異世界花嫁物語〜婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜

タマ マコト

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第19話:呪いの正体、半神が縛られていたもの

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 夜は、音が大きい。
 昼間は紛れていたものが、闇の中で輪郭を取り戻す。足音、呼吸、遠くの扉の軋み。
 そして――鎖の幻聴。

 リリアーナは自室のベッドに腰掛けたまま、しばらく動けなかった。
 裁定の共有の時に見た裁定板の光が、まだ目の裏に残っている。
 “呪いは孤独と拒絶に反応し、暴走する”。
 “共有によって制御される”。
 “皇帝を選ぶとは責任の共有”。

 それは恋の話じゃない。
 でも、恋より重い。
 重いからこそ、心が怖がる。

 ――本当に、私が隣に立っていいの?

 手首の紋章を押さえると、淡く熱が返ってくる。
 逃げるな、と言われているみたいで、腹が立つ。
 腹が立つのに、同じくらい安心する。
 この熱は、ひとりじゃない証拠にも思えたから。

 コン、コン。

 控えめなノック。
 イリスではない。音が違う。
 規律の音。軍人の音。

「入って」

 扉が開き、レオンハルトが入ってきた。
 彼は部屋の中央で立ち止まり、いつも通りの顔で礼をする。
 いつも通りに見えるのに、目の下が僅かに暗い。眠れていない。城全体が眠れていない。

「今から来られるか」

 短い言葉。
 余計な説明はない。
 でも、説明しなくても分かる。

「……封印区画?」

 リリアーナが問うと、レオンハルトは頷いた。

「陛下が許可した」

 許可。
 その単語が、胸の奥を小さく殴る。
 “命令”ではない。
 “拒絶”でもない。

 つまり、カイゼルの中で何かが崩れ、何かが選ばれたということだ。

 リリアーナは立ち上がった。
 足が震える。
 それでも、震えは逃げたい震えじゃない。
 踏み出す前の震えだ。

「行く」

 ***

 封印区画へ向かう廊下は、城の他の場所と空気が違った。
 湿り気のない冷たさ。
 香りが薄い。
 人間の匂いが消されている。

 壁には黒い布が垂れ、窓は塞がれている。
 光が少ない分、影が濃い。
 濃い影は、昨夜の異常気象を思い出させる。
 雷鳴。裂ける空。増える影。

 リリアーナは自然に手首を押さえた。
 紋章は静かだ。
 静かだからこそ、嵐の前みたいで怖い。

 扉の前に、神殿の神官が二人立っていた。
 白衣。無表情。祈りの気配は薄い。
 道具としての神官、という感じだった。

「花嫁候補リリアーナ・アルフェン」

 片方が淡々と名を呼ぶ。

「入室を許可する。ただし、封印に触れないこと」

「触れるつもりはない」

 リリアーナが答えると、神官は頷き、扉を開いた。

 中は薄暗かった。
 床には巨大な魔法陣。
 鎖の金具。
 壁に刻まれた古い文字。
 空気に、鉄と冷たい花の匂いが混じっている。

 そして中央に――カイゼル。

 鎖は外れている。
 だが、外れているだけで、自由ではない。
 彼は椅子に座っていた。背筋は伸びている。
 それなのに、肩の線がどこか重い。
 鎖を外しても、鎖が心に残っている人間の背中だった。

 金の瞳がこちらを見た。
 濁りはない。
 けれど、深い疲れがある。
 疲れの奥に、諦めがある。
 諦めの奥に、恐れがある。

「……来たか」

 声が低い。
 いつもの命令の声より、少しだけ人間の声。

 リリアーナは喉が鳴った。

「うん。……許可、ありがとう」

「礼などいらない」

 即答。
 でも、その即答はいつもの刺じゃなくて、照れ隠しに見えた。
 そう見えてしまう自分が怖い。
 でも、そう見えるほどに、彼の拒絶が薄くなっている。

 レオンハルトが一歩前に出た。

「陛下。花嫁候補に説明を」

 カイゼルの眉が僅かに動く。
 “説明”という行為が嫌いなのだ。
 言葉にした瞬間に弱さになるから。

「……必要ない」

「必要です」

 レオンハルトは譲らない。
 忠誠ではなく現実で動く男の目をしている。

 神官の一人が前へ出た。
 セラフィナではない。だが、声は同じ温度だった。

「呪いの正体を共有します。花嫁候補が責任を共有するなら、理解が必要」

 “責任を共有するなら”。
 まだ決まっていない。
 決めるのはリリアーナの意思だ。
 その前提が、胸を少し救う。

 神官が床の魔法陣の一部を杖で軽く叩く。
 音が澄んで響き、空気が一段冷える。
 魔法陣が淡く光り、壁の古文字が浮かび上がった。

「呪いは、半神の力そのものではありません」

 淡々とした声が始まる。

「陛下の神性は“強すぎる器”です。
 器が強いがゆえに、感情が器に刻まれ、力が歪む」

 リリアーナは息を呑んだ。
 感情が刻まれる。
 つまり、心の傷がそのまま世界を傷つける。

「十年前、アイリス・ヴェルナードが死亡した瞬間」

 その名が出た瞬間、カイゼルの指が僅かに動いた。
 動いて、止まる。
 掴もうとして掴めない動き。

「陛下は“守れなかった”という事実を受け入れられず、力が暴走した」

 神官の声は冷たい。
 誰かの死を語る声なのに、涙がない。
 その無慈悲さが、逆に真実を濃くする。

「以降、陛下は“近づけない”ことで世界を守ってきた。
 その選択は正しかった。少なくとも、犠牲を増やさなかった」

 正しかった。
 その言葉に、リリアーナの胸が痛む。
 正しい孤独。
 正しい拒絶。
 そんなものがあるのが、この世界の残酷さだ。

 神官は続ける。

「しかし、拒絶は恐怖を封じ込めるだけです。恐怖は消えない。
 恐怖を閉じ込め続けた結果、呪いは“拒絶そのもの”に反応する構造になった」

 リリアーナはゆっくり理解した。
 愛した。失った。
 怖い。
 二度と失いたくない。
 だから拒む。
 拒むほど怖くなる。
 怖くなるほど力が歪む。

 負の螺旋。
 鎖は金属じゃなく、恐怖でできている。

「呪いの正体は、恐怖です」

 神官が言い切った瞬間、空気が重くなった。

「愛する者を失う恐怖。
 守ろうとして壊す恐怖。
 自分の力が、世界を焼く恐怖」

 リリアーナは、カイゼルを見た。
 彼は目を逸らさない。
 逸らさないけれど、瞳の奥が暗い。
 暗いほどに、恐怖がそこにいる。

 リリアーナの喉が痛んだ。
 婚約破棄のときの自分を思い出す。
 笑われる恐怖。捨てられる恐怖。
 小さな恐怖だ。
 でも、恐怖は同じ成分でできている。
 大きさが違うだけで。

 レオンハルトが口を開いた。

「陛下は“呪いを消す”ことを望んだ。だが消えない」

 神官が頷く。

「消せません。
 半神の力は陛下の血です。血から恐怖を抜けば、陛下は陛下ではなくなる」

 リリアーナは息を呑む。
 呪いを消す=皇帝の人格の喪失。
 そんな解決は、解決じゃない。

「だから、共有です」

 神官の声が落ちる。

「呪いは、孤独で増幅する。
 拒絶で増幅する。
 ならば、恐怖を共有し、拒絶をほどくしかない」

 共有。
 責任の共有。
 恐怖の共有。

 カイゼルが低く笑った。
 笑いというより、喉から漏れた音。

「……他人に分けられるほど軽い恐怖なら、最初から呪いにならない」

 その言葉に、リリアーナの胸がズキンとした。
 分ける。
 軽くない。
 重い。
 重すぎて、誰にも渡せないと思ってしまう。

 でも、だからこそ――。

 リリアーナは一歩、前に出た。
 鎖の金具が床に散らばる範囲の手前まで。
 触れない。
 けれど、距離を縮める。

「分けるんじゃない」

 声が震える。
 でも、言葉は落ちない。

「一緒に持つ、ってことだよね」

 カイゼルの金の瞳が揺れた。
 揺れが、拒絶を剥がす。

「……お前は」

 カイゼルが言いかけて止まる。
 “愚かだ”と言いたいのに、言うと壊れてしまう何かがある。

 神官が静かに言った。

「花嫁候補。あなたに確認します」

 リリアーナは神官を見る。
 白衣の目は感情が薄い。
 でも、その薄さが公平だ。

「責任の共有は、痛みの共有です。
 陛下の呪いの痛みはあなたに流れます。
 陛下の恐怖はあなたに刺さります。
 あなたが逃げれば、陛下は再び孤独になり、呪いは増幅します」

 逃げれば、増幅。
 つまり、途中で投げ出すのが最悪だ。

「それでも、隣に立ちますか」

 問われた瞬間、リリアーナの心臓が強く跳ねた。
 ここだ。
 選ぶ時が近い。
 その“近い”は、今だ。

 リリアーナは、答えを急がなかった。
 急げば、昔の自分になる。
 場の空気に押されて頷く自分になる。
 それだけは嫌だった。

 彼女は自分の手首を見た。
 淡い紋章。
 門の形。
 この門は逃げ道じゃない。
 選ぶための門だ。

 リリアーナは、カイゼルを見た。

 怖い。
 でも、その怖さは“彼が怪物だから”じゃない。
 “彼が人間だから”怖い。
 人間は失う。人間は壊れる。
 そして、この人は壊れたときに世界を巻き込む。

 リリアーナは唇を噛んだ。
 婚約破棄のとき、守ると言って守らなかった男。
 ここにいるのは、守れないから遠ざけた男。

 どちらが孤独か。
 答えは簡単じゃない。

 でも、簡単じゃないからこそ――選ぶ価値がある。

「……私」

 声が小さくなる。
 喉が乾く。
 でも、言う。

「私は、あなたを救いに来たんじゃない」

 カイゼルの眉が僅かに動く。

「救い、なんて言葉……嫌いでしょ」

 リリアーナは苦笑した。
 怖いのに、笑える。
 笑える自分が、少しだけ強くなった証拠。

「私は、あなたの隣に立つために来た」

 その言葉を言った瞬間、手首の紋章が熱を帯びた。
 強い熱。
 でも痛みではない。
 決意が身体に落ちる熱。

 カイゼルの金の瞳が、揺れた。
 拒絶が崩れる揺れ。
 恐怖が溢れる揺れ。
 そして――望んでしまう揺れ。

「……それでも、俺を選ぶのか」

 カイゼルの声が低く震えた。
 命令じゃない。
 脅しでもない。
 問いだ。
初めて、対等な問い。

 リリアーナの喉が熱くなった。
 涙が滲む。
 でも、拭かない。

「選ぶ」

 短く答えた。
 短いのに、胸が焼けるほど重い。

「でも、あなたの上にも下にもならない」

 その一言で、レオンハルトが目を見開いた。
 神官の表情は変わらない。
 でも空気が変わった。
 封印区画の影が、ほんの少し薄くなった気がした。

 カイゼルは黙ったまま、しばらくリリアーナを見つめた。
 金の瞳が、人間の温度を探しているみたいだった。

「……なら、覚えておけ」

 やっと出た言葉は、硬い。
 でも、拒絶じゃない。

「俺は、お前を失う恐怖を抱えたまま、生きることになる」

 その告白は、愛の言葉よりずっと痛い。
 痛いのに、リリアーナは頷いた。

「私も」

 声が震える。

「でも、恐怖を抱えたままでも――選べるって、知った」

 婚約破棄の夜、彼女は恐怖に飲まれて声を失った。
 今は違う。
 恐怖があっても声を出せる。
 恐怖があっても立てる。

 神官が淡々と告げる。

「儀式は、次の夜。
 花嫁の紋章が完全に開く最終段階に入ります」

 次の夜。
 選ぶ時が近い、の本当の意味がそこにある。

 レオンハルトが低く言った。

「陛下。準備を」

 カイゼルは小さく頷いた。
 頷いただけなのに、世界の歪みが少しだけ緩む気がした。
 孤独が、ほんの一瞬薄くなる。
 拒絶が、ほんの一瞬ほどける。

 リリアーナは封印区画を出る直前、振り返った。
 鎖の金具が床に散らばっている。
 金属の冷たさが、恐怖の形に見えた。

 でも、もう一つ形がある。
 自分の手首の熱。
 選ぶ意志の熱。

 呪いの正体は恐怖。
 恐怖は消えない。
 それでも、共有すれば制御できる。

 リリアーナは胸の奥で、静かに言った。

 ――怖い。
 ――でも、怖いまま愛してしまうのが、私の選択だ。

 その言葉はまだ口には出せない。
 でも、心の中で確かに燃えていた。
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