかし、命を下した国王の狙いはオルガサン家の取り潰しだった。
マグノリアは仄かな恋心を封印し、政略結婚をする。裏のある結婚生活に楽しみを見出しながら。
全21話完結・予約投稿済み。
『小説家になろう』(以下、敬称略)・『アルファポリス』・『pixiv』・自サイトに重複投稿。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる