妹に全て奪われて死んだ私、二度目の人生では王位も恋も譲りません

タマ マコト

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第23話 港町の偽名、追手の足音

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 海の匂いは、嘘を洗い流してくれると思っていた。

 塩気は強くて、風は冷たくて、どんな言葉も乾かしてくれそうなのに。 
 海辺の町にだって、嘘はある。 
 むしろ嘘は、潮に溶けて目立たなくなるぶん、厄介だ。

 夜の執務室。 
 机の上には「現場の声」の欄が増えた帳票が積まれている。
  紙が増えるほど、国が生き返る音がする。 
 同時に、紙が増えるほど、追われるものも増える。

 窓枠に当たった小石の音が、まだ耳の奥に残っていた。

『港町で“王女の妹”の噂、早い。誰かが追ってる』

 私は紙片を机の端に置いたまま、ルーナを見た。

「ルーナ。港町はどこまで“こちら”の手が届く?」

 ルーナは即座に答えない。 
 手元の帳面を開き、指で走らせ、息を整えてから言った。

「……王城直轄の連絡員は二人います。港の税関と、灯台の管理所です。あと、ユリウス卿の商会が倉庫を一つ」

「足りないね」

「はい」

 足りない。 
 でも足りないなら増やす。 
 火種は、空白に落ちる。

 扉がノックされる。
  入ってきたのは王付き侍従、ロランだった。いつも通り背筋が真っ直ぐで、声に揺れがない。

「女王陛下。至急の件と伺いました」

「ロラン。港町へ人を回したい。目立たない形で」

「承知しました。目的は?」

 その質問の仕方が、侍従として正しい。 
 同時に、ロランが“こちら側”に立つ覚悟を確認しているのが分かる。

「二つ。薬草流通組合の動きを見張ること。もう一つ――」

 私は一瞬だけ言葉を止めた。 
 妹の名前を、紙の上で増やすのは危険だ。

「……“若い女”が追われている。保護する。ただし本人に気づかせない」

 ロランの眉がわずかに動く。 
 理解した合図。

「目立たぬ護衛。密偵ではなく、周囲を固める形で。よろしいですか」

「うん」

 私は机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。 
 王印のある封筒ではない。白紙のように見えるが、内側に暗号の符丁がある。 
 表の手続きと、裏の手続き。 
 どちらも必要な国にしてしまったのは、私たちだ。

「ロラン、これを持って。港の税関係に渡して。合言葉は“潮の上に紙は浮かぶ”」

「……承知」

 ロランは封筒を受け取る。 
 受け取る指が微かに硬い。 
 怖いはずだ。王冠の近くで働く者ほど、怖さを知っている。

 私は言った。

「怖いなら怖いままでいい。目を逸らさないで」

 ロランは一瞬だけ目を伏せ、そしてまっすぐ頷いた。

「はい、陛下」

 ロランが退出しようとしたところで、ルーナが慌てて言った。

「ロラン様、護衛の人数は……!」

「二名。港町では三名に増やす。武器は見せない。財布は多めに持つ」

「……財布?」

 ロランは淡々と言う。

「剣より食事のほうが、口は開きます」

 ルーナが小さく息を呑んだ。 
 私も少しだけ笑いそうになった。  ロランは冷たい顔で、現実を知っている。

 扉が閉まる。

 ルーナが不安げに言った。

「セレス様……ミレイア様は、見えない形で守られるの、嫌がるかもしれません」

「嫌がっていい」

 私は机に指を置いた。 
 紙が冷たい。

「嫌がれるのは、生きている証拠。嫌がる自由は奪わない。でも、殺される自由も渡さない」

 ルーナは唇を噛んで、頷いた。

「……はい」

 その時、窓がほんのわずかに鳴った。 
 小石ではない。影が触れた気配。

 私は窓辺に行き、鍵を外さずに、ほんの少しだけ隙間を作る。

 冷たい風と一緒に、低い声が落ちた。

「動いたな」

 カイだった。 
 外の闇に溶けているのに、声だけはくっきり耳に入る。

「動く。港の噂が早すぎる」

「追ってるのは二つだ」

 カイは短く言う。

「組合の残党と、宰相の“箱”に触れた奴ら」

 胸の奥が冷える。

「箱?」

「宰相が消えても、消えるのは本人だけだ。残るのは帳簿と名簿と“仕込み”だ。……港には仕込みがある」

 私は窓の隙間から闇を見た。 
 見えないのに、そこにいるのが分かる。

「ミレイアを追ってるのも、その仕込み?」

「可能性高い。あいつらは人を人として見ない。駒として見る」

 私は息を吸った。 
 怒りが湧く。でも怒りの矛先を間違えない。

「潰すのは人じゃない。仕込みの仕組み」

「そう言うと思った」

 カイの声に、ほんの少しだけ熱が混じる。

「じゃあ、俺は港に先に入る。ロランの動きと合わせる。……女王はここにいろ。お前が消えたら全部崩れる」

「分かってる」

 私が答えると、カイは一拍置いて言った。

「……妹は、怖がってる」

 その一言が、胸に刺さった。 
 怖がっているのは分かる。 
 でも怖がっているからこそ、彼女は歩いた。 
 檻の外へ。

「怖いままで歩ける子になった。だから守る」

「守り方を間違えるなよ」

 カイが言って、気配が薄くなる。  窓の隙間に風だけが残った。

 *

 港町、翌日。

 潮の匂いと、人いきれと、魚の生臭さ。 
 その全部が混じって、生活の匂いになる。

 ミレイアは、フードを深くかぶり、荷車の横を歩いていた。 
 名は捨てた。 
 飾りも捨てた。 
 でも、癖は捨てきれない。

 背筋が伸びすぎる。 
 歩幅が上品すぎる。 
 声を出す前に一度呼吸を整える
王女の癖は、身体に染みついている。

「ねえ、そこの子」

 魚屋の女が声をかけた。 
 腕まくりをしていて、手が荒れている。笑い方が豪快だ。

「荷運び手伝える? 今朝は人手が足りないのよ」

 ミレイアは一瞬固まって、それから頷いた。

「……できます。やります」

 声が少しだけ高い。 
 でも嘘ではない。

「じゃあ、これ持って」

 渡された籠は重かった。 
 指が痛い。 
 肩が軋む。 
 でも痛いのが、今はありがたい。  痛いから、ここが現実だ。

 籠を運びながら、ミレイアは気づいた。 
 誰かの視線が、一定の距離でついてくる。

 露骨じゃない。 
 ただ、潮の流れみたいに、少しずつ近づいてくる。

 ――怖い。

 喉の奥が乾く。 
 でも走らない。 
 走ったら、追手に「当たり」だと教える。

 港の倉庫街に差しかかった時、男が二人、道を塞ぐように立っていた。  服は作業服のふりをしているが、靴が新しい。 
 手が綺麗。 
 目が冷たい。

「嬢ちゃん、荷物運びか?」

 片方が笑う。 
 笑い方が、宰相府の廊下の匂いに似ていた。

「……そうです」

 ミレイアは低く答えた。
  声が震えないように、舌の裏を噛む。

「大変だなぁ。働き者は好きだぜ」

 男が一歩近づく。 
 距離が近い。 
 近いと、逃げ道がなくなる。

「ちょっと話せよ。南の船で働き口がある。いい給料だ」

 甘い。 
 甘い檻の匂い。

 ミレイアの背中に冷たい汗が流れた。 
 昔の自分なら、頷いていた。 
 守られる匂いに、頷いていた。

 でも、今は違う。

「……結構です」

 言えた。 
 断る言葉が出た。 
 その瞬間、男の笑顔が少しだけ剥がれる。

「結構、って」

 男の声が低くなる。
  低くなると、脅しになる。

 ミレイアの膝が震えた。 
 怖い。怖い。怖い。 
 でも、怖いままで――止まらない。

 籠を抱えたまま、彼女は一歩退いた。  退いた先に、もう一人の男が回り込む。

「逃げなくていい。話だけだって」

 話だけ。 
 その言葉が一番怖い。
  話だけで、人生が決まるのを知っている。

 その時、横から声が飛んだ。

「おい」

 低い声。 
 港の男の声ではない。 
 冷えた夜の声だ。

 倉庫の影から、黒い外套が剥がれ出る。 
 カイだった。 
 海の光の中でも、彼は影のまま。

「……なんだお前」

 男が苛立つ。

 カイは男を見ない。 
 ミレイアの籠に視線を落とす。

「それ、魚屋の婆さんの籠だろ。落とすな。あとで殴られる」

「は……?」

 ミレイアが呆けた声を出す。
  カイは淡々と続けた。

「嬢ちゃん、そこの角曲がれ。魚屋の店がある。婆さんが待ってる」

 ミレイアは状況が飲み込めない。  でも、カイの声には逆らえない種類の確かさがある。

「……はい」

 ミレイアが動こうとした瞬間、男が腕を伸ばす。

「待て!」

 その腕が伸びた瞬間、別の腕が挟んだ。 
 ロランだった。

 いつの間にか、作業服姿でそこに立っている。 
 顔は変わらない。所作だけが港の男に寄っている。

「お客さん。ここは荷の通り道です。揉めるなら市場の外で」

「誰だよ、お前ら」

 男の目が泳ぐ。 
 泳ぐ目は、組織の末端の目だ。

 カイがようやく男を見る。 
 目が冷たい。夜より冷たい。

「仕込みが雑だ」

 男の肩が跳ねる。 
 その言葉が何を指すか分かった顔だ。

「な、何の話だ」

「流通組合の名簿、もう握ってる。お前の名前もある」

 カイは淡々と言った。 
 嘘ではない匂いがする。 
 男の顔色が変わる。

「……っ」

 もう片方の男が、舌打ちして後ろへ下がろうとする。

 その背後で、港の税関係の男が現れた。 
 肩章は見せないが、目が職人の目だ。

「この辺で揉め事は困る。荷が止まる」

 税関係の男が言う。 
 その言葉は港では命令に近い。 
 荷が止まると、町が止まる。

 男たちは一瞬で判断した。 
 ここはもう“釣れない”。

「ちっ……」

 捨て台詞もなく、潮に紛れるように消える。

 残ったのは、ミレイアの荒い息だけだった。

 ミレイアは籠を抱えたまま、動けずにいた。 
 指が白い。力を入れすぎている。

 カイが言う。

「息しろ」

「……してる」

「してない」

 ミレイアは、やっと息を吐いた。  吐いた瞬間、涙が出そうになる。 
 でも泣かない。 
 泣いたら戻る気がする。

「……なんで」

 ミレイアが絞り出すように言った。

「なんで、ここに……」

 ロランが一歩前に出て、淡々と答えた。

「仕事です」

 嘘ではない。 
 でも、それだけではない。

 ミレイアが唇を噛む。

「……お姉さまが」

 ロランは返事をしない。 
 返事をしないことが、答えになる。

 カイが短く言った。

「守られてると思うな。囲われてると思え。囲われてるなら、隙を作るな」

 ミレイアの胸がきゅっと縮む。 
 でもその縮みは、甘い檻の鎖じゃない。 
 現実の緊張だ。

「……分かった」

 ミレイアは小さく頷いた。 
 それから、籠を抱え直す。

「婆さん、待ってるんでしょ」

 カイが一瞬だけ目を細める。 
 褒めていない。評価だ。

「そうだ。走れ」

「走らない。籠落とす」

「じゃあ早歩き」

「それならできる」

 ロランが小さく咳払いした。

「……まずは店へ。今夜、宿も変えます。名も、もう一つ用意しました」

「名、また変えるの?」

 ミレイアが苦笑する。 
 苦笑できるだけ、さっきより生きている。

「変えます」

 ロランは即答した。

「名は鎧です。鎧は擦り減ります。擦り減ったら替える」

 ミレイアは、少しだけ目を見開いた。 
 王城では聞いたことのない種類の言葉。
  冷たいのに、優しい。

 *

 夜。 
 王城の執務室。

 私はまだ机に向かっていた。 
 赤線を引く。 
 現場の声欄に、新しい書式の注意事項を書き足す。

 扉がノックされる。

「女王陛下。ロランより伝言です」

 伝言役の下級侍従が、封筒を差し出した。 
 封筒の角が少しだけ湿っている。港の空気だ。

 私は封を切り、短い報告を読む。

『対象は無事。追手は組合系。影の協力あり。宿と名を変更。今夜、税関経由で警戒網を敷設』

 胸の奥の冷えが、ほんの少しだけほどける。

 ルーナがそっと言った。

「……守れましたね」

「今日はね」

 私は答えた。 
 守れたことに酔わない。 
 酔った瞬間、足元が滑る。

 机の上の紙片――カイの名簿の話が頭の中で鳴る。

「ルーナ、流通組合の監査を前倒しする。表向きは“医療供給の安定化”。名簿は――」

「……記録官に回しますか?」

「いいや」

 私は首を振った。

「まだ早い。今は“穴の形”だけを変える。中身が逃げないように」

 ルーナが頷く。

「はい」

 その時、別の扉がノックされる。  今度はロランではない。 
 重い気配。

「陛下。王太子殿下が、面会を求めております」

 告げたのは侍従長代理のマルセル卿だった。 
 背筋が固いまま、目だけが揺れている。

 私はペンを置いた。 
 このタイミングで来るのは、偶然じゃない。

「通して」

 扉が開き、アレクシスが入ってきた。  王太子の衣は整っている。 
 でも目の下に影がある。眠れていない影だ。

「……女王陛下」

 その呼び方がまだぎこちない。 
 ぎこちないのは、悪いことじゃない。 
 慣れは腐敗の入口になる。

「どうしたの」

 私が聞くと、アレクシスは一瞬言葉を探し、やっと言った。

「港町の件……噂が、王城にも届き始めています」

 やっぱり。 
 噂は潮より早い。

「止めたい?」

「……止めたい。けれど、止め方が分からない」

 彼の声は弱い。 
 でも弱い声で来たのは、前より進んでいる。

 私は机の端を指で叩いた。

「止め方は二つある。燃やすか、塞ぐか」

「……塞ぐ」

 アレクシスが答える。 
 私の言葉を覚えている。 
 それだけで、少しだけ救われる。

「なら、港の税関と組合に“手続き”で圧をかける。剣じゃなく、紙で。あなたの名前を使う」

 アレクシスが目を見開く。

「僕の……?」

「あなたは王室補佐官でしょ。いま、あなたの役目は“私の背中を支える骨”になること」

 アレクシスの喉が動く。 
 逃げ道を探す癖が、まだ残っている。  でも、今夜は逃げない。

「……何をすればいい」

 私は紙を一枚取り出し、彼の前に置いた。

「港の“臨時医療供給会議”を招集する起案に副署して。女王の委任状も添付する。表向きは供給の安定。実際は、組合の穴を塞ぐ」

 アレクシスは紙を見つめる。 
 指が震えている。 
 震えながら、彼はペンを取った。

「……分かった」

 署名の音が、静かに響く。

 紙の上で、また一つ、歯車が噛み合う音がした。

 アレクシスは息を吐いて、ぽつりと言った。

「怖い」

 私は顔を上げた。

「うん」

「怖いけど……やる」

 その言葉は、彼の初めての“自分の足”だ。

「なら大丈夫」

 私は短く言った。 
 励ましすぎない。 
 励ましは依存になる。

 アレクシスが去り、扉が閉まる。

 ルーナが小さく言った。

「……陛下、少しずつ、周りが変わっていきますね」

「変えるのは制度。変わるのは人」

 私はペンを取り直した。

 港には影がいる。 
 港には噂がいる。 
 港には仕込みがいる。

 だから私は、紙を増やす。 
 声の欄を増やす。 
 鎧になる名前を増やす。 
 逃げ道を消す手続きを増やす。

 女王の机は、静かに人を殺す。

 だから私は、その机で、
 静かに、追手の足音を消していく。
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