12 / 20
第12話 噂の火種を踏み消す
しおりを挟む噂は、湿った薪に火をつけるみたいに広がる。
最初は煙だけ。
「なんか聞いた?」
「ほんと?」
そんな軽い息。
でも、誰かが息を吹きかけ続けると、煙はいつの間にか炎になる。炎は顔を持たないくせに、きちんと狙いを定める。
朝、ルーナが部屋に入ってきた時点で、私は察していた。
彼女の歩幅が半歩短い。
目線が私の顔を避ける。
侍女が噂を聞いた時の、あの空気。
「姫殿下……」
「言って」
私は先に言った。
“聞きたくない”と思わせる隙を与えない。
噂は、隙間から入る。
ルーナは唇を噛み、でもまっすぐ報告した。
「王都で……姫殿下の噂が……」
「どんな?」
「……孤児院に入り浸るのは人気取りだ、と。王女の品位がない、と……」
来た。
前世と同じ香り。
違うのは速度だけ。今世の私は動いた。だから向こうも早い。
「他は?」
ルーナが息を呑む。
言いにくいものほど、先に言わせる。
王女の役目は、耳を塞がないことだ。
「……姫殿下の支援先で、小さな揉め事が起きています。施薬院の前で、配給が足りないと……押し合いになって……」
私は目を閉じずに聞いた。
喉の奥がひりつく。
でもこれは毒の痛みじゃない。
“世界がまた同じ形で私を殺しに来た”という痛みだ。
前世の私は、この段階で孤立した。
民に近づいたのに、民の混乱で叩かれた。
貴族は「だから言っただろう」と笑い、父は「空気が悪い」と眉をひそめ、王太子は「穏便に」と濁した。
そして私は譲歩した。
譲歩して、毒を飲んだ。
でも今世は違う。
私は机の引き出しから、小さな帳面を取り出した。
“血の記憶”を書いた日記の横に、別の帳面。
予定表。
噂が撒かれるタイミング。
火種が落ちる場所。
前世の傷跡を、地図みたいに写したもの。
「……やっぱり今日」
私は呟いた。
ルーナが不安げに私を見る。
「姫殿下……どうなさいますか」
「火を消す」
私は立ち上がった。
迷っている暇はない。
迷いは火に油を注ぐ。
「ルーナ、筆記具。あと、配給担当の名簿を。孤児院と施薬院、両方。すぐ」
「はい!」
ルーナが走る。
走る侍女は王城では目立つ。
でも目立っていい。今は。
私は次に、別の封筒を取り出した。
ユリウス卿宛の書簡。
そして、窓辺に小さな石を置く。
カイへの合図。
あの影は、合図だけで動く。
ほどなくしてルーナが戻り、名簿を差し出した。
私はそこに目を通し、赤線を引く。
配給担当の名の中に、宰相府の匂いが混じっているはずだ。
「……いた」
ルーナが覗き込み、顔色を変える。
「この方、宰相府の……」
「うん。火種係」
私は短く言い、ペンを走らせた。
ここで大事なのは“犯人探し”じゃない。
犯人探しは派手で気持ちいい。
でもそれをやると、相手は尻尾を切る。
火種係を切って終わりだ。
必要なのは、火種が燃えない仕組み。
私はルーナに言った。
「施薬院へ馬車を。私は行く」
「姫殿下! 危険です!」
「危険は向こうから来る。なら、こっちから握る」
私がそう言うと、ルーナは悔しそうに眉を寄せ、それでも頷いた。
「……護衛を増やします」
「増やして。でも剣を見せないで。今日は剣じゃなくて、パンが必要」
馬車で王都へ向かう途中、窓の外から声が聞こえる。
噂はもう、煙ではなく炎になりかけている。
「王女さま、人気取りだってさ」
「孤児院に入り浸り? 品がないよな」
「いい顔して、結局は自分のためじゃねぇの」
言葉は軽い。
軽いから、人の心に刺さる。
重い言葉は身構えるけれど、軽い言葉は気づかないうちに入ってくる。
施薬院の前は、人だかりになっていた。
配給の袋を抱えた係員。
苛立つ民。
押し合いへし合い。
泣く子ども。
そして、その輪の外で妙に落ち着いた男たちが、目だけで火を煽っている。
――焚き付け役。
前世でもいた。
腕まくりが妙に綺麗で、靴が新しい。
貧民のふりをした宰相府の手。
護衛が前へ出ようとする。
私は手を上げて止めた。
「止めないで。私が行く」
「姫殿下!」
「大丈夫。今日は“怒鳴る日”じゃない。“配る日”」
私は馬車を降り、人の波の中へ入った。
ざわめきが一瞬で大きくなる。
「第一王女だ!」
「なんでここに……!」
「人気取りだろ!」
飛んでくる言葉。
刺さる。
でも私は刺さったまま立つ。
痛みを顔に出さない。
痛みを出すと、火が燃える。
私は施薬院の担当者に声をかけた。
「配給量は? 今日の予定数は?」
担当者は目を見開く。
「え、ええと……予定は二百世帯分で……」
「実際に来たのは?」
「……三百以上です!」
私は頷いた。
なるほど。
火種の形が見えた。
今日だけ人が多い。誰かが“来い”と煽った。
来させて、足りないを作って、揉めさせる。
王女の支援は混乱を生む、と噂を固める。
私は人々の方を向き、声を張った。
怒鳴るのではなく、通る声で。
「足りないのは事実です。だから謝ります」
ざわめきが少し止まる。
謝る王女は珍しい。
珍しいことをすると、火は一瞬迷う。
「でも、押し合っても増えません。増やすために、今ここで手続きを変えます」
焚き付け役の男が口を開く。
「はぁ? どうせ口だけだろ!」
私はその男を見ない。
見ると“敵”になる。敵になると、戦いになる。
今日は戦いじゃない。修正だ。
私は担当者に指示した。
「今すぐ、配給の列を二つに分けて。子ども連れと、病人優先。名簿を作って、今日来た世帯を記録する。明日、追加分を必ず届ける」
「で、でも……追加分が……」
「私が手配します。今夜、王城の倉から出す。足りない分は買い付ける。ユリウス卿に連絡済み」
ユリウスの名が出た瞬間、周囲の貴族嫌いの空気が少しだけ変わった。
カーヴェイン家は“金で遊ばない貴族”として民にも知られている。
誠実は、こういう時に効く。
私は続けた。
「そして、今後は“来た人に配る”だけじゃなく、“必要な人に届く”仕組みにします。今日の名簿を基に、定期配給を組み直す。毎週、同じ曜日に、同じ量を。足りなければ増やす」
民の中から、女の声が上がった。
「……ほんとに? 毎週?」
「ほんと。約束は“紙”にします」
私はルーナに視線を投げた。
ルーナがすぐに筆記具を取り出し、簡易の書面を作り始める。
現場で書面を作る。
それは“約束”を形にすること。
形にすれば、噂は溺れにくくなる。
焚き付け役の男が、苛立ったように舌打ちした。
彼は火が燃えないことに焦っている。
「こんなの、王女の気まぐれだ! どうせ――」
その言葉が続く前に、別の声が被った。
「黙れよ!」
怒鳴ったのは、痩せた男だった。
服は古い。手は荒れている。
でも目は真っ直ぐだ。
「足りねぇのは事実だ。でも今、王女が目の前で動いてるだろ。口だけじゃねぇ」
ざわめきが、別のざわめきに変わる。
火は一つの方向に燃えない。
風向きが変われば、炎は弱まる。
私はそこで、もう一押しする。
正義ではなく、現実で。
「今日、足りなかった世帯には引換札を渡します。明日、その札と交換で必ず渡す。札の偽造は罰します。……でも、札が必要なほど足りなかったことは、私の責任です」
人々の目が変わる。
疑いから、観察へ。
観察から、期待へ。
期待が生まれると、暴動は“要求”に変わる。
要求は交渉できる。
暴動は燃えるだけ。
だから、要求に変えれば勝ちだ。
その時、人混みの端で、黒い影が動いた。
カイだ。
彼は焚き付け役の男たちの背後を取っていた。
何をしたかは見えない。
でも数分後、煽っていた男の一人が、顔色を変えて離れていく。
火種が回収される。
影の仕事は速い。
配給の列が整い始めた。
泣いていた子どもが、袋を受け取って黙る。
母親が何度も頭を下げる。
私はその頭を下げさせないように、手を振って止めた。
「下げなくていい。受け取って。……生きて」
言葉が震えた。
母の指輪の刻印が、胸の中で光った気がした。
王城へ戻る馬車の中で、ルーナが息を吐いた。
顔が真っ白だ。
「姫殿下……怖かった……」
「怖かったね」
私は彼女の手を握った。
握ると、彼女の指が震えているのが分かる。
私も震えている。
でも震えは悪くない。
怖い場所に立てた証拠だ。
「でも、燃えなかった」
「はい……燃えませんでした」
その夜、ユリウスから書簡が届く。
買い付けの手配が完了したこと。
明日の追加配給が可能であること。
そして、宰相府の商人が市場で妙な動きをしていたこと。
同時に、カイからも短い伝言が届いた。
『火種、回収。焚き付け役、宰相府の紐つき。次はもっと露骨に来る』
私はその紙片を握りしめ、机の上の噂の報告書に目を落とした。
『第一王女は品位がない』
『人気取りだ』
『民に媚びている』
――いい。
噂は好きに言えばいい。
噂は煙だ。
私は火を消した。
煙だけなら、いずれ薄れる。
翌日、施薬院には追加の配給が届いた。
引換札の制度が機能し、混乱は起きなかった。
人々は、昨日より静かに並び、静かに受け取った。
そして、静かに囁いた。
「……王女さま、本当に動いたね」
噂の勢いが落ちる。
代わりに残るのは、事実だ。
“第一王女は、現場で動いた”
“第一王女は、手続きを作った”
“第一王女は、約束を守った”
それが広がれば、宰相の噂は効きにくくなる。
なぜなら噂は、空洞にしか入り込めないから。
現実で埋めれば、噂は居場所を失う。
私は窓を開け、春の風を吸った。
喉の奥が少しだけ痛む。
でもその痛みは、私を怯えさせない。
――前世の私が孤立した日。
――今世の私は、制度を作った日。
私は日記帳に一行だけ書いた。
『火は、叫びで消さない。配ることで消す』
そして、ペンを置いた。
次の火種は、もっと大きい。
宰相は必ず、もっと露骨に動く。
でも私はもう、燃えない。
燃えない仕組みを、私の手で増やしていく。
20
あなたにおすすめの小説
【短編】花婿殿に姻族でサプライズしようと隠れていたら「愛することはない」って聞いたんだが。可愛い妹はあげません!
月野槐樹
ファンタジー
妹の結婚式前にサプライズをしようと姻族みんなで隠れていたら、
花婿殿が、「君を愛することはない!」と宣言してしまった。
姻族全員大騒ぎとなった
『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』
しおしお
恋愛
王太子の秘書官として、陰で国政を支えてきたアヴェンタドール。
どれほど杜撰な政策案でも整え、形にし、成果へ導いてきたのは彼女だった。
しかし王太子エリシオンは、その功績に気づくことなく、
「女は馬鹿なくらいがいい」
という傲慢な理由で婚約破棄を言い渡す。
出しゃばりすぎる女は、妃に相応しくない――
そう断じられ、王宮から追い出された彼女を待っていたのは、
さらに危険な第二王子の婚約話と、国家を揺るがす陰謀だった。
王太子は無能さを露呈し、
第二王子は野心のために手段を選ばない。
そして隣国と帝国の影が、静かに国を包囲していく。
ならば――
関わらないために、関わるしかない。
アヴェンタドールは王国を救うため、
政治の最前線に立つことを選ぶ。
だがそれは、権力を欲したからではない。
国を“賢く”して、
自分がいなくても回るようにするため。
有能すぎたがゆえに切り捨てられた一人の女性が、
ざまぁの先で選んだのは、復讐でも栄光でもない、
静かな勝利だった。
---
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
何か、勘違いしてません?
シエル
恋愛
エバンス帝国には貴族子女が通う学園がある。
マルティネス伯爵家長女であるエレノアも16歳になったため通うことになった。
それはスミス侯爵家嫡男のジョンも同じだった。
しかし、ジョンは入学後に知り合ったディスト男爵家庶子であるリースと交友を深めていく…
※世界観は中世ヨーロッパですが架空の世界です。
私の事を婚約破棄した後、すぐに破滅してしまわれた元旦那様のお話
睡蓮
恋愛
サーシャとの婚約関係を、彼女の事を思っての事だと言って破棄することを宣言したクライン。うれしそうな雰囲気で婚約破棄を実現した彼であったものの、その先で結ばれた新たな婚約者との関係は全くうまく行かず、ある理由からすぐに破滅を迎えてしまう事に…。
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!
ぽんちゃん
恋愛
――仕事で疲れて会えない。
十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。
記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。
そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる