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第18話:選択の代償、花嫁は「守る側」に立つ
しおりを挟むその朝、城の窓ガラスが、やけに薄く感じた。
外の空は晴れているのに、光がまっすぐ入ってこない。光の端が歪んで、輪郭がぼやける。昨日の雷鳴の余韻が、まだ世界のどこかに引っかかっているみたいだった。
リリアーナは自分の手首を見た。
布の下で、紋章が小さく熱を持っている。燃えるほどじゃない。けれど、忘れさせない程度に、ずっとそこにいる。
――選ぶ時が近い。
あの部屋で、空気に刻まれた“示し”が、胸の内側でまだ脈を打っている。
眠りが浅かったのは、そのせいだ。夢の中でも、鎖が鳴っていた。影が揺れていた。金の瞳が、怒りと恐れで揺れていた。
扉がノックされた。
「リリアーナ様、神殿からの使者が到着しました」
イリスの声はいつも通り丁寧だった。けれど、その丁寧さの奥に硬さがある。
“今日の話は軽くない”と分かっている声。
「……入って」
扉が開く。
入ってきたのは神官ではなかった。白い衣の女性。神殿の香りを纏っているのに、祈りの柔らかさが薄い。目が澄んでいる。澄んでいるから冷たい。
「花嫁候補、リリアーナ・アルフェン」
彼女は膝をつくでもなく、まっすぐ頭を下げた。礼儀はある。だが、従属はない。
神殿は皇帝に跪かない。そういう構造が、この短い仕草だけで伝わってくる。
「セラフィナ様より“裁定の共有”を命じられました」
「裁定……?」
言葉にした瞬間、胸の奥がざわついた。
白砂神殿。光の鏡。証言者。真実に焼かれる。
昨夜、カイゼルが命じた“神殿へ戻せ”は、結局撤回されていない。撤回されていないのに、リリアーナは今もここにいる。
誰かが止めた。
誰かが、今は動かすべきじゃないと判断した。
それが皇帝本人なのか、レオンハルトなのか、それとも――神器なのか。
分からない。でも、今ここにこの使者が来たなら、話は避けられない。
「場所を移します。陛下と側近、花嫁候補が同席すること」
「……分かった」
リリアーナは深く息を吸って、立ち上がった。
怖い。
でも、怖いからこそ背筋を伸ばす。背筋を折ったら、また誰かに決められるから。
***
通されたのは、玉座の間ではなく、玉座の裏にある小さな評議室だった。
大広間の豪奢さはなく、窓も少ない。壁には地図と古い紋章画。机は長く、椅子は固い。
ここは“話を決める部屋”だ。
舞台ではない。裏側だ。
レオンハルトが先にいた。
黒い軍装。普段通りの顔。でも目は寝ていない。昨夜を越えた者の目だ。
「来たか」
「うん。……」
(……カイゼルは?)名前を呼びそうになって、飲み込む。
昨夜、名前を呼んだ。呼んでしまった。あの揺れを見てしまった。
呼び方ひとつで距離が変わるのが怖い。
レオンハルトが短く息を吐く。
「陛下は……今、封印区画にいる。鎖は外した。だが完全ではない」
「……大丈夫?」
口から出た心配は、すぐに自分の喉を掴んだ。
大丈夫なわけがない。
十年前、守れなかった花嫁候補の死で暴走した。
昨夜、あれは“前兆”だった。
前兆で済んだのは、たぶん――リリアーナがいたから。
その事実が、怖いほど重い。
扉が開き、カイゼルが入ってきた。
黒い外套。いつもの王の姿。
だが、歩く足取りがほんの少しだけ硬い。
視線は鋭いのに、奥に疲労がある。
リリアーナは自然に息を止めてしまった。
昨夜の血の匂いが脳裏をよぎる。黒い紋。鎖。獣の目。
目の前の男が同じ人間だと、頭が追いつかない。
「……始めろ」
カイゼルの声は短い。
そして、視線が一瞬だけリリアーナに落ちる。
落ちたのに、すぐ逸れる。
近づけない。近づくな。
昨夜の“拒む理由”が、まだ身体に染みついている。
神殿の使者が机の上に小さな箱を置いた。
白い石で作られた箱。蓋には神殿の紋。
箱が開かれると、中には薄い水晶板があった。鏡の欠片みたいな板。
「これは“裁定板”です。白砂神殿の裁定を、改竄なく共有します」
淡々とした声。
淡々としているのに、空気が重くなる。
言葉は祈りじゃない。判決だ。
水晶板が淡く光る。
光の中に、文字が浮かぶ。読めないはずの文字。
でも意味だけが胸に落ちてくる。神器の言葉は、理解という形で侵入する。
――選ばれなかった者は、真実を見る資格を与えられた。
――真実を歪めた者は、真実に焼かれる。
――証言者として帰還させる。
リリアーナの心臓が跳ねた。
証言者。
帰還。
ここで、矛盾が解ける。
“帰還”はこの世界への帰還ではない。
彼らの世界――リリアーナの元世界への帰還だ。
カイゼルの眉がわずかに動く。
「……元の世界へ返したか」
「はい。門を開きました。神器の権限により、干渉は最小限に」
“最小限”。
その言葉が、リリアーナの胸に刺さる。
門は危険だ。干渉は争いの火種。
それでも神殿は開けた。
つまり――それだけ必要だった。
レオンハルトが低く言う。
「証言者として返す……向こうの世界で、真実が公開される」
「はい」
神殿の使者は頷く。
「エドワード、マリエッタ、彼らは英雄ではありません。客人でもありません。
白砂神殿の裁定に従い、証言を強制されます。
偽造の経緯、共犯の形、リリアーナ・アルフェンへの冤罪――すべて」
“強制される”。
その単語に、リリアーナは少しだけ震えた。
断罪は完成した。
怒鳴って復讐する必要はない。拳を振り上げる必要もない。
事実が、彼らの喉を掴む。逃げ道を塞ぐ。
そして、その事実は――リリアーナの名誉を、向こうの世界で取り戻す。
胸が熱くなる。
でも、その熱は喜びだけじゃない。
遅すぎる、という痛みが混じる。
「……私は」
気づけば、声が出ていた。
誰に向けた声でもない。自分の中から溢れた声。
「私は、戻って言い返したかった」
レオンハルトが視線を寄越す。
カイゼルは何も言わない。言えないのかもしれない。
リリアーナは、手首を押さえた。
紋章が、じわりと熱を持つ。
心が動くと、ここが反応する。
“花嫁の条件”は、感情を嘘で塗れない。
「戻って、私じゃないって言いたかった。
でも今、門が開いて真実が公開されるなら……私はもう、戻らなくてもいいのかもしれない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
未練が薄くなるのではない。
未練が“形を変える”。
悔しさが、前へ進む力に変わる。
神殿の使者が、次の文を読み上げた。
「続いて、神器の追加裁定――“呪い”について」
リリアーナの身体が硬くなる。
来た。
逃げられない核心。
水晶板の光が強くなる。
文字が入れ替わり、意味が胸に落ちてくる。
――呪いは孤独と拒絶に反応し、暴走する。
――抑制は封印ではなく、共有によって成立する。
――花嫁の完成条件は、心から皇帝を選ぶこと。
――皇帝を選ぶとは、愛の宣言ではない。責任の共有である。
リリアーナは息を呑んだ。
責任の共有。
つまり、鎖を一緒に持つこと。
呪いの重みを、隣で受けること。
守られるのではなく、共に背負う。
そして、それは――愛と近い。
愛と言うにはまだ怖い。
でも、愛じゃないと言い切るには、胸が痛い。
カイゼルの声が落ちた。
「……くだらない」
いつもの拒絶の言葉。
だが、その言葉は震えていた。
怒りではない。恐れだ。
十年前の影が、まだ彼の背中に張り付いている。
「責任を共有すれば制御できる?
共有した相手が死んだら、また暴走するだけだ」
言いながら、彼の指が微かに震える。
昨夜の震え。
鎖の音が幻聴みたいに耳の奥で鳴る。
リリアーナは、胸が痛くなるのを止められなかった。
この人は、強い。
強いから命令できる。
でも本当は、弱い。
弱いから拒む。
拒むことでしか守れないと思っている。
神殿の使者が淡々と返す。
「呪いは消えません。ですが暴走は止められます。
“誰かを失う恐怖”を、拒絶で閉じ込め続けたから歪んだ。
ならば、恐怖を分け合い、拒絶を解くしかない」
その言葉は、正論だった。
正論は冷たい。
でも冷たい正論だけが救う時もある。
レオンハルトが低く言った。
「陛下。……だから昨夜、花嫁候補の紋章が反応した」
カイゼルの瞳が鋭くなる。
「黙れ」
「黙りません。昨夜は“前兆”で済んだ。
済んだ理由がある。あなたも分かっているはずだ」
レオンハルトの声は、忠誠の声ではない。
現実の声だ。
守るために、嫌われる声。
カイゼルは言葉を失い、視線を逸らした。
逸らした先に、リリアーナがいる。
逸らしたのに、結局そこへ戻ってしまう。
リリアーナは、胸の奥で決めた。
ここで縮こまったら、また誰かに決められる。
選ぶ権利を取り戻したのに、また渡すことになる。
「……私」
声が震える。
でも、言う。
「“皇帝を選ぶ”って、責任を共有することだって言うなら」
自分の手首が熱い。
逃げるな、と紋章が言っている気がする。
「私は、怖い」
正直に言う。
強がりを捨てるのは、今の自分にとって勇気だ。
「呪いが暴走したら、死ぬかもしれない。
巻き込まれて誰かが死ぬかもしれない。
私のせいで世界が壊れるかもしれない」
言葉にすると、恐怖が輪郭を持つ。
輪郭を持つと、少しだけ扱える。
リリアーナは、カイゼルを見た。
金の瞳。
冷たいのに、奥が揺れている。
「でも、あなたが一人で鎖を握り続けるほうが――もっと怖い」
言った瞬間、カイゼルの瞳がわずかに揺れた。
拒絶が崩れる音。
小さな、でも確かな音。
「……お前は、何も分かっていない」
カイゼルが低く言う。
怒りの形をしているけれど、怒りの温度が薄い。
リリアーナは首を振った。
「分かってない。だから、分かろうとしてる」
その返しに、レオンハルトが一瞬目を閉じた。
呆れと、覚悟と、諦めが混じった顔。
神殿の使者が、最後の文を告げる。
「花嫁候補リリアーナ・アルフェンは、裁定により“守る側”に立つ資格を得ました」
「守る側……?」
リリアーナが呟くと、使者は頷いた。
「あなたは真実を歪められた者であり、真実に耐えた者です。
その者は、真実を守る側になります。
赦しではなく、立つこと。
それが神器の求める花嫁の姿」
胸の奥が、静かに熱くなる。
赦すのではなく立つ。
復讐ではなく、自己回復。
その言葉は、今のリリアーナにぴったりだった。
カイゼルが、短く言う。
「……勝手な話だ」
そう言いながら、彼の声はどこか疲れている。
拒みたい。
でも拒めない。
拒めば暴走する。
拒む理由が、崩れていく。
リリアーナは息を吐いた。
吐いた息が少しだけ軽い。
門の向こうで真実が公開されるなら、名誉は取り戻される。
戻れない世界は、もう“未練の檻”じゃない。
過去を持ったまま、未来を選べる場所になる。
そして、この世界での問題は、まだ終わっていない。
皇帝の呪い。
半神の力。
孤独と拒絶が生む歪み。
責任の共有。
心から選ぶ。
それは恋の言葉より重い。
でも――重いからこそ、本物になれる。
リリアーナは、机の端に置かれた水晶板の光を見つめ、静かに言った。
「……私、逃げない」
その言葉に、紋章が小さく熱を返した。
小さな肯定。
小さな約束。
カイゼルは何も言わなかった。
けれど、金の瞳が一瞬だけ、リリアーナの方を見た。
見るだけ。
それだけで、空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
裁定は共有された。
断罪は、向こうの世界で静かに進む。
そして異世界の中心では、別の守るが始まる。
――孤独の真実を守る。拒絶の真実を守る。
壊れる未来を、二人で守る。
その最初の一歩が、今、机の上の淡い光として揺れていた。
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