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第22話 数字の向こうの声
しおりを挟む女王の机は、静かに人を殺す。
刃も毒もいらない。ただ紙があればいい。紙の上で、誰かの生活が削られて、誰かの明日が消えていく。
私が玉座に座ったからって、世界が急に優しくなるわけじゃない。むしろ逆だ。今まで「見えない」で済んでいたものが、全部こちらに押し寄せてくる。
朝の執務室。窓は開いているのに空気が重かった。
ルーナが書類を抱えて入ってくる。顔色が少し悪い。夜更けまで働いた顔だ。
「セレス様……本日の分です」
「置いて。ありがとう」
机の上に積まれた書類の山は、前より高い。
女王になったら、紙が減ると思っていた。馬鹿だ。王冠は紙を減らさない。紙の責任が増えるだけだ。
ルーナが言いにくそうに口を開く。
「……陛下、先にご覧いただきたいものが」
「うん?」
ルーナが差し出したのは、薄い紙束だった。
帳簿の写し。数字の列。注釈。署名。印。
私は一枚目を見た瞬間、背筋が冷えた。
「……孤児院と施薬院の、今月の支給記録?」
「はい。新制度に切り替えた分です。現物支給と引換札、定期配給……」
数字は整っている。
整っているのに、どこか気持ち悪い。
私はページをめくった。
次の表、次の表、次の表――どれも「合っている」。
でも、合いすぎている。
「……ルーナ」
「はい」
「この数字、現場の匂いがしない」
ルーナが唇を噛む。
「……わたしも、そう感じました。報告書の文言が、きれいすぎます。泣き声がない、みたいな……」
私は指で表を叩いた。
カツン、カツンと乾いた音。机が硬いほど、音は冷たい。
「数値が揃いすぎている。支給が一日遅れただけでも、文は乱れる。書き直しの痕も残る。……でもこれは、最初から“整った文”で作られてる」
ルーナが小声で言う。
「偽造……ですか」
「偽造、というより……誘導」
私は椅子に深く腰掛け、息を吐いた。
宰相がいなくなった。だから終わり――そんな都合の良い話はない。
腐敗は人の名前じゃない。習慣だ。歯車だ。空気だ。
扉がノックされる。
入ってきたのは、王付き侍従のロランだった。年若いが、所作は正確で、声に無駄がない。
「女王陛下。監査官代理、マルセル卿が参りました」
「通して」
入ってきた男は、四十代半ば。背筋が妙に伸びている。伸びすぎていて、逆に不自然だ。
目は丁寧に私を見る。でも焦点が定まっていない。誰かの顔色を常に探ってきた目だ。
「女王陛下、本日は監査報告を――」
「先に聞きたい」
私は遮った。
柔らかく言う余裕はあった。でも、柔らかくしすぎると、彼は“いつもの政治”に戻る。
今は、手続きを握る。
「孤児院と施薬院の支給記録。現場からの報告が、整いすぎている」
マルセル卿の喉が一度動いた。
「……整っているのは、良いことでは」
「良いことのはずなのに、胃が冷える」
私は淡々と言った。
「誰が書式を統一した? 誰が文言を決めた?」
「え……それは担当の書記が――」
「名前は」
短く言う。
マルセル卿は一瞬迷って、口を開く。
「……アーデン書記官、でございます」
その名に、ルーナの目がわずかに揺れた。
私も覚えがある。宰相府に近い場所で名前が出てきた男だ。派手ではない。だから厄介だ。
「アーデンを呼んで」
「女王陛下、それは――」
「呼んで」
マルセル卿の肩が少し落ちた。命令に逆らう理由を探していたが、見つからなかった顔だ。
「……かしこまりました」
彼が退出し、扉が閉まる。
ルーナが小さく息を吐いた。
「セレス様……本当に、終わってないんですね」
「終わらないよ。終わらせない限り」
机の端に、封印付きの小さな封筒が置かれている。
今朝、窓から滑り込んできた紙片。カイの字。
『空白が埋まる。穴は名前を変える。今は“帳簿の綺麗さ”に気をつけろ』
私は封筒を指で押さえた。
影の忠告は、いつも遅れない。
*
昼前。
アーデン書記官が連れてこられた。
二十代後半。髪は整っている。服もきれい。爪もきれい。
きれいすぎる男は、だいたい現場を知らない。
彼は深く一礼した。
「女王陛下、お呼びと伺いました」
「座って」
私は椅子を示した。
アーデンはわずかに躊躇して座る。躊躇の仕方が上品だ。王城の教育の躊躇。
「この報告書、君が書式を統一したんだって?」
「はい。混乱を避けるために。現場の書き方がばらつくと、監査が――」
「監査がやりやすいように?」
「はい」
嘘ではない。嘘ではないが、正しいとも限らない。
整えるという行為は、必ず何かを削る。
「君は孤児院に行ったことは?」
「いえ。ありません」
「施薬院は?」
「いえ。……必要でしょうか。記録さえ正確であれば」
私は少しだけ笑った。笑ったけれど、温度は低い。
「記録が正確でも、現実が正確じゃなかったら、記録は嘘になる」
アーデンの眉がわずかに動く。理解できない顔だ。
「女王陛下、記録は事実を写すものです」
「違うよ」
私は言い切った。
「記録は、事実を“選ぶ”」
アーデンの背筋が固くなる。
彼はここで初めて、私が“敵”を探していないと気づいたはずだ。
私は仕組みを見ている。だから逃げ道が少ない。
私は紙束を一枚抜き、彼の前に置いた。
「この報告。配給の列が乱れた件、書いてないね」
「乱れは……なかったと」
「現場の引換札の回収記録には、『押し合いあり』って書いてある」
ルーナが別紙を差し出す。
アーデンは一瞬固まって、言葉を探した。
「……些末な混乱は、記録に残すと不安を煽ります」
「不安を煽るのは、混乱があるのに、ないことにすること」
私は淡々と言った。
「君の書式は、“不安”を削っている。削った分、噂が増える。噂は穴から入る。穴は君が作ってる」
アーデンの喉が鳴る。
汗が額に浮く。若いのに、逃げ道を探すのが上手い。誰かに教わった逃げ方だ。
「女王陛下、私は国の安定のために――」
「“安定”って言葉を使う人ほど、現場を見てない」
私の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、刃になる。
「君がやるべきことは二つ。ひとつ、書式を変える。現場の声を削らない書式に。ふたつ、現場に行く。今日」
「……女王陛下、私が?」
「行くのは君だけじゃない」
私は立ち上がった。
「私も行く」
ルーナが息を呑む。
「セレス様……!」
「剣じゃない。目で行く」
私はアーデンを見る。
「君は数字を信じるんでしょ。なら、数字の匂いを嗅ぐべきだ」
アーデンは、やっと小さく頷いた。 頷きの角度が浅い。まだ反発がある。でも今日はいい。反発があるまま歩かせる。
*
午後、王都外れの施薬院。
建物は古く、壁の漆喰が剥げていた。 入口には、既に列ができている。前より静かだ。でも、静かすぎる。声が抑え込まれている静けさだ。
私が馬車から降りると、ざわめきが起きる。
「女王さまだ……」
「ほんとに来た……」
“ほんとに”。 それが胸に刺さる。 当たり前をやっても、当たり前じゃないと言われる国にしてしまったのは、王家の責任だ。
施薬院の管理者が駆け寄ってきた。 目の下に影。疲労が染みついている。
「女王陛下……ご足労を……!」
「頭を下げなくていい。状況を見せて」
管理者は一瞬戸惑って、でも頷いた。
「はい……こちらです」
私は列の横を歩く。
子どもが母親の裾を握っている。咳が湿っている。老人の手が震えている。 数字の中で「一」と書かれる人間の匂いが、ここにはある。
後ろで、アーデンが立ち尽くしている。 顔色が変わっている。初めて「紙の外」を嗅いだ顔だ。
「……思ったより……」
「汚い? 怖い?」
私が聞くと、アーデンは言葉を失った。
「……音が、違う」
彼はやっとそう言った。
偉そうな言い訳じゃない。驚きの言葉だ。そこは評価できる。
「そう。音が違う。ここでは、咳が記録より先に来る」
管理者が低い声で言う。
「陛下……実は、今朝から薬が少し足りません」
「どの薬が」
「解熱と……鎮咳です」
私は足を止めた。
「仕入れの遅れ?」
「……仕入れ先が、急に変わったのです。『新しい流通の都合』と」
嫌な匂いがした。
宰相が消えた後の、空白に入り込む歯車。薬草流通の穴。
私はアーデンを振り返る。
「この“急な変更”は報告書に?」
アーデンは顔を青くして首を振った。
「……入っていません。書式に……」
「書式にないなら、現実が消える」
私は淡々と告げた。
その時、列の端で小さな揉め声が起きた。
若い男が、係員に詰め寄っている。
「薬が足りねえって、どういうことだよ! この前はもらえたんだ!」
係員が怯えた声で言う。
「す、すみません……次の便で……」
「次っていつだよ!」
空気が揺れる。
火種が、また顔を出す。
私は前へ出た。
護衛が身構えるのが分かった。でも私は手で制した。
「怒鳴らない日」
そう言って、男の前に立つ。
「足りない。そうだね」
男が私を見て、言葉を詰まらせる。 女王の前で怒鳴るのは怖い。だから怒りが別の形になる。黙り込むか、噛みつくか。
彼は噛みつく方を選んだ。
「だったら、なんとかしろよ! 女王だろ!」
刺さる言葉。
でも、それでいい。
要求は交渉できる。沈黙は腐る。
「なんとかする」
私は即答した。
「今ここで、二つ決める。ひとつ、今日足りない薬は、王城の備蓄から回す。今日中に」
ざわめき。
管理者が目を見開く。
「陛下……備蓄は……」
「備蓄は“飾り”じゃない。使うためにある」
私は続けた。
「ふたつ、仕入れ先の変更を止める。勝手に変えた手続きを戻す。監査官に回す」
男の目が揺れる。
期待と疑いの間で揺れる。
「……ほんとかよ」
「約束は紙にする」
私はルーナに目配せした。
ルーナがすぐに筆記具を出す。彼女はもう迷わない。現場で紙を作る速度を覚えた。
アーデンが小さく言った。
「女王陛下……それは……その場で決めていいものでは……」
「いいよ。責任は私が取る」
アーデンが固まる。
彼は「責任を取る」と言う人を見たことがないのだろう。責任はいつも、下に落ちる。そういう世界で生きてきた顔だ。
私は彼を見た。
「あなたはこれを、記録に残して。削らずに」
アーデンは、震える声で答えた。
「……はい」
列の空気が少しだけほどける。
怒りが要求に変わる。
要求は、約束で受け止められる。
私は管理者に聞いた。
「仕入れ先が変わったのはいつ?」
「三日前です」
「誰の指示?」
「……書面は宰相府印ではありません。ですが、流通組合の印が……」
流通組合。
宰相が握っていた場所だ。宰相が消えたからって、組合が清くなるわけがない。
歯車は回り続ける。回し方を変えない限り。
私は息を吸った。
「アーデン」
「はい」
「あなたの仕事、増えた」
彼は怯えた顔をした。
でも私は続ける。
「あなたに、現場の欄を作らせる。数字の欄じゃない。声の欄。遅れた理由、足りない理由、怖かった理由、揉めた理由。……全部」
アーデンは、口を開けたまま固まった。
「そんなもの、監査の対象に……」
「する」
私は言い切った。
「声は、穴を塞ぐ材料になる」
その瞬間、列の中の老女が、小さく言った。
「……声なんて、今まで聞かれたことなかったよ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重い。重いのに、必要な重さ。
私は老女に向けて頷いた。
「これからは、聞く。聞いて、残す」
*
夕方、王城へ戻る馬車の中。
ルーナが書面を膝に置き、疲れた顔で笑った。
「セレス様……今日、また火が消えました」
「火は消えた。……でも、煙が出てる」
私は窓の外を見る。
夕焼けが王都の屋根を赤く染めている。
赤は血の色に似ている。
でも私は血を流したくないから、紙に赤線を引く。
アーデンが小さく言った。
「女王陛下……私は、間違っていたのでしょうか」
その声は、負け惜しみじゃない。 本気で問う声だ。
「間違い、というより……片側しか見てなかった」
私は答えた。
「数字は必要。数字がなければ、盗まれる。でも数字だけだと、人が消える。……消えた人は、噂になって戻ってくる」
アーデンはしばらく黙って、やっと言った。
「……怖かったです。ここは」
その一言が、彼を少しだけ変えた。 怖いと言えた男は、嘘を削りにくくなる。
「怖いままでいい」
私は言った。
「その怖さを、書ける人間にする」
馬車が王城の裏門をくぐる。
石の匂いが戻ってくる。
私は机に戻る。紙の戦争に戻る。
でも今日は、ひとつだけ違う。
数字の向こうに、声が付いた。
*
夜。
執務室に戻ると、窓枠に小さな石が当たった。
カツン。
私は窓を開ける。
紙片が滑り込む。
『薬草流通の穴、動いた。組合に宰相残党。名簿取った。あと、港町で“王女の妹”の噂、早い。誰かが追ってる』
胸が冷えた。
ミレイアの背中に、また影が伸びている。
私は紙片を握りしめた。
拳の中で、紙がくしゃりと鳴る。
「……ルーナ」
「はい」
「港町への連絡網を作る。名前を変えた移動記録を、監査とは別枠で。……ミレイアを、見えない形で守る」
ルーナが頷く。迷いはない。
「はい。すぐに」
私は机に向かい、ペンを取った。
今日見た咳。
今日聞いた怒鳴り声。
今日こぼれた老女の一言。
それらが、紙の上に乗る。
数字だけの国は、静かに腐る。
声が残る国は、うるさい。
でも、うるさい国の方が生きている。
私は赤線を引いた。
ここで止める。
ここで塞ぐ。
ここで守る。
そして、紙の一番上に、新しい項目を書き足した。
――「現場の声」。
女王の机は、静かに人を殺す。
だから私は、その机で、静かに人を生かす。
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